西郷隆盛 【西郷吉之助】の波瀾な生涯が詳しく「まるっとわかる」詳細版


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西郷隆盛(さいごう-たかもり)は1827年12月7日に、薩摩国鹿児島城下加治屋町山之口馬場(下加治屋町方限)で生まれた。
下記が西郷隆盛誕生地碑となる。

最初は、西郷吉之助(さいごう-きちのすけ)と言う名で良く知られる。
父は薩摩藩・御勘定方小頭の西郷九郎隆盛(西郷吉兵衛隆盛、禄47石余)。
西郷家の家格は御小姓与と言う下級武士であり、下から数えると2番目と言う低い身分であった。
母の名は西郷満佐(マサ、西郷政子)。

西郷家は西郷吉之助の下に弟3人妹3人がおり、祖父母を加えた11人暮らしだが、雨が降ると雨漏りがひどく、1つの布団に兄弟が足を突っ込んで寝るような暮らしであったようだが、西郷隆盛は体格も良く相撲が強かったと言う。

幼い頃の西郷隆盛は、子供たちが虫捕りに行く際に「網」を持って行ったのに対して、西郷吉之助は「木の臼」(うす)を持って走り回ったあげく、当然、虫が捕れないと泣いて帰ったと言う。
そのため、母・まさは、この子はちょっとおかしいなと真剣に悩んだとされているが、天才とは紙一重か・・。

一方で幼少より読書を好み、郷中制度の教育を受け、大久保利通らと薩摩藩校・造士館に通い、とくに陽明学を伊藤茂右衛門から修め、毎朝通っては福昌寺(島津家の菩提寺)の無参和尚から禅を学んだ。

1839年、郷中(ごじゅう)仲間と月例のお宮参りに行った際、他の郷中と友人が喧嘩を始めてしまった。
このとき、西郷吉之助は仲裁に入ったが、上組の郷中が抜いた刀が西郷の右腕内側の神経を切ってしまった。
西郷隆盛は3日間高熱にうなされたと言うが一命は取り留めるも、このケンカで右ひじを完全に曲げることが出来なくなり、武術を諦めて学問で身を立てようと志すようになる。

西郷隆盛は喫煙者だったが、酒は弱く下戸だっと言う。

※このページは西郷隆盛に関して現地で実際に撮影した写真も含めてご紹介しておりますが詳細版で長いです。長文に抵抗がある方は「1分でわかる西郷隆盛」をご覧願います。

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薩摩藩士として島津斉彬のもと頭角を現す

1841年、元服すると西郷吉之介隆永と名乗った。
この頃に下加治屋町郷中の二才組(にせこ)に昇進している。

1844年、18歳のとき郡奉行・迫田利済の配下に加わると、郡方書役助(農村監督指導の見習い)を務め農政に従事し、御小姓与(一番組小与八番)に編入された。
1847年、郷中の二才頭に就任。
1850年、高崎崩れ(お由羅騒動)で西郷家の縁が深かった赤山靭負が切腹。父が赤山靭負の御用人であった為、介錯した父から血に染まった衣と切腹の様子を聞いたと言う。
これに衝撃を受けると、藩政改革するため世子・島津斉彬の襲封を願うようになり、赤山靭負らの遺志を継いで、近思録崩れの秩父季保愛読の「近思録」を輪読する会を、大久保正助(大久保利通)・税所喜三左衛門(篤)・吉井幸輔(吉井友実)・伊地知竜右衛門(伊地知正治)・有村俊斎(海江田信義)らと結成した。
のちには精忠組(せいちゅうぐみ)へと発展している。

下記は、精忠組のメンバーが、夏蔭城跡の麓にて、心身を鍛えるために座禅を組んだと言う石で、現在「座禅石公園」として整備されている。

1851年2月2日、老中・阿部正弘の調停により、藩主・島津斉興は隠居して島津斉彬が薩摩藩主に就任。
1852年、西郷吉之助は父母の勧めで伊集院兼寛の姉・伊集院須賀(スガ、伊集院 敏、伊集院 敏子とも)と結婚。
しかし、7月には祖父・西郷遊山、9月には父・西郷吉兵衛、11月に母・西郷マサが相次いで死去し、1人で西郷家を支える事となった。

1853年2月、西郷家の家督相続が許可されたが、役は郡方書役助と変わらず、禄は減少することとなり41石余で家族12人を支える貧乏侍となった。
この頃に通称を吉之介から、西郷善兵衛に改めている。
1853年12月、ペリー提督が浦賀に来航し、攘夷問題が勃発した。

1854年、意見書が薩摩藩に認められると29歳の西郷隆盛は島津斉彬に直接仕えるようになる。
下記は鹿児島城(鶴丸城)。※4億5000万円での鶴丸城御楼門の復元は平成32年3月の完成予定。

島津斉彬が江戸参勤する際には、中御小姓・定御供・江戸詰に任ぜられ、江戸へと赴いた。
4月、御庭方役となり、尊敬する藩主・島津斉彬から直接色々な教えを受けるようになり、またぜひ会いたいと思っていた碩学・藤田東湖とも面会し国事について、帰るのを忘れるほど教えを受けた。(翌年の安政大地震で藤田東湖は圧死した為、落胆している。)

一方、鹿児島では11月に、貧窮の苦労を見かねた妻の実家・伊集院家が西郷家から妻・須賀を引き取ってしまい、以後、二弟の西郷吉二郎が西郷家の面倒を見ることになった。

1855年、西郷家の家督を正式に継ぐと、善兵衛から西郷吉兵衛へと名を改めた。
12月、越前藩士・橋本左内が来訪し、国事を話し合い、その博識に驚愕した。また、この頃から政治活動資金を時々、島津斉彬の命で賜るようになった。
また、この頃、鹿児島の西郷家は、下加治屋町の生家を売却し、新たに上之園の借家に移った。

7月、島津斉彬の密書を水戸藩の徳川斉昭に届けている。
12月、第13代将軍・徳川家定に、島津斉彬の養女・篤姫(島津敬子)が輿入れした。
この頃の島津斉彬の考えは、一橋派として篤姫を通じて徳川慶喜を第14代将軍にし、公武親和(公武合体)によって幕府を中心とした中央集権体制を作り、開国して富国強兵をはかってロシア・イギリス・フランスなど諸外国に対応しようとしていた。
日中韓同盟をも視野にいれた壮大な計画であり、西郷隆盛はその手足となって活動する。

1857年4月、参勤交代の帰途に肥後熊本藩の長岡監物・津田山三郎と会い国事を話し合っている。
5月に帰藩すると、次弟・西郷吉二郎が御勘定所書役、三弟・西郷信吾が表茶坊主に任ぜられた。
10月、西郷隆盛は徒目付・鳥預の兼務を命ぜられ、大久保利正助も共に徒目付になっている。
11月、藍玉の高値に困っていた下関の白石正一郎に、薩摩の藍玉購入の斡旋をし、以後、白石宅は薩摩藩士の活動拠点の1つになった。
12月、江戸に到着すると、将軍継嗣に関する島津斉彬の密書を、越前藩主・松平慶永(松平春嶽)に届けて、この月内、橋本左内らと一橋慶喜擁立について協議を重ねた。

1858年1~2月、橋本左内・梅田雲浜らと書簡を交わし、中根雪江が来訪するなど情報交換を行い、3月には篤姫から近衛忠煕への書簡を携えて京都に赴き、僧・月照らの協力で徳川慶喜継嗣のための内勅降下をはかったが失敗。
5月、彦根藩主・井伊直弼が大老に就任すると安政の大獄が始まった。
井伊直弼は、6月に天皇の許可なく日米修好通商条約に調印し、次いで紀州藩主・徳川慶福(家茂)を将軍継嗣に決定。
7月には不時登城を理由に徳川斉昭に謹慎、松平慶永に謹慎・隠居、徳川慶喜に登城禁止を命じて、まず一橋派への弾圧から強権を振るい始めた。
この間、西郷隆盛は6月に鹿児島へ戻り、松平慶永からの江戸・京都情勢を記した書簡を島津斉彬にもたらし、すぐに上京すると梁川星巌・春日潜庵らと情報交換した。
7月8日、島津斉彬は鹿児島城下の天保山で薩軍5000人の大軍事調練を実施。しかし練兵を観覧の最中に発病し7月16日に急逝した。享年50。

7月19日、島津斉彬の弟・島津久光の子・島津忠義が家督相続し、島津久光が後見人となったが、島津藩の実権は島津斉彬の父・島津斉興が握る事となった。

月照を薩摩に送るも・・

西郷隆盛は島津斉彬の訃報を、1858年7月27日に京都で聞き及び、殉死しようとしたが、月照らに説得され島津斉彬の遺志を継ぐことを決意。
8月、近衛家から託された孝明天皇の内勅を水戸藩と尾張藩に渡すため、江戸に赴いたが実現できずに京都へ帰った。
以後9月中旬頃まで、諸藩の志士および有馬新七・有村俊斎・伊地知正治らと、幕政改革を主導しようと大老・井伊直弼の排除の計画を立てる。
しかし、9月9日に梅田雲浜が捕縛され、尊攘派に危機が迫った為、近衛家から保護を依頼された月照を伴って伏見へ脱出し、伏見にて有村俊斎らに月照を託すと大坂を経て鹿児島へ送らせた。
9月16日、再び上京して諸志士らと挙兵をはかったが、捕吏の追及が厳しいため、9月24日に大坂から船で出航し下関経由で10月6日に鹿児島へ戻った。
捕吏の目から逃れるため、藩命で西郷三助と改名している。
11月、平野国臣に伴われて月照が鹿児島に到着したが、幕府の追及を恐れた薩摩藩は月照らを東目(日向国)へ追放することに決した。
ただし、これは道中での切り捨てを意味しており、西郷隆盛と月照は平野国臣らと共に乗船して薩摩から発ったが前途を悲観し、11月16日夜半、竜ヶ水沖で西郷隆盛と月照は、冬の冷たい錦江湾に共に入水した。
平野国臣が気が付いて救助すると、近くの花倉の浜に上陸させ、漁師の家にかつぎ込んだ。
下記は、西郷隆盛蘇生の家で、鹿児島市吉野町花倉のJR日豊線の線路脇にある。

月照は既に死亡していたが、西郷隆盛は水を吐き出したと言う。
しかし、身体は冷え切り、体温も低い西郷隆盛に対して、平野国臣は自分の着物を脱いで着せ、火を焚いて体を温めたと言う。
こうして、西郷隆盛は運良く蘇生し、同志の税所喜三左衛門がその後看病した。
回復には1ヶ月近くかかったと言う。

島津藩は2人が自殺したとして扱い、幕府の捕吏に西郷隆盛と月照の墓を見せた。
下記は鹿児島・南州寺にある月照の墓。

その為、捕吏は月照の下僕重助だけを連れて引き上げている。

奄美大島に隠れ住む

1858年12月、薩摩藩は、幕府の目から隠すために西郷隆盛を免職し、奄美大島に潜居させることに決定。
12月末日、菊池源吾(西郷三助)と変名して、鹿児島から船で山川郷へ出航した。
1859年1月4日、伊地知正治・大久保利通・堀仲左衛門(堀次郎)などに後を託して山川港から出航し、七島灘を渡り奄美大島の名瀬を経て、1月12日に潜居地となる奄美大島龍郷村阿丹崎に到着した。

奄美では自らを「土中の死骨」と評し、当初は流人としての扱いを受け、美玉新行さんの空家を借り、自炊して生活。
間もなく重野安繹の慰問を受け、以後、大久保利通・税所篤・吉井友実・有村俊斎・堀仲左衛門などから、頻繁に書簡や慰問品が送られ、西郷隆盛も返書を出し情報入手に務めた。
この間、11月、龍家の一族、佐栄志の娘・とま(のち愛加那と改名)を島妻としている。
当初、扶持米は6石であったが、万延元年には12石に加増され、留守家族にも家計補助のために藩主から下賜金が与えられていた。
やがて島の子供3人の教育を依頼され、間切横目・藤長からは親切にされて上記のように島妻を娶るなど、徐々に島での生活に慣れ、1860年11月2日には西郷菊次郎が誕生した。

1861年9月、三弟・竜庵が表茶坊主から還俗して西郷信吾と名乗っている。
11月、見聞役・木場伝内(木場清生)と知り合ったが、この木場伝内はまちに大坂留守居役・京都留守居役となり西郷隆盛を助ける事とにる。

寺田屋騒動へ

1861年10月、島津久光は公武周旋に乗り出す決意をして要路重臣の更迭を行ったが、京都において有能な人材が不足した為、小納戸役に出世していた大久保利通や堀次郎らの進言で、奄美の西郷隆盛に召還状を出した。
11月21日に召還状を受け取ると、35歳の西郷隆盛は世話になった人々への挨拶を済ませ、愛加那の生活が立つように新居を構えたりしている。

そして、1862年1月14日に阿丹崎を出帆し、口永良部島・枕崎を経て2月12日、3年振りに鹿児島へ到着した。
2月15日、生きていることが徳川幕府に発覚しないよう、西郷三助から大島三右衛門(大島に三年住んでいたという洒落)に改名。
同日、島津久光に召されたが、島津久光が無官で、先君・島津斉彬ほどの人望が無いことを理由に上京すべきでないと主張し無理だと話したので、島津久光の反発を買った。
西郷隆盛は一旦は同行を断ったが、大久保利通の説得で上京を承諾すると旧役に復職した。
3月13日、下関で待機する命を受けて、村田新八を伴って先発している。

下関の白石正一郎宅で平野国臣から京大坂の緊迫した情勢を聞いた西郷隆盛は、3月22日、村田新八・森山新蔵を伴い大坂へ向けて出航し、29日に伏見に着いた。
そして、激派志士たちの京都焼き討ち・挙兵の企てを止めようと試みている。
しかし、4月6日、姫路に着いた島津久光は、西郷が待機命令を破ったこと、堀次郎・海江田信義から西郷隆盛が志士を煽動していると報告を受けたことから激怒し、西郷隆盛・村田新八・森山新蔵の捕縛命令を出した。
捕縛された西郷隆盛らは4月10日、鹿児島へ向けて船で護送されている。

一方、浪士鎮撫の朝旨を受けた島津久光は、伏見の寺田屋に集結している真木保臣(真木和泉)・有馬新七らの激派志士を鎮撫するため、4月23日に奈良原繁・大山格之助(大山綱良)らを寺田屋に派遣。
奈良原繁らは激派を説得したが聞かれず、やむなく有馬新七ら8名を上意討ちにした(寺田屋騒動)。
この時に挙兵を企て、寺田屋、その他に分宿していた激派の中には三弟の西郷信吾、従弟の大山巌(大山弥助)の外に篠原国幹・永山弥一郎など誠忠組の同士も含まれていた。
護送され山川港で待命中の6月6日、西郷は大島吉之助に改名させられ、徳之島へ遠島となる。
村田新八は喜界島へ遠島が命ぜられた。未処分の森山新蔵は船中で自刃。

徳之島・沖永良部島遠流

1862年6月11日、西郷隆盛は山川港を出帆し、村田新八も遅れて出帆したが、向かい風で風待ちのために屋久島一湊で出会い、7~8日程風待ちをし、ともに一湊を出航して奄美へ向かった。
七島灘で漂流したがなんとか奄美に到着し、その後、7月2日に徳之島湾仁屋に到着した。偶然にも、この渡海中の7月2日に愛加那が菊草(菊子)を生んでいる。
徳之島岡前の勝伝宅にて囚人生活を開始したが、8月26日、徳之島に送られた事を知った愛加那が、奄美大島から子供2人を連れて西郷隆盛のもとを訪れた。
久しぶりの親子対面を喜んでから数日後、さらに追い打ちをかけるように沖永良部島へ遠島する命令が届く。
一方、鹿児島では7月下旬に弟たちが遠慮・謹慎などの処分を受け、西郷家の知行・家財は没収されていた。

藩命で舟牢に入れられて、閏8月初め、徳之島・岡前を出港し、14日に沖永良部島・伊延に到着。
当初、四方に壁や扉も無い格子の牢屋で、雨風も吹き込むと言う過酷な牢であったため、西郷隆盛は健康を害したと言う。
しかし、10月、間切横目・土持政照(23歳)が代官の許可を得て、自費で座敷牢を作ったため、そこに移り住むとなんとか健康を取り戻した。
4月には同じ郷中の後輩が詰役として沖永良部島に来ると、西郷隆盛の待遇は一層改善された。
この沖永良部島の滞在中、1864年1月頃には西郷隆盛に学問を習いにくる島の子供たちは20名以上となり、大人の島民も西郷隆盛の話をとても楽しみに訪れたと言う。
また、土持政照と一緒に酒を飲んでいる様子が、沖永良部島の「サイサイ節」という民謡として歌わるようになった。
ただ、この沖永良部にて西郷隆盛は風土病のフィラリアを患うことになり、晩年には陰嚢が腫れあがり、馬に乗れず、籠で移動することとなった。

1863年7月、前年の生麦事件を契機に起きた薩英戦争の情報が入ると、西郷隆盛は処罰覚悟で鹿児島へと戻り参戦しようと考えた。
10月、土持政照が造った船に乗り、鹿児島へ出港しようとしたとき、イギリス艦を撃退したとの情報を得て、喜び祝宴を催したと言う。
また、同じく沖永良部の西原村に流されていた川口雪篷と知り合い意気投合している。

やがて赦免召還の噂が流れてくると「与人役大躰」「間切横目大躰」を記載して、島役人のための心得とさせ、社倉設立の文書を作って土持政照に与え、飢饉に備えさせたと。
また、沖永良部にいても情報交換はかかさず、大島在番であった桂久武、琉球在番の米良助右衛門、真木保臣などと書簡を交わしている。

この頃、徳川幕府では、薩摩藩の意見も取り入れ、1862年7月に松平春嶽が政事総裁職、徳川慶喜が将軍後見職となり(文久の幕政改革)、閏8月に会津藩主・松平容保が京都守護職、桑名藩主・松平定敬が京都所司代となって、幕権に回復傾向が見られた。
しかし、1863年5月に長州藩の米艦砲撃事件、8月に奈良五条の天誅組の変と長州への七卿落ち(八月十八日の政変)、10月に生野の変など、開港に反対する攘夷急進派が種々の抵抗をして、幕府失墜が進行していく。

薩摩流の公武周旋をやり直そうとした島津久光にとっては、京大坂での薩摩藩の世評の悪化と公武周旋に動く人材不足が最大の問題であり、この苦境を打開するために大久保利通(大久保一蔵)や家老・小松帯刀らの勧めもあり、西郷隆盛を赦免召還することにした。

1864年2月21日、吉井友実・西郷従道(西郷信吾)らを乗せた蒸気船・胡蝶丸が沖永良部島の和泊へと迎えに到着。
途中で奄美大島・龍郷に寄って妻子と4日間過ごし、喜界島遠島中の村田新八を伴って帰還の途についた。

禁門の変

1864年2月28日、2年振りに鹿児島に戻った西郷隆盛であったが、長い遠島囚人生活の影響で足を悪くしており、這いずりながら29日に島津斉彬の墓参をしたという。
下記は島津家墓所がある福昌寺跡。

3月4日、村田新八をともなって鹿児島を出帆し、14日に京都に到着すると19日に軍賦役(軍司令官)兼諸藩士の応接掛りに任命された。
京都に着いた西郷隆盛は薩摩藩が佐幕・攘夷派双方から非難されており、攘夷派志士だけではなく、世評も極めて悪いのに驚く。
そこで、薩摩藩の行動原則を朝旨にしたがった行動と単純化し、攘夷派と悪評への緩和策を取ることで、この難局を乗り越えようとした。
この当時、最も悪評を浴びていたのが、薩摩藩と外夷との密貿易であったようだ。攘夷派は攘夷と唱えながら外夷と通商していること自体を怒ったのである。
その結果、長州藩による薩摩藩傭船長崎丸撃沈事件、加徳丸事件が勃発した。

京に上がってからの西郷隆盛は精力的に行動し、4月には御小納戸頭取・一代小番に任命された。
池田屋事件からまもない6月27日、朝議で七卿赦免の請願を名目とする長州兵の入京が許可された。
これに対し、西郷隆盛は、薩摩藩は中立の立場を取り皇居守護に専念すべしとし、7月8日の徳川慶喜の出兵命令を小松帯刀と相談のうえで断った。
しかし、18日、長州勢(長州・因州・備前・浪人志士)が伏見・嵯峨・山崎の三方から京都に押し寄せ、皇居諸門で幕軍と衝突すると、西郷隆盛と伊地知正治らは乾御門で長州勢を撃退したばかりでなく、諸所の救援に薩摩兵を派遣して、長州勢を撃退した(禁門の変)。
西郷隆盛は銃弾を受けて軽傷を負っている。

この事変で西郷隆盛らがとった中立方針は、長州や幕府が朝廷を独占するのを防ぎ、朝廷をも中立の立場に導いたが、長州勢からは来島又兵衛久坂玄瑞・真木保臣ら多く犠牲者が出た為、長州の薩摩嫌いを助長し「薩奸会賊」と呼ばれるようになった。

第一次長州征伐

1864年7月23日、長州藩追討の勅命(第一次長州征伐)が出ると、24日に徳川慶喜が西国21藩に出兵を命じた。
8月、四国連合艦隊の下関砲撃事件が起きたが、長州藩と四国連合艦隊の講和条約が結ばれ、徳川幕府と四国代表との間にも賠償約定調印が交わされた。
この間の9月中旬、西郷隆盛は大坂で勝海舟と会い、勝海舟の意見を参考にして、長州藩に対して強硬策をとるのを止め、緩和策で臨むように変更。
10月初旬、御側役・代々小番となり、大島吉之助から西郷吉之助に名を改めた。
10月12日、西郷隆盛は征長軍参謀に任命される。
14日、大坂で征長総督・徳川慶勝に会見して意見を具申したところ、長州処分を委任されている。
そこで、吉井友実・税所篤を伴い、岩国で長州方代表の吉川経幹(吉川監物)と会い、長州藩三家老の処分を申し入れた。
引き返して徳川慶勝に経過報告をしたのち、小倉に赴き、副総督・松平茂昭に長州藩処分案と経過を述べ、薩摩藩総督・島津久明にも経過を報告。
結局、西郷隆盛の妥協案に沿って事態は収拾され、12月27日、征長総督が出兵諸軍に撤兵を命じた。
収拾案中に含まれていた五卿処分も、中岡慎太郎らの奔走で、西郷隆盛の妥協案に従い、1865年初頭に福岡藩の周旋で九州5藩に分移させるまでは、福岡藩で預かることで一応決着した。

第二次長州征伐と薩長同盟

1865年1月中旬、鹿児島へ帰って藩主に報告を済ますと、薩摩藩士・有川矢九郎の勧めもあって、1月28日に家老座書役・岩山八太郎直温の二女・イト(絲子)21歳と結婚した。最後の妻である。

この後、前年から紛糾していた五卿移転とその待遇問題を周旋して、2月23日に待遇を改善したうえで太宰府天満宮の延寿王院に落ち着かせることで収束。
これと平行して大久保利通・吉井孝輔らとともに九州諸藩連合のために久留米藩・福岡藩などを遊説して周ったが、3月中旬に上京。
この頃、徳川幕府は武力で勅命を出させ、長州藩主父子の出府、五卿の江戸への差し立て、参勤交代の復活の3事を実現させるために、2老中に4大隊と砲を率いて上京させ、強引に諸藩の宮門警備を幕府軍に交替させようとしていた。
しかし、それを拒否する勅書と伝奏が京都所司代に下され、逆に至急将軍を入洛させるようにとの命が下された。
これらは幕権の回復を望まない西郷隆盛・大久保利通らの公卿工作によるものである。

5月1日に西郷隆盛は坂本龍馬と共に鹿児島に帰ると京都情勢を藩首脳に報告した。
その後、幕府の征長出兵命令を拒否すべしと説いて薩摩藩の藩論をまとめている。
9日に大番頭・一身家老組に就任。

この頃、将軍・徳川家茂は、勅書を無視して紀州藩主・徳川茂承以下16藩の兵約6万を率いて西下を開始。
兵を大坂に駐屯させたのち、閏5月22日に京都に入った。
翌23日、徳川家茂は参内して武力を背景に長州再征を奏上したが、許可されなかった。

6月、鹿児島入りした中岡慎太郎は、西郷隆盛に薩長の協力と和親を説き、下関で桂小五郎(木戸孝允)と会うことを約束させた。
しかし、西郷隆盛は大久保利通から緊迫した書簡を受け取ったので、下関寄港を取りやめ、急ぎ上京している。

この間、京大坂滞在中の幕府幹部は兵6万の武力を背景に一層強気になり、長州再征を朝廷へ迫った。
これに対し、西郷隆盛は幕府の脅しに屈せず、6月11日、幕府の長州再征に強力しないように大久保利通に伝え、そのための朝廷工作を進めさせた。
24日には京都で坂本龍馬と会い、長州が欲している武器・艦船の購入を薩摩名義で行うこと承諾し、薩長和親の実績をつくった。

また、幕府の兵力に対抗する必要を感じ、10月初旬に鹿児島へ帰ると、15日に小松帯刀とともに兵を率いて上京。
この頃、長州から兵糧米を購入することを坂本龍馬に依頼したが、これもまた薩長和親の布石づくりである。
また、黒田清隆(黒田了介)を長州へ往還させ薩長同盟の工作も重ねさせた。

9月16日、英・仏・蘭三カ国の軍艦8隻が兵庫沖に碇泊し、兵庫の開港を迫る。
一方、京都では、武力を背景にした脅迫にひるみ、9月21日、朝廷は幕府に長州再征の勅許を下した。
また、10月1日に前尾張藩主・徳川慶勝から出された条約の勅許と兵庫開港勅許の奏請も、一旦は拒否したが、将軍辞職をほのめかしと朝廷への武力行使も辞さないとの幕府及び徳川慶喜の脅迫に屈して、条約は勅許するが、兵庫開港は不許可という内容の勅書を下している。
これは強制されたものであったとはいえ、安政以来の幕府の念願の実現であり、国是の変更という意味でも歴史上の大きな決定であった。

1866年1月8日、西郷隆盛は村田新八・大山成美(大山巌の兄)を伴って、上京した長州藩の桂小五郎を伏見に出迎え、翌9日、京都に帰って二本松藩邸に入った。
21日(22日説もある)、西郷隆盛は小松帯刀邸で桂小五郎と薩長提携六ヶ条を密約し、坂本龍馬がその提携書に裏書きをした(薩長同盟)。
その直後、坂本龍馬が京都の寺田屋で幕吏に襲撃されると、西郷隆盛は指示を出して薩摩藩邸が坂本龍馬を保護した。
その後、3月4日に小松帯刀・桂久武・吉井友実・坂本龍馬と妻・楢崎龍らと大阪から出航し、11日に鹿児島へ到着した。

坂本龍馬が、西郷隆盛の妻・イトに「一番古いふんどしを貸して下さらんか?」と言われて古いふんどしを出したと知ると、西郷隆盛は妻を叱り、一番新しいものと交換するようにと細かな心づかいもしたと言う。

4月、藩政改革と陸海軍の拡張を進言し、5月1日から小松帯刀らと藩政改革を開始している。

第二次長州征伐は、高杉晋作奇兵隊や、大村益次郎ら長州藩が連戦連勝し、徳川幕府軍は惨敗続きとなった。
鹿児島にいた西郷隆盛は、7月9日に朝廷に出す長州再征反対の建白を起草し、藩主名で幕府へ出兵を断る文書を提出させた。
一方、徳川幕府は、7月30日に将軍・徳川家茂が大坂城中で病死したのを受け、朝廷に願い出て、21日に休戦の御沙汰書を出してもらった。
将軍・徳川家茂の遺骸を海路で江戸へ運んだ徳川幕府は、12月25日の孝明天皇の崩御を機に解兵の御沙汰書を得て公布し、この戦役を終わらせた。
この間の7月12日、西郷隆盛に嫡男・西郷寅太郎が誕生し、9月に大目付・陸軍掛・家老座出席に任命されたが、病気を理由に大目付役は返上している。

大政奉還と王政復古

1867年3月上旬、村田新八・中岡慎太郎らを先発させて、大村藩・平戸藩などを遊説させた。
3月25日、西郷隆盛は島津久光を奉じ、薩摩の精鋭700名を率いて上京した。
5月に京都の薩摩藩邸と土佐藩邸で相次いで開催された四侯会議の下準備を行った。
5月21日、中岡慎太郎の仲介によって、京都の小松帯刀邸にて、土佐藩の乾退助、谷干城らと、薩摩藩の西郷隆盛、吉井幸輔らが武力討幕を議して、薩土討幕の密約(薩土密約)を結んだ。
6月15日、西郷隆盛は長州藩の山縣有朋を訪問し、武力にて徳川幕府を倒すと決意を告げている。
16日、西郷隆盛と小松帯刀・大久保利通・伊地知正治・山縣有朋・品川弥二郎らが面会して、改めて薩長同盟の誓約を交わす。
その後、江戸市内へ伊牟田尚平・益満休之助・相楽総三らを派遣し、放火などの破壊工作を行わせ徳川幕府を挑発し、薩摩藩邸焼き討ちを誘発させた。
22日には西郷隆盛が土佐藩の坂本龍馬・後藤象二郎・福岡孝弟らと会し、薩土盟約が成立。

9月7日、島津久光の三男・島津珍彦が薩摩藩兵約1000名を率いて大坂に到着。
9月9日、後藤象二郎が来訪して坂本龍馬案にもとづく大政奉還建白書を提出する為に、挙兵を延期するように求めたが、西郷隆盛は最初拒否した。しかし、後日了承している。
土佐藩の前藩主・山内容堂から提出された建白書を見た将軍・徳川慶喜は、10月14日に大政奉還の上奏を朝廷に提出し、15日に朝廷から大政奉還を勅許する旨の御沙汰書が出された。

なお、この間、朝廷から討幕と会津藩・桑名藩誅伐の「密勅」を鹿児島に持ち帰った西郷は、桂久武らの協力で藩論をまとめ、11月13日、藩主・島津忠義を奉じ、藩兵約3000名を率いて鹿児島を出発した。
途中で長州藩と出兵時期を調整し、三田尻を発して、20日に大坂、23日には京都に到着した。
長州藩兵約700名も29日に摂津打出浜に上陸して、西宮に進出。
またこの頃、芸州藩も出兵を決めるなど、諸藩と出兵交渉をしながら、西郷隆盛は11月下旬頃から有志に王政復古の大号令発布のための工作を始めさせた。
12月9日、薩摩藩・芸州藩・尾張藩・越前藩に宮中警護のための出兵命令が出され、会津藩・桑名藩とこれら4藩が宮中警護を交替すると、王政復古の大号令が発布された。

戊辰戦争での活躍

1868年1月3日、大坂の旧幕軍が上京を開始すると、旧幕府の先鋒隊と新政府軍である薩長の守備隊が衝突し、鳥羽・伏見の戦いとなった。
西郷隆盛はこの3日には伏見の戦線、5日には八幡の戦線を視察し、戦況が有利になりつつあるのを確認。
6日、幕府側の徳川慶喜は松平容保・松平定敬以下、老中・大目付・外国奉行ら少数を伴い、大坂城から脱出して軍艦「開陽丸」に搭乗して江戸へ退去。
新政府は7日に徳川慶喜追討令を出し、9日に有栖川宮熾仁親王を東征大総督(征討大総督)に任じて、東海道・東山道・北陸道の3軍を指揮させ、東国へ侵攻開始した。

西郷隆盛は2月12日に東海道先鋒軍の薩摩諸隊差引(司令官)、14日に東征大総督府下参謀に任じられると、独断で先鋒軍(薩軍一番小隊隊長・中村半次郎、二番小隊隊長・村田新八、三番小隊隊長・篠原国幹らが中心)を率いて先発し、2月28日には東海道の要衝である箱根を占領した。
占領後、三島を本陣としたのち、静岡に引き返している。
徳川慶喜は山岡鉄舟を使者として送り、3月9日、静岡にて会見。
「もし勝敗が逆で、島津公を敵に差し出せと言われたら、あなたは従えるか?」と言う山岡鉄舟の説得に感銘すると、徳川処分案7ヶ条を示した。
その後、大総督府からの3月15日江戸総攻撃の命令を受け取ると、静岡を発して11日に江戸に着き、池上本門寺の本陣に入った。

3月13日、3月14日の両日、勝海舟と会談し、江戸城明け渡しについての交渉を行った。
当時、薩摩藩の後ろ盾となっていたイギリスは日本との貿易に支障が出ることを恐れて江戸総攻撃に反対していたため「江戸城明け渡し」は新政府の既定方針だったと言う。

橋本屋での2回目の会談で勝海舟から徳川処分案を預かると、総攻撃中止を東海道軍・東山道軍に伝え、自らは江戸を発して静岡に赴き、12日、大総督・有栖川宮に謁見して勝海舟の案を示し、さらに静岡を発して京都に赴き、20日、朝議にかけて了承を得た。
江戸へ帰った西郷隆盛は4月4日、勅使・橋本実梁らと江戸城に乗り込み、田安慶頼に勅書を伝え、4月11日に江戸城明け渡し(無血開城)が行なわれた。

江戸幕府を滅亡させた西郷隆盛は、仙台藩(伊達家)を盟主として樹立された奥羽越列藩同盟との「東北戦争」に臨む。
5月上旬、上野の彰義隊の打破と東山軍の白河城攻防戦の救援のどちらを優先するかに悩み、江戸守備を他藩にまかせて、配下の薩摩兵を率いて白河応援に赴こうとしたが、大村益次郎の反対にあい、上野攻撃を優先した。
5月15日、上野戦争が始まり、正面の黒門口攻撃を指揮して勝利。
5月末、江戸を出帆すると京都で戦況を報告し、6月9日に藩主・島津忠義に随って京都を発し、14日に鹿児島に帰着した。
この頃から健康を害し、日当山温泉で湯治している。

北陸道軍の戦況が思わしくないため、西郷隆盛の出馬が要請され、7月23日、薩摩藩北陸出征軍の総差引(司令官)を命ぜられ、8月2日に鹿児島を出帆し、10日に越後柏崎に到着した。
来て間もない14日、新潟五十嵐戦で負傷した二弟・西郷吉二郎の戦死を聞いている。
北陸道本営の総督府下参謀・黒田清隆、山縣有朋らは西郷隆盛のもとをしばしば訪れていたが、新政府軍に対して連戦連勝を誇った庄内藩も、仙台藩、会津藩が降伏すると9月27日に降伏し、ここに「東北戦争」は新政府の勝利で幕を閉じた。
なお、西郷隆盛は黒田清隆に指示して、庄内藩を寛大な処分に留めている。

戊辰戦争最大の功労者として西郷隆盛の名は轟いたが、11月初めに鹿児島に戻ると、日当山温泉で湯治した。
龍宝家の屋敷(西郷どんの宿)に滞在して湯治している。

鹿児島で政府役人、そして政府の参議に

1869年(明治2年)2月25日、薩摩藩主・島津忠義が自ら日当山温泉まで来て要請すると26日、鹿児島へ戻り、薩摩藩の参政・一代寄合となった。
以来、藩政改革や兵制整備(常備隊の設置)を精力的に行い、戊辰参戦で功があった下級武士の不満解消につとめた。
1862年、沖永良部島遠島・知行没収になって以来、無高であった西郷隆盛であったが3月に許されて再び石持ちになった。

5月1日、箱館戦争の応援の為、薩摩藩兵を率いて鹿児島を出帆。
途中、東京で出張許可を受け、5月25日、箱館に着いたが、先立つ18日に箱館・五稜郭が開城し、戦争はすでに終わっていた。
帰路、東京に寄った際、6月2日の王政復古の功により、賞典禄永世2000石を下賜されている。このときに残留の命を受けたが、断って、鹿児島へ戻った。

7月、鹿児島郡武村(現在の鹿児島市武二丁目の西郷公園)に屋敷地を購入。
下記が西郷屋敷跡(武町)。

9月26日、正三位に叙せられた。

12月に藩主名で位階返上の案文を書き、このときに西郷隆盛という名を初めて用いている。

ちなみに「隆盛」は父親・吉兵衛の名前で、吉之助の本名は「隆永」であったが、王政復古時に役所の名前申請で手違いが起こり「隆盛」で登記されてしまっていたのだ。
このことに西郷吉之助本人は「まいっか」と、気にすることなく、自らその「西郷隆盛」の名を使い続けることとなる。

明治3年(1870年)1月18日に参政を辞め、相談役になり、7月3日に相談役を辞め、執務役になったが、太政官から鹿児島藩大参事に任命された。

明治3年(1870年)2月13日、西郷隆盛は村田新八・大山巌・池上四郎らを伴って長州藩に赴き、奇兵隊脱隊騒擾の状を視察。
奇兵隊からの助援要請を断わり、藩知事・毛利広封に謁見したのちに鹿児島へ帰った。
同年7月27日、鹿児島藩士で集議院徴士の横山安武(森有礼の実兄)が時勢を非難する諫言書を太政官正院の門に投じて自刃。
これに衝撃を受けた西郷隆盛は、役人の驕奢により新政府から人心が離れつつあり、薩摩人がその悪弊に染まることを憂慮し、薩摩出身の心ある軍人・役人だけでも鹿児島に帰らせるために、9月、池上を東京へ派遣した。
12月、危機感を抱いた政府から勅使・岩倉具視、副使・大久保利通を、西郷隆盛に「参議」への出仕を促すため鹿児島へ派遣した。
しかし、交渉したが難航し、欧州視察から帰国した西郷従道の説得でようやく政治改革のために上京することを承諾。

明治4年(1871年)1月3日、西郷隆盛と大久保利通は池上を伴い「政府改革案」を持って上京するため鹿児島を出帆。
8日、西郷・大久保らは木戸孝允を訪問して会談した。
16日、西郷・大久保・木戸・池上らは三田尻を出航して土佐に向かう。
17日、西郷一行は土佐に到着し、藩知事・山内豊範、大参事・板垣退助と会談。
22日、西郷・大久保・木戸・板垣・池上らは神戸に着き、大坂で山縣有朋と会談し、一同そろって大坂を出航し東京へ向かった。
東京に着いた一行は2月8日に会談し「御親兵」の創設を決定。
この後、池上を伴って鹿児島へ帰る途中、横浜で東郷平八郎に会い、勉強するように励ましている。

2月13日に鹿児島藩・山口藩・高知藩の兵をもって御親兵に編成する旨の命令が出されたので、西郷隆盛は忠義を奉じ、常備隊4大隊約5000名を率いて上京し、4月21日に東京市ヶ谷旧尾張藩邸に駐屯した。
この御親兵以外にも東山道鎮台(石巻)と西海道鎮台(小倉)を設置し、これらの武力を背景に、6月25日から内閣人員の入れ替えを始めた。
7月5日、制度取調会の議長となり、6日に委員の決定権委任の勅許を得た。これより新官制・内閣人事・廃藩置県等を審議し、大久保・木戸らと公私にわたって最大の難題である廃藩置県を議論して断行。
朝議を経て、14日、明治天皇が在京の藩知事(旧藩主)を集め、廃藩置県の詔書を出した。
また、この間に新官制の決定や内閣人事も順次行った。

太政大臣(三条実美)
右大臣兼外務卿(岩倉具視)
参議(西郷隆盛、木戸孝允、板垣退助、大隈重信)
大蔵卿(大久保利通)
文部卿(大木喬任)
兵部大輔(山縣有朋)
大蔵大輔(井上馨)
文部大輔(江藤新平)
工部大輔(後藤象二郎)
司法大輔(佐々木高行)
宮内大輔(万里小路博房)
外務大輔(寺島宗則)

明治4年(1871年)11月12日、三条・西郷らに留守(留守政府)を任され、特命全権大使・岩倉具視、副使・木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳ら外交使節団が条約改正のために横浜から欧米各国へ出発した。
留守中の大改革は自粛するようにと言われていたが、西郷隆盛らは明治4年(1871年)からの官制・軍制の改革および警察制度の整備を続け、明治5年(1872年)2月には兵部省を廃止して陸軍省・海軍省を置き、3月には御親兵を廃止して近衛兵を置くなど改革を推し進めた。
5月から7月にかけては天皇の関西・中国・西国巡幸に随行。
鹿児島行幸から帰る途中、近衛兵の紛議を知り、急ぎ帰京して解決をはかり、7月29日、陸軍元帥兼参議に任命された。
このときに山城屋事件で多額の軍事費を使い込んだ近衛都督・山縣有朋が辞任したため、薩長の均衡をとるために三弟・西郷従道を近衛副都督から解任。
明治6年(1873年)5月に徴兵令が実施されたのに伴い、元帥が廃止されたので、西郷は陸軍大将兼参議となった。

政府の職を辞して下野する

廃藩置県の反動による社会不安を、その人望と人徳で乗り切った西郷隆盛であったが、朝鮮半島を巡る方針で、板垣退助が武力による征韓論を主張すると、武力行使はダメだとして、自分が旧例の服装で全権大使になって交渉する(遣韓大使論)と主張し対立。
岩倉具視が帰国すると、西郷隆盛派遣に反対する木戸孝允・大久保利通・大隈重信・大木喬任らの参議が辞表を提出し、右大臣・岩倉具視も辞意を表明する事態に至る。
これを憂慮した三条実美も、西郷隆盛派遣を了承しなかった為、西郷隆盛が陸軍大将兼参議・近衛都督を辞し、位階も返上し辞職した。
なお、西郷隆盛の参議・近衛都督辞職は許可されたが、陸軍大将辞職と位階の返上は許されていない。

この辞職に同調して、板垣退助・副島種臣・江藤新平らの参議も辞職し、征韓論・遣韓大使派の林有造・桐野利秋・篠原国幹・淵辺群平・別府晋介・河野主一郎・辺見十郎太をはじめとする政治家・軍人・官僚600名余が次々に大量に辞任した。遅れて帰国した村田新八・池上四郎らも辞任している(明治六年政変)。

このとき、西郷隆盛の推挙で兵部大輔・大村益次郎の後任となりながらも、能力不足と自覚して、先に下野していた前原一誠は書簡を太政大臣・三条実美に送り、明治政府の前途を憂いた。
こうして大久保利通と決別し、下野した西郷隆盛は、明治6年(1873年)11月10日、鹿児島に帰着すると以降は大半を武村の自宅で過ごしている。

犬好きだった理由は?

西郷隆盛は武村の屋敷にて「犬」を薩摩犬からオランダ犬まで15匹飼い、よく散歩して歩いていたと言う。
なぜ、そんなにも西郷隆盛は犬好きであったのか?
本人はこのように考えていたようだ・・。

犬は飼い主に忠実であり裏切らない。
裏切らないし、お金も名誉も欲しがらない。
頭をなでてあげれば、尻尾を振って喜んで、主人をじっと見続ける。
そのように実直な犬の姿勢が好きだったようで、西郷自身が私利私欲に負けそうになったとき、犬を見て自らを戒めたと考えられている。
そのため、西郷隆盛は、賄賂のような金品など、贈り物は一切受け取らなかったと言う。
ただし、犬に関する絵や書籍は喜んで受け取っていたと言う、遺品の整理をした際に、たくさん出てきたと言う。

私学校の設立と西南戦争

西郷隆盛の下野に同調した軍人・警吏が相次いで鹿児島県に入ると、無職の血気多き壮年者がのさばり、それに影響された若者が溢れる状態になった。
そこで、これを指導し、統御しなければと有志者が西郷隆盛にはかり、県令・大山綱良の協力を得て、明治7年6月頃に旧厩跡に「私学校」が作られた。

私学校は篠原国幹が監督する銃隊学校、村田新八が監督する砲隊学校、村田が監督を兼任した幼年学校(章典学校)があり、県下の各郷ごとに分校が設けられた。
しかし、西郷隆盛は余り関与せず、別府晋介・辺見十郎太・河野主一郎・小倉壮九郎(東郷平八郎の兄)らの私学校党が県政を牛耳るようになると独立勢力と化した。

なお、寺山に開墾地を拓き、80名の若者に農業を学ばせ、吉野開墾も行っている。
西郷どんも、この開墾を手伝ったようで下記のような逸話もある。

吉野開墾地から馬を引いて帰る途中、帯迫にある加治屋助八の家で、種子用のさつまいもを2俵買って馬に背負わせした。
しかし、馬の操作に誤り、馬が1.8メートル程下の畑に転落してしまったと言う。
この場所は「駄馬落」(だばらく)と呼ばれバス停の名称にもなっており、現在、駄馬落の跡の石碑が建立されている。

こんな、西郷どんの失敗とも言える逸話の地にも石碑があるので、西郷隆盛はさすがにスゴイ人物であるとしか言いようがない。

さて、明治政府は、明治9年(1876年)3月に廃刀令を出し、8月に金禄公債証書条例が制定すると、各地の士族は憤慨。
10月24日の熊本県士族の神風連の乱、27日の福岡県士族の秋月の乱、28日の萩の乱もこれらの特権の剥奪に怒っておきた。
11月、西郷隆盛は日当山温泉でこれら決起の報を聞くと下記のように書簡を桂久武に出している。

前原一誠らの行動を愉快なものとして受け止めていたが、今帰ったら若者たちが逸るかもしれないので、まだこの温泉に留まった。
今まで一切自分がどう行動するかを見せなかったが、起つと決したら、天下の人々を驚かすようなことをするつもりである。

西郷隆盛は、部下達に最後まで蜂起はしないとしていたが、明治政府は、大警視・川路利良らが24名の巡査を、鹿児島県の情報探索や、西郷隆盛と私学校を離間させるなどの目的で、鹿児島に派遣したり、鹿児島の武器弾薬を移したりした。
その為、士学校の生徒が火薬庫を襲撃するなどの事件が起こった。
私学校本校で大評議が開かれ「この体はおまんさァたちに、差し上げもんそ」と、政府問罪のために大軍を率いて上京することに決する事に押された。
1877年2月13日、大隊編制が行われ、一番大隊指揮長に篠原国幹、二番大隊指揮長に村田新八、三番大隊指揮長に永山弥一郎、四番大隊指揮長に桐野利秋、五番大隊指揮長に池上四郎が選任され、桐野利秋が総司令を兼ねることになり、翌14日、私学校本校横の練兵場にて西郷隆盛による正規大隊の閲兵式が行われた。
2月15日、50年振りとも言われる南国にしては珍しい大雪が降る中、13000とも20000とも言われる薩軍は午前8時に鹿児島から出兵し西南戦争(西南の役)が開始される。
17日、西郷隆盛も鹿児島を出発した。

そして、西郷隆盛が率いる薩軍は、下記の加治木にある「龍門司坂」(国の史跡)を通過して、人吉を経て熊本へ向かった。

薩軍は熊本城を攻撃するも、政府軍の圧倒的兵力を受けて撤退し、田原坂の戦いでは篠原国幹ら勇猛の士が次々と戦死した。
以降、薩軍は後退を余儀なくされ、宮崎・鹿児島の山岳部を10日間も掛けて踏破し鹿児島に退却した。

下記は、薩軍が踊郷宿窪田まで退却した際に、西郷どんが宿泊した前田万兵衛の屋敷跡にある西郷隆盛宿営地の碑。

鹿児島に入った薩軍は約1000にまで減っていたが、そのうち残兵300と幹部40が、鹿児島城の裏山となる「城山」に籠った。

下記が城山の西南戦争薩軍本営跡となる。

西郷隆盛の3番目の妻・西郷糸子らは、南洲野屋敷へと非難していたが、最後の晴れ着である縞の筒袖を送り届けている。
しかし、この城山も60000の政府軍に包囲され、西郷隆盛は最後の5日間を下記の「西郷洞窟」にて過ごした。

この暗い穴の中にて、愛加那や糸子など家族を思い、また、日本がどのような道を歩むのだろう?と考えたことだろう。

1877年(明治10年)9月24日、早朝3時55分、三発の号砲を合図に官軍が総攻撃を開始した。
政府軍の総攻撃が始まり、これが決戦の場と決めると、西郷隆盛は白の兵児帯を締め、新しいわらじを履いて、桐野利秋・桂久武・村田新八・池上四郎・別府晋介・辺見十郎太ら幹部40名を整列させる。
そして、空が白みかけた午前4時30分頃、西郷洞窟を出て、薩軍約340名は岩崎口に突撃を開始した。

薩軍は約600m突撃するも、相次いで銃弾に倒れ、刺し違えたり自刃する者も出る。
そして、西郷隆盛も、島津応吉久能邸門前で、股と腹に被弾。
別府晋介に「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」と言い、将士が見守る中、襟を正して自刃。
別府晋介は「ごめんなってたも」と言って介錯し、巨星はここに散った。
西郷隆盛、享年51(満49歳没)。
下記が西郷隆盛終焉之地となる。

西郷隆盛の死を見届けた残りの将士は、私学校の一角にあった塁に籠もって最後まで戦ったのち、自刃、刺し違え命を落とした。
下記は、西南戦争の銃弾跡。

西郷隆盛は、権力に執着しない日本人らしい潔よさを最後まで貫いた。
「維新の三傑」の1人で、東京の上野公園にある彼の銅像(高村光雲の作)は、現在でも多くの日本人から親しまれている。

なお、西南戦争の戦死者が埋葬された鹿児島・南洲墓地には、西郷隆盛、篠原国幹、桐野利秋、別府晋介、村田新八などの墓があり、お参りする人が絶えない。

天皇からも信頼されていた西郷隆盛

西郷隆盛は、明治天皇の教育者として2年間厳しく務め、天皇も飾らない彼を慕ったと言う。
西南戦争の時の明治天皇は京都御所にいたが、執務を取らず後宮に籠もり、終わる見通しがつくまで東京には帰らなかった。
西郷の死を知った際には「殺しても良いとは言っていない」と、怒りと悲しみの表情を見せたと言う。

下記は鹿児島にある西郷隆盛の銅像。
いまでも多くの観光客が足を止める場所となっている。

鹿児島にある西郷隆盛関連の史跡

このページにてご紹介した西郷隆盛誕生地碑、座禅石、西郷隆盛蘇生の家、西郷どんの宿、西郷屋敷跡(武町)、私学校跡、駄馬落の跡、龍門司坂、西郷隆盛宿営地の碑、西郷隆盛終焉之地、西南戦争の銃弾跡、西郷隆盛の銅像、西郷隆盛の墓などがある場所は、具体的な行き方・アクセス方法、駐車場情報なども含めた観光用の参考ページを只今構築中です。
2016年12月上旬までには完成させたいと存じておりますので、完成次第、ここにてリンクさせて頂きます。
また、奄美の史跡に関しても、12月末までに追加する予定です。

以上、今でも多くの日本人に愛されている西郷隆盛ですが、西郷どんが、どのように思いながら激動の中、人生を全うしたのか?、この記事にて皆様が少しでも理解が進めば幸いに存じます。
17000文字を越える長文で、大変ヘタな文章で失礼致しましたが、最後までご覧頂き、誠にありがとうございました。
下記よりコメントも賜りますと幸いです。

歴史執筆/高田

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