三条実美  尊王攘夷派の公家で明治天皇を補佐した太政大臣




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三条実美とは

三条実美(さんじょう さねとみ)は公卿・内大臣である三条実万の3男として1837年2月7日に京都梨木町(京都府上京区)にて生まれた。幼名は福麿。三條實美とも書く。
母は正室:紀子、眉寿姫 (土佐藩主・山内豊策の娘)。

三条家は、藤原北家の分家であり、五摂家に次ぐ清華の内で最もな名家で、家学として香道、音楽があり、三条実美もそれぞれの道に長じた。
また、三条家は家領469石のほか、議奏の役料300石も得ていたと言い、岩倉具視より格上である。

父が尊王攘夷派であったことから、尊攘志士である家臣・富田織部の訓育を受け、漢学者・志士池内大学に学んだ。
また、幼少の頃より桂小五郎武市半平太平野国臣ら勤王派の志士が出入りしており、影響を受けたようである。

1854年に、次兄・三条公睦が享年27で早世。長兄の三条公恭 (1824-1854) は素行が悪く廃嫡されていた為、3男の三条実美が三条家を継ぎ、表舞台に出る事となった。

妻は関白・鷹司輔煕の9娘である治子(1848年 – 1924年)。
子は、三条公美、三条公輝、載仁親王妃智恵子、河鰭実英などがおり、養子に東三条公恭(兄・三条公睦の子)がいる。

武家伝奏で尊皇攘夷派の公家である父・三条実万が、1859年4月、大老・井伊直弼の安政の大獄で謹慎処分となり出家するとまもなく、10月に謹慎していた一条寺村で薨去。

その後、長州藩の尊攘派が京の政局を握ると、右近衛権少将・三条実美は、尊攘派公卿の中心人物となり、文久2年(1862年)に勅使として姉小路公知と共に江戸へ赴いた。
江戸では14代将軍・徳川家茂への攘夷督促に成功し、帰京後、国事御用掛になると、尊攘派の志士との交流が盛んになった。

また、尊王攘夷を掲げる長州藩と密接な関係を持ち、姉小路公知と共に尊皇攘夷の公卿として徳川幕府に攘夷決行を求め、孝明天皇の大和行幸など企画した。


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八月十八日の政変

1863年には、中川宮公武合体派の皇族・公卿と薩摩藩・会津藩らが起こした八月十八日の政変により、尊王攘夷派の公家は、長州藩と共に朝廷を追われることとなり、三条実美も三条西季知四条隆謌東久世通禧壬生基修錦小路頼徳澤宣嘉と共に、京都を追放され、長州藩へと落ち延びた。(七卿落ち)
三条実美ら尊皇攘夷派の公卿7人は、妙法院の宸殿に集まり、長州藩の警護の元、蓑笠に草鞋履きという姿で、兵庫津を経て、海路で長州藩の三田尻港を目指したと言う。

三田尻(防府)招賢閣で、中岡慎太郎らの浪人の護衛も受けて、長州藩に匿わられた。
その後、七卿は五人に減り、1864年の第一次長州征伐(幕長戦争)に際しては、戦火から逃れる為、福岡藩の太宰府天満宮・延寿王院に移動し、王政復古で許されるまでの3年間を大宰府で過ごした。
なお、その移動途中に、宗像の唐津街道・赤間宿に1ヵ月間宿泊した際に、薩摩藩・西郷隆盛、長州藩・高杉晋作らが太宰府の延寿王院に集まり、時勢を語り合ったり、坂本龍馬も延寿王院を訪ねている。
そして、岩倉具視とも連絡を取り、倒幕を画策した。

新政府で要職を歴任

慶応3年(1867年)12月8日の王政復古で、12月27日に京に戻ると、明治新政府の要職である議定に就任した。
翌年の鳥羽伏見の戦い後、1868年1月9日には岩倉具視と共に副総裁となり、戊辰戦争では関東観察使として江戸に赴き、江戸開城後の責任者となり、従一位に昇叙し権大納言となる。

明治2年(1869年)、右大臣になると賞典録5000石を永世下賜され、明治4年(1871年)には天皇を補佐する政府の最高責任者である太政大臣になる。
ほとんどの公卿が閑職に追いやられた中、

明治6年(1873年)の征韓論をめぐる政府内での対立では、西郷隆盛・板垣退助らの征韓派と、岩倉具視・大久保利通木戸孝允らの征韓反対派の板挟みになり、高熱を出して倒れ、岩倉具視を太政大臣代理とした。

明治9年(1876年)12月29日、勲一等旭日大綬章を受章。
明治15年(1882年)4月11日、大勲位菊花大綬章を受章。内閣制度が発足すると内大臣となった。

明治18年、内大臣となると政治の第一線から退いたが、引き続き天皇を補佐し、華族社会のまとめ約となった。

この頃の、フレイザー英国公使夫人による「政治にはもう飽きあきした、上品な紳士」と、三条実美を評価したのは有名な話だ。

明治22年(1889年)、黒田清隆内閣の内大臣を務め、黒田首相が辞任した後は2ヶ月ほど内閣総理大臣を兼任。(三条暫定内閣)


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明治24年(1891年)2月、インフルエンザで危篤状態となると、明治天皇の慰問も受けたが、2月18日、55歳で薨去。
死の直前に正一位を授与さけており、国葬となった。
墓は護国寺(東京都文京区)。

大正時代に京都御所に隣接した三条邸跡の梨木神社に合祀された。

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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