近藤勇とは~新選組局長として徳川幕府に尽くした生涯


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近藤勇(こんどういさみ)は、武蔵国多摩郡上石原村(現在の東京都調布市野水1丁目)の豪農・宮川久次郎の3男として、1834年10月9日に生まれた。幼名は勝五郎。
父・宮川久次郎には、宮川勝五郎の他に、長女・宮川リエ、長男・宮川音五郎、次男・宮川粂蔵(宮川粂次郎)がいる。
近藤勝五郎は、末っ子であり、父から「三国史」や「水滸伝」などの英雄の話を聞いて育ち、のちに人生に大きな影響を与えたと考えられる。

1849年11月11日、宮川勝五郎(15歳)は兄2人と共に天然理心流剣術道場・試衛館(江戸の牛込甲良屋敷、現在の新宿区市ヶ谷柳町)に入門。
人一倍稽古に熱心だったと言い、宮川家に押し入った盗人を退治すると、その度胸に感服した師・近藤周助(近藤周斎)に認められ、近藤周助の実家である嶋崎家へ養子に入って嶋崎勝太と名乗った。
その後、正式に近藤家と養子縁組し、師の旧姓・嶋崎勇と名乗ったのちに、近藤勇に改名した。勇は通称、諱は昌宜(まさよし)。

剣術一筋に力を注ぎ、武術が上達すると、神田昌平橋近くに住む溝口誠斎について漢学も修めたと言う。

1860年、清水徳川家の家臣・松井八十五郎の長女である松井つねと結婚。
1861年8月27日には府中六所宮「大国魂神社」の東の広場にて、天然理心流宗家の四代目襲名披露の野試合を行い、晴れて流派一門の宗家を継いだ。
この野試合では、本陣に近藤勇(27歳)が総大将として布陣し、紅白2つに分けて、のち新選組隊士として活躍する沖田総司井上源三郎土方歳三山南敬助なども参加したと言う。

1862年、長女・たま(近藤瓊子)が誕生。のち瓊子は、近藤勇の兄・宮川音五郎の次男・勇五郎を婿養子に迎えている。

1863年、庄内藩郷士・清河八郎の献策により、徳川幕府は14代将軍・徳川家茂の上洛警護をする浪士組織「浪士組」の参加者を募集。
斎藤一を除く試衛館の8人(近藤勇・土方歳三・沖田総司・山南敬助ら)は参加して、2月8日、芹沢鴨・新見錦・平山五郎・野口健司らと共に浪士組一行に加わり京都に向けて出発した。
中山道を進むと2月23日に京都に到着。
浪士組は壬生の郷士・八木源之丞の世話を受ける事になり、八木邸に宿泊した。

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浪士組の本当の目的は将軍警護ではなく尊王攘夷の先鋒であると、清河八郎は朝廷に建白書を提出し、攘夷決行の為、浪士組の江戸帰還を提案。
しかし、近藤勇や水戸郷士・芹沢鴨ら24人は攘夷に反対し、幕府の為に働くとして京都に残った。
そして、第一次の隊士募集を行い36名余の集団となると、京都守護職を務める会津藩主・松平容保に嘆願書を提出。
会津藩預かりとなり、京都守護職の配下として「壬生浪士組」と称し、京都での治安活動を開始した。

壬生浪士組は最初、活動方針などで揉めて、3月25日には殿内義雄が暗殺され、根岸友山の一派と粕谷新五郎は脱退。阿比類鋭三郎は病死(暗殺説あり)し、家里次郎が切腹している。
その為、壬生浪士組は元は農民などの出である近藤派と、元水戸藩士などの芹沢派の2派閥体制となった。

長州藩を京都から排除するために中川宮朝彦親王と会津藩・薩摩藩が主導した八月十八日の政変が起こると、壬生浪士組は御所・御花畑門の警護を担当した。
しかし、目立った活躍もなく長州勢の残党狩りに出動。その後、働きぶりが認められ、武家伝奏(または松平容保から賜った)より「新選組(新撰組)」の隊名が下賜された。

新選組では隊の規律を巡って近藤勇と芹沢鴨の間で対立しており、新見錦を切腹させると、1863年9月16日(18日とも?)、近藤勇・土方歳三ら試衛館派が八木邸で芹沢鴨、平山五郎を暗殺。
平間重助は脱走し野口健司は12月に切腹した。
これにより水戸派は一掃され、試衛館派が新選組を掌握し、近藤勇が局長に就任し、土方歳三を副長とした。

1864年6月5日、新選組は熊本藩士・宮部鼎蔵の同志・古高俊太郎を捕縛。
供述から中川宮邸放火計画を知ると、直ちに探索を開始して、一味が潜伏していた池田屋に突入した。
尊攘派の吉田稔麿・北添佶摩・宮部鼎蔵・大高又次郎・石川潤次郎・杉山松助・松田重助らが命を落としたこの池田屋事件で、新選組の名は天下に轟き、朝廷と幕府から感状と褒賞金を賜っている。
その後、禁門の変でも出動し、会津藩と共に久坂玄瑞ら長州藩と戦った。

1864年9月には第二次の隊士募集を行い、更に近藤勇が江戸へ帰郷した際、伊東甲子太郎らの一派を新選組に入隊させた。
こうして、新選組は200名を超す集団へと成長し、壬生屯所が手狭となった為、西本願寺へ拠点を移した。

1865年には京都町奉行・永井尚志の供として広島へ赴いている。

1867年3月、伊東甲子太郎・藤堂平助の一派が思想の違いなどから脱退して御陵衛士を結成。
1867年6月、新選組は幕臣に取り立てられ、近藤勇は御目見得以上の格となり、幕府代表の一員として土佐藩の参政・後藤象二郎らと交渉にもあたった。

1867年10月、将軍・徳川慶喜が大政奉還を行う。

1867年11月18日、近藤勇は伊東甲子太郎を酔わせて、帰り際に大石鍬次郎等に暗殺させた。
その後、他の御陵衛士たちを誘い出して夜襲し、藤堂平助らを殺害。(油小路事件)
12月18日、竹田街道・墨染で御陵衛士の残党から報復を受け、近藤勇は銃で撃たれて負傷。

新選組は旧幕府軍に従い戊辰戦争に参加したが、幕府軍は1868年1月3日の鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗北。
この時、近藤勇はケガの療養中で隊を率いることができずに大坂城で、新選組の検診医でもあった幕府典医・松本良順の治療を受けていた。
そして、戦局の不利を悟った隊士たちが相次いで脱走し、戦力が低下したが、榎本武揚が率いる幕府の軍艦で江戸へ撤退した。

その後、東山道を東進してくる官軍から甲府城を守る為、1868年3月、徳川幕府から甲府鎮撫を命じられ、新選組は甲陽鎮撫隊と名を改めて、新規隊士を含めた約200名と大砲2門・小銃500挺・軍資金5000両で甲州へ進軍。
しかし、既に甲府城は官軍の手に落ちており、甲府の勝沼で新政府軍3000と甲州勝沼の戦いとなった。

勝沼の戦いとは~新選組の衰退を決定づけた甲州勝沼の戦い(柏尾の戦い)

上記写真は勝沼の戦い。戦力的に不利で敗れると上野原まで退却し、あとは各自自由に江戸へ戻った。
近藤勇が本陣を置いた大善寺の紹介はこちら

方針の違いから永倉新八、原田左之助らが離隊して靖兵隊を結成。
近藤勇と土方歳三らは再起をかけ、旧幕府の兵を募集すると幕命により若年寄格となった近藤勇は大久保大和守剛、土方歳三は内藤隼人と称し、流山へと移動した。
しかし、近藤勇は香川敬三が率いる新政府軍に包囲され、越谷の政府軍本営に連れて行かれた。


 
新政府軍側に大久保大和守剛が近藤勇だと知る者がいた為、総督府が置かれた板橋宿まで連行されたが、近藤勇実は最後まで大久保の名を貫き通したと言う。
しかし元隊士で御陵衛士の一人だった加納鷲雄、清原清の証言により近藤勇と確定されると、薩摩藩は穏便にと考えていたのに対し、土佐藩の谷干城は、坂本竜馬、中岡慎太郎暗殺の犯人を新撰組と信じて近藤勇を仇敵としていたようだ。

4月25日、中仙道板橋宿近くの板橋刑場で横倉喜三次、石原甚五郎によって近藤勇は斬首された。享年35(満33歳没)。

首は板橋宿はずれにある平尾一里塚刑場(現板橋駅東口付近)に晒された後、火酒(焼酎)に浸されて京都に送られ三条河原に晒されたが、そのあとの首の行方は不明である。

首のない遺体は、処刑の知らせを聞いた宮川音五郎(近藤勇の兄)と次男・宮川勇五郎が、かつての門人から「板橋で捕われているようだ」と聞いて赴いてみると、斬首されるのを目撃したようだ。
その後、翌々日の4月27日に「何とか遺体を持ってこよう」と言う事になり、宮川勇五郎と宮川音五郎と門人等7人で夜に板橋刑場の番人に包金を握らせ、首のない遺体を三鷹の竜源寺まで運んで埋葬したと言う。
首のない遺体の本人確認は、京の伏見街道墨染で伊東甲子太郎の残党によって狙撃された鉄砲の傷跡で行ったと言う。

なお、近藤勇の娘・たまは、当時6歳で、許嫁の宮川勇五郎(近藤勇五郎)の母・つねと共に本郷村成願寺に隠れ住んでいた。

その後、明治政府は、新選組隊士の遺族らに遺品の所有を禁じている。

生家である宮川家の屋敷は戦時中の1943年(昭和18年)に調布飛行場延長工事によって取り壊され、現在は屋敷の東南隅に産湯に使った井戸と近藤勇を祀った小さな近藤神社がある。

板橋にある近藤勇の墓

板橋で処刑された近藤勇ですが、首は京の三条河原にさらされました。
しかし、胴体はこの板橋の地に埋葬されたとも言われています。

明治9年(1876年)5月に、永倉新八らによって、近藤勇、土方歳三、そして幕末に命を落とした新選組隊士の供養塔も建てられました。
下記の岩は、その供養塔が建つ前の近藤勇の墓碑との事です。

なお、近藤勇の生家近くの寺にも、正式な墓がありますので、念のため記載しておきます。

アクセス・行き方ですが、JR埼京線の板橋駅「東口」から徒歩1分です。
下記の地図のポイント地点がその場所となりますので、ご参考まで。

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更に詳しく、近藤勇の生家と墓について
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