富永有燐 (富永有隣) 松下村塾の教育を支え鋭武隊も指揮した長州藩士


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 富永有燐(富永有隣、富永弥兵衛、とみながゆうりん)は、周防国吉敷郡陶村(現在の山口県山口市)にて1821年5月14日に生まれた。
 父は長州藩士である御膳夫士の富永七郎右衛門で、その長男。諱は徳、後に悳彦。通称は弥兵衛。

 幼少の頃に天然痘にかかり右目を失明した。

 9歳で長州藩の藩校・明倫館にて学ぶと秀才として知られ、13歳で藩世子(藩主嫡男)に『大学』に講じた。
 山県太華の門人でもある。
 有隣とは字で、論語の『徳は孤ならず必ず隣あり』から命名したとされる。

 成人後、小姓を務めたが「自分は優秀過ぎるので、私の能力や価値を理解できるような人物は、長州藩は愚か日本にもいない」と言う考えを持ち「他人を決して寄せ付けず、頭から拒絶して侮蔑する態度」を取ると言う性格がわざわいして、同僚だけでなく親族からも憎まれ、32歳のときである1852年に冤罪で陥れられ、見島に流刑となると、1853年には萩の野山獄に移された。

 海外への密航に失敗した吉田松陰が野山獄に入って来ると知り合い、意気投合したと言う。
 富永有燐 (富永有隣) は容貌魁偉の堂々たる体格だったようで、はじめて野山獄を訪れた人からは吉田松陰先生と間違えられたという話もある。
 杉文からは筆の差し入れを受けて、獄中で書を書き始めたと言う。

 吉田松陰の運動もあり1859年6月に出獄すると、吉田松陰の松下村塾に講師として招かれて、久坂玄瑞(18歳)、中谷正亮(27歳)、吉田稔麿(17歳)、久保清太郎(26歳)、高杉晋作(19歳)、伊藤博文(17歳)、品川弥二郎(15歳)、前原一誠(24歳)らに教えた。この時、富永有燐は37歳。

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 ただし、変質的な性格は終生変わらなかったようで、塾生に煙たがられただけでなく、塾生の事を見下していたようだ。
 しかし、吉田松陰のことだけは生涯「尊師」として敬ったと言う。

 安政の大獄で、吉田松陰が捕らえられると、1859年、失意のうちに松下村塾を去って、秋穂二島村(現 山口市)に私塾・定基塾を開いて尊王論を説いた。

 長州藩が幕府軍と戦った第2次長州征討では、長州藩士として鋭武隊を率いて石州口から芸州口にて戦闘に参加している。
 この時、富永有燐は46歳。

 1866年の四境戦争では、鋭武隊を率いて石州・芸州口で幕府軍と交戦した。

 明治2年7月に版籍奉還となると、藩知事・毛利元徳は11月25日に藩政改革を断行し、奇兵隊を含む長州諸隊5000余名を御親兵四大隊2250人に再編。
 残りの3000余名は論功行賞などなく解雇したため、11月30日に長島義輔ら旧奇兵隊士や、振武隊の藤山佐熊、鋭武隊の富永有隣ら旧諸隊士1200人が脱退騒動を起こした。
 くしくも奇兵隊を作った高杉晋作の父・高杉小忠太は山口藩権大参事として、反乱軍をを鎮圧する立場で活躍し、中原復亮も反乱軍を思い止まらせようと奔走する行動が見える。
 余談になるが、参議・前原一誠は諸隊の解雇および脱退者の討伐に猛反対し下野。のちに、萩の乱を起こす要因となった。、

 その後、富永有燐は各地を逃亡する生活を送るも、明治10年(1877年)に四国で逮捕されて、2年後の大審院にて有罪判決を受け、国事犯として石川島監獄に収容された。

 明治17年(1884年)に特赦により釈放されたが吉敷郡陶村には帰らず、2年後に熊毛郡城南村(現在の山口県田布施町)に住んだ。
 実妹の元に身を寄せて著述のかたわら帰来塾を開くと、近隣の青年の教育に尽力。
 著書に『大学述義』『中庸義解』『兵要録口義』などがある。

 明治33年12月20日死去。80歳。

 小説家・国木田独歩の『富岡先生』は富永有隣がモデルとなっている。

 → 野山獄について も是非ご覧ください
 → 萩の乱で責任を感じ、自決した玉木文之進とは?

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