斎藤一とは~新選組の中でも腕の立つ剣士 会津藩と運命を共に


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斎藤一は、はじめ山口一として 1844年1月1日、江戸(今の文京区九段下の辺り)にて生まれたとされる。
父が明石出身で明石浪人を名乗った理由から、播磨・明石藩出身説や、会津出身とする資料もある。

父は山口祐助、母は山口マス、兄・山口広明(山口廣明)と、姉・山口勝(カツ)がいる。

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父・山口祐助は元々、明石藩で足軽だったが浪人し、江戸へ出て石高1000石の旗本・鈴木家(神田小川町付近)の足軽となった。
後年、御家人株を買って御家人になったとされるが、実際には鈴木家の公用人(家来)だったようだ。
しかし、御家人株は安くても200両と考えられ、足軽の斎藤祐助には高価な買い物であることから、斎藤祐助は足軽奉公ではなく、商売をしていたととも考えられる。

19歳の時に小石川関口で旗本と口論になり、旗本の武士を斬り殺したされており、父や兄に旅支度をさせられて、その日のうちに京都に旅立った。
京都では、剣道場を開いていた聖徳太子流剣術道場主・吉田某が、父の友人であり、その吉田某を頼って、斎藤一と名を変えて身を隠し、19歳の斎藤一は師範代を勤めた。

将軍警護の目的で江戸から京に入った浪士組が、江戸に戻った際、近藤勇土方歳三を中心とする試衛館派と、芹沢鴨を中心とする水戸派は、あくまでも将軍警護のための京都の壬生村に残り、新選組の前身である「壬生浪士組」(精忠浪士組)を1863年3月10日に結成。
即日、隊士募集で入隊した11名に、斎藤一の名もあった。

なお、芹沢鴨・近藤勇らが3月10日に松平容保に提出した京都残留嘆願書には、既に斎藤一の名前が載っており、江戸にいた時から近藤勇ら試衛館組と知り合いだったとも考えられる。

その後、壬生浪士組は、京都守護職である会津藩主・松平容保の預かりとなり、斎藤一は20歳にして副長助勤に抜擢。
山南敬助より11歳年下、近藤勇より10歳年下、土方歳三より9歳、永倉新八より5歳、沖田総司より2歳年下で、藤堂平助と同い年。藤堂平助と並ぶ最年少の副長助勤である。
のちに組織再編成の際には三番隊組長となり、撃剣師範も務めたほど、沖田総司、永倉新八と並び新選組最強の剣士の一人であったと言われる。

斎藤一は背が高く、いかつい顔で、無口で酒豪。殺伐の癖があるとの評もあり、 新選組内部での粛清役や暗殺役を多く務めたとされる。

新選組で、斎藤一が関与した事件などは下記の通り。

1863年、大阪豪商押し借り、大阪力士乱闘、長州間者襲撃
1864年、池田屋事件禁門の変、近藤批判上書提出 (斎藤一だけ処分されず)
1865年、隊士募集の東下、三番隊組長に就任
1866年、谷三十郎暗殺?
1867年、隊規違反の島原流連、四条橋乱刃、油の小路の闘い、斎藤一から山口次郎に改名、天満屋事件
1868年、鳥羽伏見の戦いでは、新選組隊士として幕府側として参戦。
薩長の近代兵器の前に、新選組は得意の白刃戦に持ち込むことができず、橋本に退却したのち、山口次郎(斎藤一)も大阪に逃れた。
江戸に逃れた後には、1月19日に山口次郎(斎藤一)が神田和泉橋の医学所で単独の治療を受けているという記録がある為、鳥羽伏見の戦いで多少の傷を負ったと推測されている。

新政府軍が、江戸に向けて進軍を開始すると、山口次郎(斎藤一)は甲陽鎮撫隊に加わり、1868年3月1日に江戸を出発。3月5日に、甲州・勝沼で小規模な戦闘をするが、圧倒的な兵力の違いから敗れ、江戸に敗走。

江戸に逃れたあと、新選組の幹部は、幕府から旗本直参の身分を与えられ、同志を家来扱いする近藤勇に反発して、永倉新八らとともに、近藤勇と別袂する。
山口次郎(斎藤一)は、会津藩を頼るが、どのような行動をして会津に向かったかは、良く分かっていない。

近藤勇が捕まり、斬首されると、土方歳三ら新選組も会津に入るが、土方歳三は足の指をケガしていた為、山口次郎(斎藤一)が新選組隊長として率いることになった。

新政府軍が会津に迫ると、閏4月5日 会津新選組隊長として白河口出陣する際、松平容保に拝謁。
130名を率いて、、閏4月6日猪苗代湖畔の赤津宿に宿陣。翌7日以降、勢至堂峠の上り口に位置する御代宿に滞陣。
20日に、会津藩は西郷頼母を総督にし、白河城を攻略・占領。
御代を出陣した新選組は22日に白河城下に到着。翌23日、手薄な白河城から約3キロ程南に位置する白坂に進出し、新政府軍の襲来に備えての陣地を構築。

25日に新政府軍が攻撃を開始し、新選組が布陣した白坂口は激戦地となる。装備面では圧倒的に有利な新政府軍も、兵力が及ばず約70人に及ぶ死傷者をだして退却。

白河城の攻防戦は、連日、続いていたが、ついに5月1日、白河城が新政府軍の手に堕ちる。
その後も、会津藩は何度も攻撃を仕掛けるが、白河城を取り戻す事はできず、新選組も勢至堂峠に退いた。

7月上旬、土方歳三が復帰したが、土方歳三は旧幕府軍の参謀として伝習第一大隊などを指揮するため、新選組の直接の指揮は山口次郎(斎藤一)が、引き続き行った。

いよいよ、新政府軍が会津に迫ると、新選組は8月19日、母成峠に展開。母成峠の守備には大鳥圭介の伝習隊(幕府のフランス式陸軍精鋭部隊)、土方歳三以下の旧幕脱走軍など約800名が着陣した。
2月21日、新政府軍は、母成峠から会津に侵攻する作戦を取り、約2600名の部隊が総攻撃を開始。母成峠の戦いとなった。

圧倒的な兵力、武器の差などから会津藩側は敗走を余儀なくされ、山口次郎(斎藤一)も高森木地小屋経由で、日橋から会津若松に撤退。
すぐさま、22日 土方歳三、山口次郎(斎藤一)は、松平容保と前桑名藩主・松平定敬 兄弟と共に滝沢峠へと出陣。
しかし、新政府軍は早くも会津若松城の城下に進軍した為、若松城に入ろうにも、敵の攻撃が激しく、城に入る事ができなかった為、23日には米沢口・塩川村へ転陣。
前桑名藩主 松平定敬は兄・松平容保の命により米沢藩を援軍する為米沢に向かう。その際、新選組本隊と別行動をとっていた土方歳三も、数名の隊士を連れて米沢に同行。
山口次郎(斎藤一)は、会津藩不利と見て、土方歳三は米沢に向かったと非難している。
新選組も多くが戦死し、隊士は約14名程になっていたが山口次郎(斎藤一)は、他の旧幕府兵を預かり如来堂に布陣し、ゲリラ戦のような戦いを以後、展開して行く。

9月4日、如来堂西北の高久村で戦闘が始まり、島田魁、中島登など数名の新選組隊士が増援したところを、新政府軍が如来堂の留守隊に攻撃開始。
留守部隊は少数で、数十人の敵に囲まれもはや絶望的な戦況でした。
高久村に応援に向かった隊士たちは、残留部隊は全員討死したと判断し、土方歳三を追うべく仙台に逃亡した。
しかし、如来堂では全滅することなく、山口次郎(斎藤一)ら7人は新政府軍の包囲から脱出することに成功したが、新選組隊士のうち久米部正親、池田七三郎、吉田俊太郎、河合鉄五郎は会津を脱出。
ついに、山口次郎(斎藤一)はひとり (他にも隊士が1人いたという話もある)で会津に留まり、高田付近でゲリラ戦を続けた。

会津若松城も。長い籠城に耐えていたが、新政府軍の総攻撃が開始され、9月22日、降伏し開城。
山口次郎(斎藤一)は会津藩が降伏したあとも戦い続けたようで、会津藩士で同じく降伏後も抵抗していた佐川官兵衛と合流していたようだ。
その後、米沢などに逃亡はせず、会津藩士と以後行動を共にし、旧会津藩領の塩川、のち越後高田で謹慎生活を送り、下北半島・斗南藩への集団移住にも同行している。
斗南藩では五戸に移住し、篠田やそ と結婚している。篠田家は会津藩士としては大身に属した名家で、白虎隊士中二番隊に属し、飯盛山で自刃した篠田儀三郎とは遠縁にあたる。

警視庁が設立されると、新政府は、佐川官兵衛らに出仕を求め、貧乏にあえぐ多くの旧会津藩と同様に、斎藤一も上京したようで明治7年(1874年)、警視庁に採用された。
そして、元会津藩大目付・高木小十郎の娘で照姫祐筆でもあった 高木時尾 と再婚している。(篠田やそ の消息や没年は不明)
高木時尾との結婚の際には、元会津藩主・松平容保が上仲人、元会津藩家老の佐川官兵衛と山川浩(山川大蔵)、倉沢平治右衛門が下仲人を務めた。
この結婚を機に、斎藤一は高木時尾の母方の姓名「藤田」に改名し、藤田五郎を名乗った。
高木時尾との間には、長男・藤田勉、次男・藤田剛、三男・藤田龍雄の3人の子供を儲けている。

1877年、西南戦争が勃発すると藤田五郎(斎藤一)は警部補に昇進し、別働 第三旅団 豊後口警視徴募隊 二番小隊半隊長 として西南戦争に参加。
斬り込みの際に敵弾で負傷するも、大砲2門を奪取するなど奮戦して、東京日日新聞でも報道される手柄を立てた。
佐川官兵衛、山川浩(山川大蔵)も参加しており、佐川官兵衛は敵弾を受けて戦死している。
その後、藤田五郎(斎藤一)は、麻布警察署 詰外勤警部 として勤務したが、明治24年(1891年)4月、警視庁のリストラと同じ時期に退職している。

警視庁退職後は、日本で最初に設立された教員養成学校である東京高等師範学校校長・高嶺秀夫(元会津藩士)らの推挙で、明治26年(1893年)9月から、東京高等師範学校附属東京教育博物館の看守(守衛長)をしつつ、同校の撃剣師範を務め、学生に撃剣を教えたと言う。

高木時尾も同じ頃、女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大)の寄宿舎の舎監をしており、藤田五郎(斎藤一)が明治32年(1899年)4月に看守を退職すると、東京女子高等師範学校(お茶の水女子大学)の庶務掛兼会計掛として勤務。

学校勤務の際に、藤田五郎(斎藤一)は頼まれた訳でもないのに生徒の登下校時は人力車の交通整理もしたそうで、「格別勤勉」として5回の特別給与も支給されている。
明治42年(1909年)に一切仕事から退くが、以後も、山川浩(山川大蔵)や、高嶺秀夫とは親交が続いたようだ。
晩年は、長年の深酒がたたり胃潰瘍を患い、大正4年(1915年)9月28日に死去。享年72。
床の間で正坐し、膝の上に両手を置き息を引き取ったと、最後を看取った、子の藤田勉の妻・みどりが語っている。

墓は福島県会津若松市の阿弥陀寺。永倉新八も同年1915年1月に死去している。

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コメント

    • 高田哲哉
    • 2016年 10月 14日

    のろゆきさま、コメントを賜りまして、誠にありがとうございます。
    また、藤田姓につきましても、貴重な情報、御礼申し上げます。
    また、何かございましたら、お寄せ願えますと幸いです。

    • のろゆき
    • 2016年 10月 14日

    すいません、横から失礼します。
    藤田家のご兄弟の順番は、主さまの表記通りで合っていると思います。
    自分の手持ちの史料でもこの順番になっています。

    ところで、藤田姓についてなのですが、菊池明氏や赤間倭子氏、あさくらゆう氏などの著書を読み比べていると、
    藤田を名乗った時期や理由など諸説あり、奥様の母方の姓というのも著書によっては「藤田」であったり
    赤間氏は「木本」と書いているなど、真偽がわからないようです。

    篠田やそさんについても、伊東哲也氏は最初の妻だと言っていますし、あさくら氏は否定しています。

    最近、自分も斎藤一の事を色々調べていて、真偽がわからないものについての考察動画を作成しましたが、
    調べれば調べるほど謎が深まる、不思議な人物ですね。

    で、一番上の写真なんですが、差し替えなされた方がいいかと…。
    あさくら氏によると、ご子孫様が本人と違うと思われる写真が世に出回っていることに心痛められているとか…。

    通りすがりのつもりでしたが、面白そうなサイトなのであれこれ読んでみます。それでは!

    • 高田哲哉
    • 2016年 10月 13日

    匿名さま、コメントを賜りまして、誠にありがとうございます。
    当方が参考にさせて頂いたものによると、当方の表記の通りのようでございます。
    もちろん、参考先が間違っている可能性もあります。
    誠に恐れ入りますが、匿名さまが参考になさった媒体も、是非確認させて頂きたく存じますので、差し支えなければ、ご教授賜りますと幸いです。

    • 匿名
    • 2016年 10月 11日

    斎藤一の肖像写真記事を調べていて来ました。

    長男と次男の名前が逆になっているようです。

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