大久保利通(大久保正助、大久保一蔵)~詳細版~日本史上最高の政治家


スポンサーリンク
スポンサーリンク

大久保利通について、できる限り詳しくご紹介したい。
大久保利通(おおくぼとしみち)は、1830年8月10日、薩摩国鹿児島城下高麗町(現・鹿児島県鹿児島市高麗町)にて生まれた。
父は、琉球館附役の薩摩藩士・大久保利世(大久保次右衛門利世・大久保次右衛門)。
母は、皆吉鳳徳の次女・福(フク)。
両名の長男として生まれたが、姉が4人の末っ子。
幼名は正袈裟(しょうけさ)と称した。

スポンサーリンク


貧しい下級武士の生まれ

下記の写真は、大久保利通が生まれた鹿児島の誕生地となる。

大久保家は薩摩藩でも御小姓与と呼ばれる下級藩士で貧しく、幼少の頃に高麗町から甲突川の北岸となる加治屋町(下加治屋町方限)に移住した。(下記写真)

この下加治屋町は、島津藩でも150石以下の下士が住む町であったが、薩摩藩特有の師弟教育である郷中教育を受け、西郷隆盛、税所篤、吉井友実、海江田信義らと共に藩校・造士館で学問を学び親友となった。

父・大久保利世は、当時としては変わった人物で、身分意識がなく百姓・町人との付き合いも頻繁であったという。

また陽明学や禅に好み、まだ少年だった西郷隆盛などは頻繁に近所の大久保家を訪れ、話を聞くことが楽しみだったと言われる。

大久保利通は、胃が弱かったため武芸は得意ではなかったが、討論や読書などの学問は郷中のなかで抜きん出ていたと言う。

1844年、元服すると通称を大久保正助(しょうすけ)、諱は利済と名乗った。
1846年、学問も優秀であり17歳で記録所役助に抜擢された。

ここまで順調に育った大久保利通であったが、1849年、島津藩主・島津斉興と、その世子・島津斉彬との間に起きた、後継者争いに端を発する高崎崩れ(お由羅騒動)事件に連座し、1850年、父・大久保利世が喜界島へ島流しとなった。
当然、大久保利通も謹慎処分を受け、大久保家は一転して無収入の貧困生活に陥った為、母・福が内職で家計を助けたという。
現存する大久保利通の最古部類の手紙は、この頃の借金依頼の手紙が多い。
 
謹慎中は勉学に励みながら、西郷隆盛、吉井友実、伊地知正治らと読書会なる会合を行なうようになり、後の「精忠組」へ発展していき、5年間の謹慎により忍耐力・持続力を養う事となる。

高崎崩れ後の巻き返しに成功した島津斉彬が藩主に就任し1853年5月、ようやく謹慎を解かれて記録所に復職した。
父・大久保利世も1854年7月に許されて、翌1855年2月に鹿児島に戻っている。その後、父・大久保利世は1863年に死去。(70歳)
ちなみに、この父の沖永良部島での島妻・筆の子孫に、シンガーソングライター「トイレの神様」で有名な植村花菜がいる。

薩摩藩主に従い頭角を現す

藩主に就任した島津斉彬は、幕政への積極的な介入や、集成館事業など斬新な政策を打ち出し、下級士族からでも優秀な人材登用を行い、1857年10月1日、西郷隆盛と共に徒目付となった他、精忠組の領袖として活動した。

1857年12月には、薩摩藩士・早崎七郎右衛門の次女・満寿子と結婚。
満寿子との間には長男・大久保利和、次男・牧野伸顕、三男・大久保利武、五男・石原雄熊、長女・芳子が生まれた。
また、のちには妾として、京都の祇園に おゆう がおり、おゆうとの間には四男・大久保利夫、六男・大久保駿熊、七男・大久保七熊、八男・大久保利賢が生まれている。

1858年、違勅調印による通商条約の締結と、安政の大獄に反発した島津斉彬は5000人の藩兵を引き連れ上洛し、朝廷に攘夷論を放棄させたうえで、幕政改革の勅許を引き出す計画を立てたが、直前の7月、急病により死去した。

藩全体に閉塞感の漂う中、大久保ら精忠組は、脱藩して大老・井伊直弼ら幕閣を襲撃する突出計画を立てる。
その一方で失脚した西郷隆盛に代わって、島津斉彬の遺言により、島津斉彬の異母弟・島津久光への接近を試み、税所篤の助力もあり、1860年3月11日、重富邸にて島津忠教と初めて面会すると、閏3月、勘定方小頭格に就任。藩主から存在を認知された事に感動した精忠組一同は突出計画を思い留めた。

島津久光は藩内の上洛反対派を更迭すると、1861年10月23日、大久保利通を御小納戸役に抜擢し藩政に参与させ、家格も一代新番に昇格させた。
こうして、島津家の家老・小松帯刀と共に藩政の中枢に躍り出る。

1862年1月、島津久光から朝廷工作を命じられた大久保利通は、島津家と縁戚関係のあった近衛忠房と面会して協力を求めたが失敗。

藩内においては上洛反対論が根強いところに、精忠組が過激化して率兵上洛を利用し討幕運動の端緒にしようと画策し始めたた。
しかし、当時の大久保利通や島津久光の考えは公武合体論であり、討幕は考えていなかったが、このまま計画を実行に移すと過激派の暴発が起きる可能性が生じていた。

ここで過激派を抑える事ができる人物として、島流しになっていた西郷隆盛を大久保利通は島津久光に復職させるよう進言した。

しかし、帰還した西郷隆盛は、逆に事前準備の不備を指摘され、島津久光と面会した際にも公武合体を反対した事から、島津久光の勘気を被ったが、大久保の執念の説得で何とか西郷隆盛の協力を取り付けることに成功した。

なお、1861年12月15日~1862年1月中旬まで、島津久光から大久保一蔵(いちぞう)の名を賜り、通称を改めている。

1862年3月13日、島津久光はまず先発隊として、西郷隆盛を下関に向かわせた後、3日後に藩兵1000人余を率いて上洛を開始し、大久保利通、小松帯刀もこれに随伴。

各藩の攘夷派志士がこれに呼応して大阪・京都に集まり、精忠組の過激派もこれを機に討幕挙兵にまで持ち込もうと、島津久光の到着を待ち望んでいた。

こうした過激派の動きを察知した西郷隆盛は、待機命令を無視して大阪に先行したが、命令無視に加えて過激派を扇動しているのではないか?と疑惑を持たれる事となり、島津久光は西郷隆盛を処罰することに決した。
これに対して、大久保利通は、西郷隆盛が処罰を受けずに、過激派と共に暴走するのではと考え、西郷隆盛を海辺に連れて行き、罪を受ける気が無いのなら、今ここで共に自刃しようと、命がけで申し出たと言う。
かつて僧・月照と心中を図るも蘇生した事を天命と考えていた西郷隆盛は、ここで自分たちが死ぬのは犬死にだと言い、甘んじて処罰を受ける事となり、鹿児島に返された。

京都の過激派を抑えられる西郷隆盛が居なくなると、有馬新七らが京都伏見の旅館・寺田屋に集結し、和宮降嫁に協力的だった関白・九条尚忠や京都所司代の屋敷への襲撃を画策する。

そんな最中、あくまでも公武合体の島津久光が京都に到着し、大久保利通が寺田屋に出向いて説得を試みるも効果は無く、有馬新七、柴山愛次郎、橋口壮介らは上意討ち已む無しとなり、1862年4月23日夜、同士討ち(寺田屋事件1回目)が発生した。
9名が死亡し、生き残った薩摩藩士は国元へ送還され謹慎。他藩の関係者も引渡しとなり、薩摩藩内部の尊攘激派は壊滅した。

幕政改革を目指すも

寺田屋での過激派鎮圧によって、朝廷から信任を得た島津久光は、朝廷への建白で幕政改革と称し、越前・福井藩の松平春嶽を大老にして、徳川慶喜を将軍後見職へ就任させる為の勅命を要求した。
また、大久保利通も、朝廷の有力公卿・岩倉具視と初めて面会して協力を求めている。

5月21日、念願の勅許が下り、この勅許は「三事策」と呼ばれているが内容は以下の通り。

(1) 幕府は速やかに将軍・徳川家茂を上洛させ、朝廷と攘夷について協議する。
(2) 豊臣氏の例に倣い、薩摩・長州・土佐・仙台・加賀の沿海五大藩を五大老とし、国防・攘夷に当らせる。
(3) 徳川慶喜を将軍後見職に、松平春嶽を大老とする。

この三事策のうち、薩摩藩の要望は3番のみで、1番は尊攘派とその背後にいる長州藩、2番は岩倉具視による発案となっている。

5月22日、公卿・大原重徳が勅使に任命され、これを護衛する形で島津久光率いる薩摩軍が江戸下向を開始した。
なお、この間の5月20日に大久保は御小納戸頭取に就任し、小松帯刀、中山中左衛門と並んで島津久光の側近となった。

江戸幕府の老中・板倉勝静らは当初、勅命受け入れに難色を示したが、大久保利通(大久保一蔵)が「勅命に応じねば変に及ぶ」旨を伝えると勅命受け入れを決定したと言う。
こうして、島津斉彬以来の薩摩藩の方針であった幕政改革が成功したが、京都に戻る途中、生麦事件が起こってしまった。
島津久光の行列が生麦村を通過した際、イギリス人観光客4名が、馬に乗って行列に割り込んでしまった為、薩摩藩士がイギリス人1名を切り殺してしまったのである。
当然イギリス側は謝罪と賠償を要求したが、薩摩藩は受け入れず、約1年後に起こる薩英戦争の引き金となった。

島津久光や大久保利通が京に戻ると、既に尊王攘夷派が勢力を拡大しており、岩倉具視も罷免されて出家、隠居に追い込まれていた。
朝廷に意見書を出しても受け入れられず、薩摩軍はそのまま帰郷した。

1863年2月10日には、御側役(御小納戸頭取兼務)に昇進し薩摩藩の最高幹部となる。

しかし、6月27日、イギリス軍艦7隻が鹿児島の錦江湾に現れると、イギリスと交渉するも難航し、大久保利通が作戦指揮を取り砲撃を開始した。
なんとか撃退するも鹿児島の被害は甚大となり、この戦闘で西洋列強の強さも自覚した薩摩藩は、元々攘夷派ではなかったが、攘夷が無謀な事を思い知らされる。
また、薩摩藩の行動力や交渉能力をイギリスも認めて、以降、イギリスは幕府よりも薩摩藩に接近することとなった。

その後、薩摩藩は孝明天皇から攘夷派排除の勅命を受けていたことから、会津藩と提携。
八月十八日の政変にて西郷隆盛率いる薩摩藩兵らも加勢し、京都から長州藩を追放した。
そして、徳川慶喜・松平春嶽・山内容堂・伊達宗城ら公武合体派の諸侯が続々と入京すると、島津久光と大久保利通も10月3日に15000の大兵力にて入京。

しかし、徳川慶喜が薩摩藩の動きを警戒すると、公武合体運動に行き詰まり、再び西郷隆盛の待望論が藩内で浮上して、島津久光も復帰を認めた。

1864年3月、さっそく西郷隆盛は京都に入ると、御軍賦役に任命され、まず無用と判断した会津藩との連携を破棄し、情報収集や軍の教練に努めた。
6月に池田屋事件、7月に禁門の変と慌しく情勢が変化していく中、大久保利通は鹿児島で長州藩への処罰に関する朝廷への建言書を書き上げたり、京都の西郷隆盛と書簡で連絡を取り合うなど留守役に徹している。

第1次長州征伐後、権力回復を目指す幕府の動きが活発化すると、1865年1月25日、大久保利通は京に赴いて朝廷に働きかけ、江戸から京に来た老中を追い返すことに成功し、大久保利通の朝廷での発言力が強まった。
なお、この1865年前半に、大久保利通の名に改名しているが、その前年1864年には母・大久保福が死去していた。

長州藩との連携し倒幕へ

徳川幕府は第二次長州征伐を布告した為、大久保利通は長州問題と外交問題は諸侯による会議で解決すべしと朝廷に働きかけるなどして妨害を試みたが、徳川慶喜の猛反対にあい、幕府の限界を見た薩摩藩としては、次なる一手として倒幕の急先鋒たる長州藩との連携を模索し始めた。

1866年1月21日、坂本龍馬の仲介によって薩摩藩と長州藩・桂小五郎薩長同盟を結ぶ。
そして、大久保利通は大義がある戦ではないと第二次長州征討に反対し、幕府の薩摩藩出兵要請を拒否した。
12月5日、徳川慶喜が第15代将軍に就任した僅か20日後、孝明天皇が崩御。

1867年、雄藩会議の開催を小松帯刀や西郷隆盛と計画し、京都にて松平春嶽・山内容堂・伊達宗城・島津久光の四侯会議を開催させた。
しかし、四侯会議は徳川慶喜によってうまく牛耳られて頓挫した為、いよいよ、薩摩藩は武力倒幕の覚悟を決めたのである。

5月21日、土佐藩の討幕派である乾退助・中岡慎太郎らの協力を得て、6月22日に土佐藩参政・後藤象二郎と会談して薩土同盟を締結。
しかし、9月7日になって後藤象二郎が大政奉還を藩是にしたと宣言し、路線が異なる為、薩土同盟は破棄された。

その後、芸州藩の倒幕参加賛同を得ると、長州藩の藩庁がある山口に赴き、木戸孝允・広沢真臣と会談。
そして、長州藩主の父子に謁見し、薩摩・長州・芸州3藩による出兵の協定を結んだ。

9月27日、後藤象二郎が大政奉還建白まで、挙兵しないように求めると、西郷隆盛と小松帯刀を説得して、大久保利通は容認した。
そして、岩倉具視を介して「討幕の密勅」を得るための行動を頻繁に取り、10月に入ると密勅が下された。

徳川慶喜は大政奉還するも、既に薩摩藩にとってはどうでも良い事で、12月9日午前、前日に赦免されていた岩倉具視が王政復古の文案を携えて参内し、西郷隆盛率いる薩摩軍をはじめ、在京諸藩の兵によって御所九門が閉鎖された。
そして、明治天皇は公卿と諸侯の前で王政復古を宣言。
朝廷と幕府の役職を含めた旧体制を全廃し、総裁・議定・参予の三職を置いた新政府発足を宣言し、徳川慶喜・二条斉敬・朝彦親王らの参内を禁じた。

12日、辞官納地を受けた徳川慶喜は、会津藩・桑名藩らの兵を率いて二条城から大阪城に撤退。
同日、大久保利通は薩摩藩代表として西郷隆盛と共に参与に任命された。

戊辰戦争に勝利し新政府に深く関与

年が明け1868年1月2日、「討薩の表」を掲げた会津藩・桑名藩をはじめとする旧幕府軍15000が京都に向けて進軍を開始。
1月3日、鳥羽街道・伏見街道を進軍した旧幕府軍は、薩摩藩・長州藩を中心とする新政府軍と遭遇し、退く退かぬの押し問答が夕方まで続いたが、旧幕府軍が前進を強行しようとした時、薩摩軍が一斉射撃を開始して、鳥羽伏見の戦いとなった。
兵数・装備共に旧幕府軍が勝っていたが、戦略・戦術に劣り連敗を喫していたところに、1月4日に仁和寺宮嘉彰親王が征討大将軍に任じられ、錦旗と節刀を賜って進発すると5日には前線に錦旗が現れ始めた。
これにより、薩長と幕府の私闘は、官軍(政府の正規軍となった薩長軍)と賊軍(旧幕府軍)との戦いとなった。

1月6日の夕方、徳川慶喜は旧幕府軍の兵を集めて「よし是よりすぐに出馬せん、皆々用意せよ」と徹底抗戦を宣言したため、士気が上がったが、その夜に、徳川慶喜は側近や松平容保らを連れて、大阪から船に乗って江戸に逃亡。
薩摩藩と長州藩は新政府内部の実権も握る事となり、勝負が決した。

勝海舟と西郷隆盛の交渉の結果、4月11日には、江戸城も無血開城となり、新政府軍は今だ抵抗を続ける会津などへ軍を進めた。
一方、大久保利通は、江藤新平らと、新政府の威厳を示すため、江戸を東京と改め、天皇を迎えるべきと進言すると、聞き入れられ、6月に船で江戸に向かい木戸孝允、大村益次郎らと協議し、東京府と東北を平定する為の総督府を設置した。
この時、東京にいた参与は大久保利通ただ1人であった為、実質的な総責任者として激務だったようだ。

その後、天皇の東京遷都に反対する公卿などを説得する為に9月に京都に赴くと、一度、天皇は東京に行幸すると言う事になった。
そして、明治天皇はいったん京都に戻ったが、翌年の明治2年(1869年)3月28日に再度東京に入り、官公庁も東京に移転されて実質的な東京遷都が実現した。

また、明治2年1月には大久保利通、広沢真臣、板垣退助が京都で会議を開き、版籍奉還を進める事で合意。
薩摩藩、長州藩、土佐藩、佐賀藩が版籍奉還を建白すると、、鳥取藩・佐土原藩・福井藩・熊本藩・大垣藩などがこぞって自主的に版籍奉還を表明し、半年の間に200藩以上の藩が版籍奉還を自主的に表明した。
大久保利通、広沢真臣、岩倉具視らは藩主は知藩事という地位を与えて世襲制としたが、木戸孝允や伊藤博文は「世襲制では現状と何ら変わらない」として反対したため、非世襲制となり、翌明治3年(1870年)8月までに274藩の藩主が知藩事に任命された。

薩摩藩の旧体制との確執

この間、薩摩藩では戊辰戦争の論功行賞で下級武士から不満が出ており、明治2年2月、大久保利通が鹿児島に呼ばれている。
温泉に籠っていた西郷隆盛と伊地知正治などを参政に就任させて対応に当たらせ、東京に戻ったが、新政府はまだまだ難題続きで、一揆も全国各地で発生した。

その為、政府高官の人事を選挙にて一新させて公平に選出し、大久保利通、木戸孝允、後藤象二郎、副島種臣、板垣退助らが参与に選ばれ、大名や公家出身者は大幅に削られた。

大久保利通は、政府の強化には薩摩藩と長州藩の協力が更に必要だと、明治3年1月19日に鹿児島に赴き、島津久光を説得したが、大隈重信、大蔵少輔、伊藤博文、大蔵大丞、井上馨、木戸孝允による欧化政策と版籍奉還に反対する島津久光とは口論となった。島津久光から拒絶されたのは予想外だったようで、酒で気分を紛らわしたと日記に記載されている。

その後、大久保利通らは、藩財政の10%を知藩事の家禄とし、9%を軍事費にあとそのうち4.5%は政府の軍事費に使用すると言う内容の「藩制」を公布。
鹿児島藩が最も反対し、伊地知正治や鹿児島藩から提供されていた常備兵1000人も鹿児島に帰ってしまった為、岩倉具視と大久保利通は、鹿児島に出向いて島津久光らを説得。

下記は鹿児島の大久保利通の銅像です。

西郷隆盛が協力を約束すると、一行は山口で毛利敬親、高知では板垣退助や知藩事・山内豊範からも政府への協力を得て、政府強化を成功させた。
なお、大久保利通が故郷に帰ったのはこれが最後であった。

明治政府で改革を断行

明治4年(1871年)2月2日、東京に戻り、政府の制度改革を進めたが、木戸孝允とまた対立した。
しかし、野村靖と鳥尾小弥太の案から進んだ、廃藩置県と言う思い切った案にて木戸孝允と同意し、明治4年7月14日、明治政府は東京に在住していた知藩事を皇居に集めて廃藩置県を命じた。王政復古に次ぐ第2のクーデターであったが、これにより明治政府の中央集権体制が確立し、大久保利通は大蔵卿となり、産業・財政・地方行政を掌握する強大な権限を得るに至った。

明治4年(1871年)岩倉使節団の副使として伊藤博文・山口尚芳らとアメリカに渡航し、その後、イギリス、フランス、ドイツを外遊。
外遊中に政府を任された西郷隆盛・板垣退助らは、問題になっていた朝鮮出兵を巡る征韓論論争で征韓派と対立して政府内は粉砕。
急遽、先に帰国した大久保利通1人では手のつけようがないほど混迷を極めていたと言う。
使節団が帰国すると、西郷隆盛の朝鮮派遣に賛同する板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣、桐野利秋、大隈重信、大木喬任らと、反対した大久保利通、岩倉具視、木戸孝允、伊藤博文、黒田清隆らは対立することとなり、明治天皇は西郷派遣案を却下した。
その為、西郷隆盛を始め、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣、桐野利秋ら政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞すと言う明治六年政変となり、大久保利通と西郷隆盛は遂に決裂した。

明治6年(1873年)に内務省を設置すると、自ら初代の内務卿(参議兼任)として実権を握り、学制や地租改正、徴兵令などを実施して「富国強兵」を目標とすると殖産興業政策を推進。
明治7年(1874年)2月、佐賀の乱が勃発すると、直ちに自ら鎮台兵を率いて遠征している。
また台湾出兵が行われると、戦後処理のために全権弁理大臣として9月14日に清に渡航し、10月31日、清が台湾出兵を義挙と認め、50万両の償金を支払うことを定めた日清両国間互換条款・互換憑単に調印した。
また、出兵の経験から、明治8年(1875年)5月、太政大臣の三条実美に海運政策樹立に関する意見書を提出。

夕食を自宅で食べることも難しいほどの激務の中、土曜日の夕食はだけは必ず家族で食べたと言うが、参議兼内務卿である大久保利通への権力集中は「有司専制」として批判された。

明治9年(1877年)には、西郷隆盛が蜂起した西南戦争が勃発。京都にて政府軍を指揮した。
また自ら総裁となり、上野公園で8月21日から11月30日まで、第1回内国勧業博覧会を開催している。

その後、侍補からの要請に乗る形で自らが宮内卿に就任することで明治政府と天皇の一体化を行う構想を抱いていた。

スポンサーリンク


明治11年(1878年)5月14日早朝、大久保利通は福島県令・山吉盛典の帰県の挨拶を受け約2時間会談したのち、午前8時に自宅から二頭立ての箱馬車で出立し、赤坂の仮御所に向かう途中の紀尾井町清水谷を通りがかった。
その時、石川県士族の島田一郎、長連豪、杉本乙菊、杉村文一、脇田巧一および島根県士族・浅井寿篤、征韓派6名の士族から襲撃を受けた。
刀を振るって近寄った刺客に、大久保利通は「待て」と言い、冷静に書類を風呂敷に包んでから自らドアを開け路上に降りると「無礼者っ!」と一喝したと言う。
通報を受けた巡査が駆けつけたときには、既に全身を斬りきざまれており、息絶えていたが、刺客らは逃亡しては卑怯と、斬奸状を手にそのまま宮内省に出頭した。その後裁判で斬首刑。
大久保利通は、家族にも秘密で西郷隆盛の最後の手紙2通を常に懐に入れて持ち歩いていたようで、襲撃された時も読んでいたとされる。享年49(満47歳)。

墓所は東京都港区の青山霊園。

暗殺者が掲げた暗殺理由

斬奸状は下記の5点。

国会も憲法も開設せず民権を抑圧している。
法令の朝令暮改が激しく、また官吏の登用に情実・コネが使われている。
不要な土木事業・建築により国費を無駄使いしている。
国を思う志士を排斥して内乱を引き起こした。
外国との条約改正を遂行せず国威を貶めている。

その生涯は豊臣秀吉並に貧困から天性の政治手腕を発揮して登り詰めた大久保利通であったが、予算が足りなかった公共事業に私財を投じただけでなく、個人で8000円の借金までしており、大久保利通の志を知っていた債権者達は借金返済を遺族に求めなかったという。
また、明治政府は、大久保利通が生前に鹿児島県庁に学校費として寄付した8000円を回収し、さらに8000円の募金を集めて合計1万6000円で遺族を養った。

大久保公哀悼碑

東京・麹町の参議院議員宿舎の近くにある「清水谷公園」に、大久保公哀悼碑があります。

この近くの紀尾井坂付近にて暗殺されたようで、この「紀尾井坂の変」以降、日本では政府高官が移動する際には、護衛が付けられるようになりました。
そして、大久保利通のかつての同僚である、西村捨三・金井之恭・奈良原繁らが1888年(明治21年)5月に、この清水谷公園内に哀悼の石碑を建立したと言う事になります。
江戸時代、この一角は、紀州・徳川家の屋敷があったところです。

史跡がある正確な場所は、下記の当方オリジナル「江戸の史跡マップ」にて場所を示していますので、よければご覧頂けますと幸いです。

ちなみに、ホテル・ニューオータニがある場所は、井伊直弼の屋敷でして、雪が積もる中、ここから桜田門へ籠(カゴ)で向かった訳です。

大久保次右衛門とは~大久保利通の父である大久保利世は歌手の植村花菜さんのご子孫?
島津斉彬とは~西郷隆盛・大久保利通、そして島津久光と薩摩藩での関係をわかりやすく
お由羅騒動とお由羅の方を簡単にわかりやすく解説
五代友厚に関してはこちら
福沢諭吉 幕末期に3度に渡る海外派遣と学問のすすめ・慶應義塾
島津斉興と自身の長男である島津斉彬との確執をわかりやすく
西郷隆盛 【西郷吉之助】の波瀾な生涯が詳しく「まるっとわかる」詳細版
明治天皇とは 明治天皇の功績とその生涯
征韓論とは西郷隆盛VS大久保利通・岩倉具視の戦い
東京の幕末・戦国史跡巡りに便利な独自Googleマップ

スポンサーリンク


関連記事



コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

 スポンサーリンク

メールでお知らせ

メールアドレスを記入して購読すれば、新規記事追加をメールで受信できます。

ページ上部へ戻る