平野国臣(平野次郎、平野二郎) 福岡藩の尊王攘夷志士


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平野国臣(ひらの-くにおみ)は、福岡藩士(足軽)である平野吉郎右衛門の二男として、1828年5月12日に生まれた。

平野国臣は足軽鉄砲頭・小金丸彦六の養子になると、1845年に江戸詰めとなっている。
福岡へ戻ると、小金丸彦六の娘・お菊と結婚した。

福岡では漢学を亀井暘春、国学を富永漸斎に学び、お由羅騒動で薩摩藩から逃亡してきた島津斉彬の側近・北条右門(木村中之丞)とも交流した。

1853年、ペリー提督が浦賀に来航すると、再び江戸藩邸での勤務となり、剣術や学問に励んでいる。

1855年には、長崎勤務となって、坂田諸遠から学んでいる。
しかし、この頃には尚古主義(古い時代の習慣を重んじる)となっており、烏帽子をつけて歩くなとせ鎌倉武士のようないでたちと、かなり古風な武士の姿になっており、養子先から離縁されて平野家に戻った。
そして、藩の仕事を辞職して無役にもなると、梅田雲浜と出会い、国事について考えるようになるが、1857年には謹慎処分となった。

しかし、優秀であるうえに、過激な言動もしたことから、人望を集めるようになる。

1858年6月、島津斉彬が薩摩藩兵を連れて上洛すると言う情報を北条右門から伝えられると、平野国臣は上洛したが7月に島津斉彬が急死し薩摩藩兵の派遣は中止となる。
しかし、京では西郷隆盛と会談すると、平野国臣は公家への工作を担うことになり、志士として活動を開始する。

勤王僧・月照を薩摩へ逃そうとした際には、供として同行し、山伏に姿に変装して関所を突破し、鹿児島に無事連れて行っている。

その後、徳川幕府の命を受けて、月照らと船で出港し、西郷隆盛が月照と入水自殺を図った際には、平野国臣が西郷隆盛の命を救った。
この時、もし西郷隆盛を救っていなかったら、西郷どんの名も今のように誰でも知る人物にはなっていなかっただろう。

そして平野国臣は薩摩から追放されると筑前に戻っている。

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1859年1月には備中・連島へ隠れ住み、安政の大獄を逃れたると、12月には下関の豪商・白石正一郎邸にて世話になり、水戸藩士や薩摩藩士らと大老・井伊直弼の暗殺計画などを練っている。

井伊大老が暗殺された際には、下関にいたが、その前に福岡藩主・黒田斉溥に対して、大老暗殺後に薩摩藩と連携して攘夷実行を提言していたため、驚いた福岡藩は平野国臣を捕縛しようとした。
その後、平野国臣は逃亡生活を送り、久留米の勤王志士・真木和泉らと国事を議論するなどしている。

村田新八・有馬新七らによって、薩摩に入るも島津久光が浪人を嫌ったため、大久保利通らも相手にせず、平野国臣は失望のうちに退去した。

その後は清河八郎などと交流するも、1862年4月、福岡藩主・黒田斉溥が大阪近くに赴いた際に、嘆願しようと接近。
一度は、福岡藩も相手にしたが、宿泊先で捕縛されて福岡に送られた。

1863年3月に釈放され京に赴くと、三条実美らに抜擢されて学習院出仕となる。
しかし、8月18日、八月十八日の政変にて三条実美らが失脚し、七卿落ちとなると、生野にて挙兵する事を計画。
三田尻に逃れていた七卿を説得すると、反対されるなか、公家・沢宣嘉だけは賛同し、平野国臣に合流。

生野の変

澤宣嘉を盟主とし、元奇兵隊の総監・河上弥市、白石廉作、伊藤百合五郎、長野熊之允、和田小伝二、小田村信之進、下瀬熊之進、井関英太郎ら30数人の浪士とともに、生野に入り、農兵を募集するとたちまち2000人が集まった。

そして、1864年10月12日に生野代官所を襲撃すると降伏させる事に成功。
しかし、出石藩兵900と姫路藩兵1000がすぐに鎮圧に出動すると、早くも解散論が出て、10月13日に澤宣嘉が隊を離脱。
その結果、農民2000は騙されたと言い、逆に浪士らを襲撃する始末となり、10月15日までに生野の変は鎮圧された。

平野国臣は鳥取への逃亡を計ったが、豊岡藩兵に捕まり、京へ護送されて六角獄舎に繋がれた。

1864年7月、久坂玄瑞らの禁門の変の際、火災が京都で延焼した際に、六角獄舎にも火が及ぶ。
そのため、囚人が脱走することを懸念した、京都所司代の役人によって、他の30名以上の囚人とともに平野国臣も斬首され命を落とした。享年37。

現在、墓は京都市上京区の竹林寺と、京都霊山護国神社にも墓碑・石碑が建立されている。
また、福岡市中央区の西公園には銅像がある。

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