近藤周助 天然理心流3代目であり近藤勇の養父


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 近藤周助(こんどう-しゅうすけ)は、1792年に名主・嶋崎休右衛門の5男として生まれた。
 幼名を関五郎、その後、嶋崎周平、嶋崎周助と嶋崎周助と改名。

 この嶋崎家(島崎家)は、武蔵国の多摩郡小山村字三つ目(三ツ目)に居を構えていた名主である。
 小山の三つ目と言う場所は、現在の東京都町田市で、JR橋本駅から見て、境川を越えた北側に山王社日枝神社や寶泉寺がある、町田街道沿いとなる。

 なんでも、戦国時代の1556年頃に、常陸の行方郡島崎村から、逃れてきてこの小山に土着したと言う。
 嶋崎氏(島崎氏)は、行方四頭にも数えられた常陸大掾氏の一族で、戦国期に佐竹家の圧迫を受けて散参した模様だ。
 その時、常陸から持参したと伝わる「子種石」が、多摩境駅近くの札次神社(ふだつぎ)にて保管されている。
 ※上記のトップ画像が札次神社。

 

 → 札次神社についてはこちら

 嶋崎周助が、八王子千人同心組頭であり剣豪であった天然理心流剣術2代目・近藤三助に弟子入りしたのは1811年。

 その近藤三助が、1819年に相原村(町田市相原)で客死(急死・脳の病気?ケガ?)すると、後継者をまだ指名していなかったため、八王子は増田蔵六、神奈川宿は桑原英助、江戸では嶋崎周助がそれぞれ「3代目」を称する事になった。

 嶋崎周助が近藤姓に改名したのは1830年2月11日で、近藤三助の死後11年が経過しているが、どのような経緯で近藤家の家名を継いだのかは不明である。
 分かっている事は、増田蔵六は八王子千人同心組頭の役目の傍ら剣術も教え、桑原英助は名主だったようで、箱館戦争で壮烈な戦死を遂げた中島三郎助や講武所師範・小野田東市を排出した。
 その反面、嶋崎周助は剣術を教える事が唯一の収入源であったようだ。
 妻の名は近藤ふで。江戸牛込近辺の芸者出身と伝わるが、嶋崎周助(近藤周助)にとっては9番目の妻ともある。

 そして、近藤周助(嶋崎周助)は1839年に江戸市谷甲良屋敷(新宿区市谷柳町)に道場を開いた。
 主に多摩地区にて門人は300名を数えている。

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 1849年、宮川勝五郎を養子に迎えたが、この人物こそ新選組局長となる近藤勇である。

 天然理心流では門人に剣術だけを教えたと思いがちになるが、どうも、そうではなく、柔道から槍術、敵を捕縛した際の縄の結び方まで、すなわち普段の仕事などでも生かせる実戦的な様々な武芸を、こと細かく教えたようである。

 1861年、近藤勇に譲って隠居すると、名を近藤周斎と改めた。
 府中・武蔵六社宮(大國魂神社)で行われた奉額試合のときは、近藤勇、土方歳三沖田総司井上源三郎ら天然理心流門人が拝殿前で型試合を行った。
 この時、府中宿の住民や、飯盛旅篭などからの寄付金を集めると、225両に達したと言う。
 しかし、経費は神事経費、神楽執行料、六社宮奉納金など170両に過ぎず、近藤周助が50両受け取り、近藤勇に5両渡したと伝わる。

 また、日野の八坂神社などにも剣術上達祈願の献額を奉納しており、多摩地区で門人獲得のための宣伝も行うなど試衛館の拡大に努めた。

 1863年、近藤勇らが浪士組として京都へ出立したあと、中風を患い病床に伏す。
 そのため、日野の名主・佐藤彦五郎を介して近藤勇に戻るよう促してもいる。

 近藤勇や土方歳三らが幕臣に取り立てられたその年である、1867年10月28日没。享年76。

 墓所は東京タワーからほど近い、港区芝公園3丁目の金地院。

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