周布政之助 長州藩の財政改革を進めた政務役筆頭


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 周布政之助(すふまさのすけ)は、1823年3月23日に誕生した。
 父は、長州藩士・周布吉左衛門(大組219石)で、5男として生まれた。政之助は通称であり、実名は周布兼翼(かねすけ)。

 この周布家は戦国武将・益田藤兼を輩出した益田家の支流で、近世以降は代々長州藩毛利家に仕えていた。
 父・周布吉左衛門と長兄が相次いで亡くなり、他の兄も既に養子に出されていた為、家禄を68石に減ぜられたが、わずか生後6ヵ月で家督を相続したと言う。
 生家も、萩城から、かなり離れた城下町の端にあり、決して身分は高くなかった。

 長州藩校・明倫館で学んだ周布政之助は、早くも才能を発揮し「都講」(現在で言う生徒会長)にもなっている。
 若い頃は、来原良蔵や松島剛三らと嚶鳴社を結成して政治改革を論じたが、弾圧されることなかった。

 私的感想を入れると、長州藩の素晴らしい所は、若い藩士が政治結社を作っても、弾圧して制限せずに、むしろ推奨して人材育成を重視しているところだ。
 薩摩精忠組、土佐勤王党、水戸天狗党など、他藩では弾圧され、結果的に脱藩する藩士が後を絶たなかった。

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 1847年に祐筆・椋梨藤太の添役として抜擢される。
 独自の周布家を起こす事が許され、大組約79石でその名がみえるが、長州藩士約3000名中だと、860位くらいの
 周布政之助は天保の藩政改革(長州藩の財政再建)を行った家老・村田清風の影響を受けており、この抜擢は村田清風と藩内政権争いをしていた坪井九右衛門派の椋梨藤太との連立政権を意味していた。
 1853年、周布政之助は若くして長州藩政務役筆頭となり、財政再建や軍制改革、殖産興業など、藩政改革に尽力。また桂小五郎高杉晋作ら優秀な吉田松陰の門下生を中枢に登用した。

 しかし、ペリー来航で、江戸幕府より相州防備の任を萩藩が負うと、藩の財政が再び悪化し、周布政之助は失脚したが、その後再び藩政に復帰した。
 この頃の長州藩は、改革派(周布政之助ら)と保守派の二大派閥が、政権を取ったり失ったりと、政権交代が繰り返されていたのだ。

 1858年には、吉田松陰が周布政之助に手紙で「老中・間部詮勝の暗殺する許可」を求めた為、吉田松陰を萩の牢獄に監禁している。

 1862年頃には、藩論の主流となった長井雅楽の航海遠略策に、藩の経済政策の責任者として周布政之助は同意。
 そして、久坂玄瑞らに説得されて、藩論統一のために「攘夷」を唱えた。

 なお、周布政之助は酒癖が悪く、1862年に土佐藩前藩主・山内容堂に対して暴言を吐いて謹慎処分となった。
 この際、山内容堂は藩主・毛利広封(毛利元徳)に対して、周布政之助の死罪を迫った為、毛利家は「麻田公輔」と改名させて、江戸藩邸での勤務を続けさせた。
 禁門の変で長州藩が窮地にあった頃、高杉晋作が脱藩の罪で投獄されていた野山獄に、酒に酔って馬に乗り抜刀して乱入したとも伝わり、失脚している。

 イギリス・フランス・オランダ・アメリカとの下関戦争で、攘夷を唱えながら、穏便に講和したことから、保守派・改革派双方から責められ、高杉晋作とともに長州藩士の暴発を抑えようとしたが失敗。

 1864年9月、第一次長州征伐が迫ろうとしていた頃、25日に開国派の井上馨が撰鋒隊に襲われて重傷を負ったその翌日、藩が混迷している責任を感じて、周布政之助は山口矢原(現・山口市幸町)の庄屋・吉富藤兵衛邸の裏で、深夜にひっそりと切腹した。享年42。

 (参考) 陽のあたらない英雄伝、Wikipedia

 → 長州藩の改革派と保守派の勢力争いが分かります

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