長州藩の勢力争い 改革派 (正義派・尊攘派・急進派・倒幕派)と保守派 (俗論派・重商派)


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 幕末の長州藩では藩論が二分し、正義党と俗論党が内部抗争を繰り返していた。
 そんな派閥のメンバーリストと、各派閥の他の呼び名と共に、まとめておきたい。

改革派(正義派・尊王尊攘派・急進派・倒幕派・勤王派)

 吉田寅次郎(吉田松陰)
 桂小五郎(木戸孝允)
 井上聞多(井上馨)
 久坂玄瑞
 高杉晋作
 寺島忠三郎
 村田蔵六(大村益次郎)
 山田市之允(山田顕義)
 伊藤俊輔(伊藤博文)
 佐世八十郎(前原一誠)
 時山直八
 福原越後(佐世元定)

 

穏健な尊王攘夷

 村田清風
 周布政之助
 来原良蔵
 小田村伊之助

 正義派と言う名称は、高杉晋作が名づけたもので、自らを正当化するために称した。

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保守派(俗論派・幕府恭順派、佐幕派、重商派)

 椋梨藤太
 中川宇右衛門
 小倉五右衛門 (小倉源五右衛門)
 岡本吉之進

公武合体派 (開国派)

 長井雅楽

正義派と俗論派の争い年表

 長州藩における政権争いは下記の通り。

 ▼改革派
 1838年(天保9年)村田清風による藩政改革の本格開始。
 1843年(天保14年)三七ヵ年賦皆済仕法により債務を整理。
 1844年(弘化元年)村田清風の改革が頓挫し、坪井九右衛門・椋梨藤太が実権を譲るも、当時は改革を支持。
 1847年(弘化4年)坪井九右衛門が失脚。
 1851年(嘉永3年)椋梨藤太が右筆(政務役)に就任し、保守派政権となる。
 1853年(嘉永6年) 黒船来航。椋梨藤太が右筆を罷免され、改革派の周布政之助が政務役筆頭となる。
 1854年(嘉永7年)吉田松陰、渡航未遂で野山獄送致。
 ▼保守派
 1855年(安政2年)2月、周布政之助が政務役辞任し、椋梨藤太が右筆となり、保守派政権となる。
 5月、村田清風死去。
 吉田松陰が杉家にて謹慎となり、松下村塾開塾。
 ▼改革派
 1858年(安政5年)周死政之助が政務役に就任し、改革派政権となる。
 長井雅楽が藩の直目付に就任すると、当初、周布政之助はこれを支持。日米修好通商条約が締結。
 吉田松陰はが老中・間部詮勝暗殺を計画し、投獄される。
 1859年(安政6年)安政の大獄。吉田松陰が江戸に送られ、伝馬町牢屋敷にて斬首。
 ▼保守派・公武合体派・開国派
 1861年(文久元年)長井雅楽が公武一和に基づく「航海遠略策」を建白すると藩論となり、幕府にも歓迎された。
 1862年(文久2年)高杉晋作らが御楯組を結成。坂下門外の変により老中・安藤信正ら失脚。これを受け、長井雅楽ら保守派が後退。
 ▼尊王攘夷派
 1863年(文久3年)長州藩主・毛利敬親は、幕命を無視して藩庁を萩から山口に移す
 長井雅楽が切腹。椋梨藤太、中川宇右衛門ら失脚して隠居。
 下関戦争勃発、奇兵隊結成、八月十八日の政変、坪井九右衛門が野山獄で処刑。
 1864年(元治元年)尊王攘夷の積極策を来島又兵衛真木保臣らが主張するも、桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞らは慎重派であったが、6月5日の池田屋事件新選組に藩士を殺されると、慎重派の周布政之助、高杉晋作や宍戸真澂らは藩論の沈静化に努めた。
 しかし、福原元僴(福原越後)や益田親施国司親相の三家老などの積極派は「藩主の冤罪を帝に訴える」ことを名目に挙兵を決意し、最終的に久坂玄瑞らも従い、7月、禁門の変となった。
 8月、四国艦隊による下関砲撃。9月、藩政を保守派が握ると4ヶ国と講和。責任を感じた周布政之助が自殺。10~11月、第一次長州征討。12月、小田村伊之助が野山獄に投じられる。
 ▼保守派
 10月、奇兵隊に解散命令。
 11月、長州藩において尊皇攘夷派の家老・国司親相・益田親施・福原元僴(福原越後)が切腹処分。12月、高杉晋作らによる功山寺挙兵。
 ▼尊王攘夷派
 1865年(元治2年・慶応元年)1月、大田・絵堂の戦いで正義派が勝利し保守派を一掃。5月、椋梨藤太が断首。中川宇右衛門は切腹。小田村伊之助が復帰。

 以後は、桂小五郎らが長州藩を引っ張り維新へ向かった。

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