島田魁~途中から入隊した新選組であったが最後まで戦った義の士


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島田魁(しまだ-かい)は、美濃国方県郡雄総村(岐阜県岐阜市)の庄屋・近藤伊右衛門の次男として1828年1月15日に生まれた。
しかし、父が関与していた木曽川奉行所が、木曽川の氾濫で木材を流出してしまう不始末を起こしたことから、父は切腹となったようで、母は子を置いて再婚した。
そのため、まだ幼かった島田魁は、母の姉妹が嫁いでいた、羽栗郡石田村(岐阜県各務原市)の永縄半左衛門の養子となり育てられた。

しかし養父・永縄半左衛門も流行病で死去し、その後は、厚見郡日野村(岐阜市日野)に住む母方の祖父・川島嘉右衛門に預けられ、剣術修行に目覚めたと言う。
そして、尾張徳川家当主・徳川慶恕の御前試合が名古屋城で開催されると優勝し、才能を認められて大垣藩士・嶋田才の養子となった。

その後、大垣藩を脱藩して江戸に出ると心形刀流・坪内主馬の道場にて剣術修行をするが、師範代を務めていた11歳年下の永倉新八と出会った。
島田魁の「魁」の読み方は、史実におけると「さきがけ」と呼ぶのが正しいとされている。
5年間の修業で心形刀流の免許を皆伝。

その後、大阪に赴くと新撰組隊士となった谷三十郎や、その弟・谷万太郎の兄弟が開いていた槍術道場にて種田流の修業をし免許皆伝を得ている。
そして、新選組に参加した永倉新八の誘いを受けると、36歳頃・1863年頃に京都の新選組に参加したと考えられている。

島田魁は、身長八尺(約180cm)、体重が四十五貫(約169kg)と巨漢で怪力の持ち主だったとされ、相撲も強かったことから「力さん」というのがあだ名だったようだ。

その一方で、酒も女も博打もやらないと言う真面目な一面も見られ、伊東甲子太郎らが新選組に入隊すると、二番隊・永倉新八の伍長を務めた。
なお、大福など甘いものが大好物だったようで、大量の砂糖を入れた「島田汁粉」を作っては携帯していたとされる。

池田屋事件の際には、長州藩士・古高俊太郎を捕縛するなど活躍した為、報奨金を得ている。

油小路事件で伊東甲子太郎を暗殺する際には服部武雄と戦った。
また、1867年末に、新選組局長・近藤勇が鉄砲で狙撃された際には、近藤勇が乗る馬を走らせて逃れさせるなどしている。
また新選組では、土方歳三の指示を忠実に守り、諸士調役兼監察として汚れ役も担っていたようだ。

1868年、鳥羽・伏見の戦いとなると、敵の大砲陣地に、永倉新八と共に抜刀隊として切り込んだ際には、油塀を登れずにいた永倉新八に対して、自分が持っていた銃を差し出しひょいと引き上げる手助けをした。

その後、新選組が江戸に赴くと永倉新八らは脱退したが、島田魁は最後まで新選組に従い、会津戦争を経て、榎本武揚の函館戦争にも参陣し五稜郭にて戊辰戦争を戦い抜いた。

そのため、戦後は謹慎処分となり1869年11月まで名古屋藩に預けられた。

謹慎が解かれると京都に行き剣術道場や雑貨屋を経営。
レモネードも販売したようだが、生活は困窮したという。

のち明治政府に入った榎本武揚から招聘の連絡を受けたが「呼び出すならば呼び出した方から会いに来るのが道理」と出仕を拒否している。

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明治19年(1886年)になると、かつて新撰組の駐屯所があった西本願寺の夜間警備員として働き出し、明治33年(1900年)まで務め抜いている。
持病の喘息が悪化したため一時休職したが、1900年3月20日、西本願寺で巡回中に喘息発作を起こし、その場で倒れて逝去した。享年73。
敬慕する土方歳三の戒名が書かれた紙が懐にあったと言う。

葬儀には永倉新八(杉村義衛)も、遠く北海道・松前から参列している。

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