椋梨藤太~長州藩の保守派と改革派の争いのすえ最後は・・


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 椋梨藤太(むくなしとうた)は、1805年生まれの長州藩士。
 諱は椋梨景治。妻は椋梨美鶴

 1851年、46歳の時、密用方から政務座役(政務役の右筆)に抜擢され、長州藩の重臣に加わり、幕末の長州藩において、中川宇右衛門とともに保守佐幕派(俗論派正義派)の代表的人物となった。

 1553年にペリー提督が来航すると、わずか2年で職を罷免され、代わりに革新派(尊攘派)の周布政之助が、長州藩の政務筆頭となった。

 吉田松陰が密航に失敗して捕まると、その翌年1855年には周布政之助は罷免され、椋梨藤太が右筆に返り咲いた。

 しかし、1858年には、再び周布政之助が政務役に復活。

 1861年、長州藩内で秀才と言われた開国論派の長井雅楽が「航海遠略策」を発表。
 簡単に説明すると、朝廷・幕府と対立している時でないので、国の方針を統一して外国に対応しようと言うもので、藩主・毛利慶親が採用して長州藩の藩論となり、幕府も第14代将軍・徳川家茂と、孝明天皇の妹・和宮を結婚させるなど「公武合体」の政策を取るに至った。

 しかし、長州藩内の革新派である久坂玄瑞前原一誠らは、この公武合体に反対し、幕府の老中・久世広周安藤信正が失脚すると、1863年に長井雅楽は責任を問われ、藩論が二分され、内乱が起きることを憂い、自害した。
 以後、長州藩は尊王攘夷改革派八月十八日の政変まで政権を握った。

 八月十八日の政変で、尊攘派の公卿とともに長州藩は京を追われた。
 禁門の変(蛤御門の変)で来島又兵衛・久坂玄瑞らが敗れると、長州藩は朝敵となり、1864年11月、徳川幕府は第1次長州征伐の進軍を開始。
 そんな最中に長州藩では幕府への恭順止むなしとする保守派が台頭し、高杉晋作は逃走。改革派の暴走も抑えられなかった周布政之助は責任を感じて切腹。
 政権に復活した椋梨藤太らは、禁門の変にて上京した国司親相益田親施福原元僴の三家老を切腹させ、四参謀七士を斬首し、首を差し出す事で、戦争を回避して幕府に恭順。
 恭順の意を示すため、強行的に改革派の面々を処刑していった。

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 改革派3家老の静粛を知った高杉晋作らは再び下関へ帰還すると、1864年12月15日夜半、伊藤俊輔(伊藤博文)率いる力士隊、石川小五郎率いる遊撃隊ら長州藩諸隊を率いて功山寺で挙兵。
 後に奇兵隊ら諸隊も加わり、絵堂の戦いによって形勢逆転されると、1865年3月に、椋梨藤太らは排斥されて、桂小五郎・高杉晋作ら革新派(尊攘派)が藩の実権を握った。
 そして、桂小五郎が禁門の変のあと潜伏していた但馬国出石からが萩に戻ると、長州藩の反論は再び、武備恭順・尊王・破約攘夷・倒幕路線に統一された。

 椋梨藤太は危機感を感じて同志12人と共に、1865年2月14日、小舟に乗って萩城下を脱出。
 江崎(阿武郡田万川町)に上陸して中国山脈を越え、岩国にはいって藩主・吉川監物に救いを求める予定であったが、海が荒れたため、石州飯之浦(益田市)に上陸地点を変更したところ、青原で津和野藩に捉えられた。
 12人は、ただちに萩へ護送され、途中で岡本吉之進、山県与一、小倉源五右衛門の3人は自刃。
 12人の中には椋梨藤太の次男・中井栄次郎もおり、萩の野山獄へ入れられた。

 取調べの際、椋梨藤太は「私一人の罪なので、私一人を罰するように」と懇願したとされる。
 なお、切腹を許されず「斬首」の形で亡くなった保守派は椋梨藤太のみであった。
 そして、1865年閏5月28日、斬首。享年61。
 中井栄次郎は23歳であった。
 その他、南新三郎、令泉太郎兵衛、小川八十槌、児玉久吉郎、木村松之允、小倉半左衛門らがいた。

 そして、桂小五郎率いる長州藩は、土佐藩の土方楠左右衛門・中岡慎太郎坂本龍馬らに斡旋されて薩摩藩の小松帯刀大久保利通西郷隆盛・黒田清隆らと「薩長同盟」を結ぶこととなる。

 椋梨藤太の妻・椋梨美鶴
 周布政之助の切腹
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 長州藩の派閥「保守派」と「改革派」の勢力争いがわかる説明

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コメント

    • 高田哲哉
    • 2015年 8月 18日

    ご覧頂きまして、誠にありがとうございます。
    また、ご指摘ありがとうございます。深く御礼申し上げます。
    お言葉を胸に、今後も精進して参りたいと存じます。

    • 誤字・脱字
    • 2015年 8月 18日

    誤字・脱字があり、文面も推敲されていない。

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