沖田総司 剣豪にして陽気な明るさを持った天才剣士・沖田総司とは?


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 沖田総司(おきたそうじ)は、陸奥・白河藩士・沖田勝次郎(足軽頭)の嫡男として、江戸の白河藩邸(東京都港区西麻布)にて生まれた。
 生年に関しては、1844年、又は1842年のどちらかと言う説があり、生まれた月日は6月1日説もある。名は沖田惣次郎、沖田宗次郎。

 沖田総司が生まれた時の沖田家は、日野にあり、近所で親戚でもあった井上源三郎の家にも、良く遊びに来ていたらしい。
 もちろん、井上家の男子は皆、天然理心流の剣術も習っていた為、そんな稽古を見て沖田総司も育ったのだろう。

 父・沖田勝次郎は1845年10月20日に死去、沖田総司が4歳の時であった。
 その後、母・ミキも亡くなったとされている。

 姉が2人いて、沖田家は姉・みつが、1846年に井上林太郎を婿に迎えて、家督相続したが、沖田家は白河藩から離れたため、貧しくなったと言う。
 沖田キンは、越後三根山藩・牧野家臣である中野伝之丞由秀(23俵3人扶持、江戸詰め)に嫁いだ。

 沖田総司は1850年、井上源三郎の家に寄った際、9歳にも拘わらず大人に剣術で勝ったと言う事で、これはすぐにでも腕をさらに磨いた方が良いと言う事になり、天然理心流道場「試衛館」に入門。
 こうして、近藤周助の内弟子となったが、これも貧しさゆえであったともされる。

 
 ※上記写真は、井上源三郎の生家

 この時、既に近藤勇も試衛館の門人となっており、土方歳三はのちに正式入門したが、出入りはしており、面識はあったものと推測される。

 1852年、12歳の時、白河藩の剣術指南と対戦して勝利した。

 1856年、近藤勇と共にに調布・下仙川村にて出稽古し、また、1859年にも町田・小野路の名家・小島家を訪問して出稽古しているのが見受けられる。
 1860年には、試衛館の塾頭になった。

 永倉新八の言葉には「土方歳三にしても、北辰一刀流の目録を持っていた藤堂平助にしても、沖田総司にかかると子供同然にあしらわれた。本気になったら師匠の勇でさえやられただろう」とあり、沖田総司の腕前は、郎党の中でも抜群であった。

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新選組・沖田総司

 1863年、清河八郎松平春嶽に建白し浪士組の参加者が募集されると、近藤勇を始め試衛館の山南敬助・土方歳三・永倉新八・原田左之助・藤堂平助・平山五郎・野口健司・平間重助らと沖田総司も馳せ参じる。
 そして、上洛予定の将軍・徳川家茂の警護を行うため、先に京都へと中山道経由で上った。
 しかし、清河八郎が本当の目的は攘夷にあると宣言し江戸に戻ると、芹沢鴨や近藤勇ら試衛館の志士は反対して、将軍警護を果たすため、そのまま京の壬生村・八木源之丞の屋敷に残り壬生浪士組と称した。
 なお、姉の夫・沖田林太郎も当初浪士組に加わったが、途中で抜けている。

 沖田総司は、剣術から離れると良く冗談を言いながら笑って話すのが好きだったされ、暇を見ては屯所周辺の子供たちとも笑顔で遊んだと言う。

 浪士取締役・佐々木只三郎により浪士組は会津藩預かりとなると、京都守護職の会津藩主・松平容保より、主に不逞浪士の取り締まりと市中警備を任され、沖田総司は副長助勤筆頭となった。
 そして、浪士組は八月十八日の政変の功績にて、新たな隊名「新選組」を拝命している。

 沖田総司は、尊皇とか佐幕と言う思想とは無縁であったが、慕う近藤勇のもと新選組一番隊組長として存在感を現した。
 新見錦を切腹に追い込むと、1863年9月16日には、土方歳三・沖田総司・原田左之助らが芹沢鴨と愛人・お梅を暗殺。
 1864年5月20日、23歳の時は、大坂西町奉行所の与力・内山彦次郎を暗殺。6月5日の池田屋事件でも近藤勇、永倉新八、藤堂平助、武田観柳斎らの近藤隊として池田屋に突入。

 討幕派の長州藩士・吉田稔麿や、肥後の松田重助を斬ったが、肺結核が悪化しており喀血・昏倒したと言う。
 これ以降は病の為、華々しい活躍はなくなったとされるが、禁門の変にも近藤勇・土方歳三・武田観柳斎・永倉新八と共に出動。
 1865年2月には、総長・山南敬助が新選組を脱走した際に、追いかけて近江草津で捕らえている。
 山南敬助が切腹した際には、沖田総司が介錯している。

 1867年1月7日、四条大橋にて、十津川郷士・中井庄五郎及と、土佐浪士・那須盛馬と斬り合った。
 6月10日、幕臣に取り立てられ、大御番組扱いとなる。
 しかし、病状が悪化し、12月20日に、負傷した近藤勇と共に大坂へ赴き、診察を受けたため、鳥羽伏見の戦いには参加しなかった。

 1868年1月10日、逃れてきた隊士らと共に徳川幕府の軍艦・富士山丸にて江戸に出発し、1月15日に品川へ入港すると神田和泉橋の幕府医学所に入院。
 姉の沖田ミツが看病に訪れたとされ、近藤勇も甲陽鎮撫隊の出動前に、見舞っている。

 しかし、勝海舟西郷隆盛により江戸城無血開城となると、医学所も閉鎖されたため、浅草・今戸の称福寺にて療養したとされる。
 沖田ミツも江戸に居られなくなり、夫や家族と共に庄内藩へ移った。

 その後、幕府の医師・松本良順の手配で千駄ヶ谷の植木屋・平五郎宅の改造された納屋で療養したが、板橋で斬首された近藤勇の死も知らされず、その2ヶ月後である1868年(明治元年)5月30日に息を引き取った。享年27。(24、25とも)

沖田総司の墓

 沖田総司の墓は、六本木ヒルズからほど近い、東京都港区の専称寺にあります。
 専称寺は、朝日姫(三光院清心尼、三光院清心比丘尼)が開基した寺です。
 この朝日姫は、豊臣秀吉の妹ではないようで、筒井順慶の姪とも?、織田信長の侍女とも?、織田信長の息女とも?、また織田信長の側室とも?あり、色々と調べてみましたが特定できず詳細不明です。

 渋谷駅・東口より(都01系統)六本木ヒルズ行きバスにて向かってみました。
 六本木ヒルズのバス停で降りて、専称寺まで徒歩5分といったところです。(六本木駅からだと徒歩10分くらい)

 沖田総司の墓ですが、専称寺の裏にある墓地にあり、沖田家代々の墓所となっています。
 ただ、この墓地は檀家さん以外の立入が禁止されており、普段、鍵が閉まっていて、敷地内に入る事はできません。
 なんでも、ファンの方が墓を削って持ち帰るような悪行を行ったと言う事で、現在は下記のようにフェンス越しでの撮影しかできません。

 屋根のあるのが沖田総司の墓となります。
 なお、年に一回、沖田総司忌が催される日は、僅か2時間ばかりですが、直接、沖田総司の墓の前にてお参りすることが可能になります。
 ただし、結構厳しいルールがありますので、ここでは直接のご紹介は控えさせて頂きます。
 「沖田総司忌」で検索すると、情報が出てくると思います。

 専称寺には駐車場はありませんので、付近のコインパーキングが六本木ヒルズ駐車場使用となります。
 下記の地図は縮尺を変えてご覧願います。

井上源三郎 腕より人柄・新選組を支え散った源さん
佐藤彦五郎(詳細版) 幕末に新選組を支援した日野宿の名主
近藤勇とは~新選組局長として徳川幕府に尽くした生涯
新撰組副長である土方歳三の「生き様」とは
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