スポンサーリンク
スポンサーリンク

 勝海舟(かつかいしゅう)は徳川幕府の御家人で旗本の家の出で、幼名・通称は勝麟太郎(かつりんたろう)。昇進すると勝安房守を称した。
 年表的には1823年生まれで、江戸本所亀沢町ま出身。

 御家人と言っても、41石と貧乏であり叔父の屋敷や妻の実家の離れに間借りする生活で、勝海舟の話し方は気風のいい江戸弁であった。

 幼少期から剣術を島田虎之助から習うと、直心影流免許皆伝の腕前となったほか、16歳で家督を継ぎ、蘭学を志して永井青崖の下で地理学、後に兵学を研究し蘭学塾も開いた。
 家が貧乏であった為、日蘭辞書「ヅーフハルマ」を2部筆写して1部を売った話は有名である。
 佐久間象山と交流すると、妹・勝順子を佐久間象山に嫁がせた。
 このとき佐久間象山より「海舟書屋」の額を貰い受けて「海舟」を自分の号としたのだ。

 ペリー提督黒船が来航すると、幕府は海防意見書を募集。勝海舟が提出した内容は適格であった為、老中首座の阿部正弘に認められた。
 オランダ語も話せたため、やがて長崎海軍伝習所教頭となり、薩摩藩主・島津斉彬の知遇も得た。

 長崎留学中には未亡人と、また、屋敷に奉公に来ていた若い女中なども身ごもらせ、判明しているだけで、妾の女性8人の間に子を設けている。
 しかし、正妻・民子と妾が同居する家庭でありながら、不思議と波風が立つことはなかったと言う。

 1860年には、日米修好通商条約の批准書交換のため、遣米使節となり、咸臨丸の実質的な艦長に就任。ジョン万次郎福沢諭吉らとともに37日掛けてアメリカに渡航した。
 帰国後は一時海軍から遠ざかり砲術師範などを務めたが、その後、将軍・徳川家茂に直訴して神戸海軍操練所を創設。
 幕府の海軍でもない日本全体となる「日本海軍」の建設を目指し、欧米列強に対抗しようとした。
 この頃、脱藩していた坂本竜馬らも受け入れて航海術や操船技術を教えている。

 広い視野を持って世の中を見る事ができた、貴重な江戸幕府の家臣(幕臣)であり、坂本竜馬、西郷隆盛らを開眼させている。

スポンサーリンク


 禁門の変が起こると、時流は倒幕へと進み始め、保守派から睨まれて軍艦奉行を罷免されて操練所も閉鎖となり、坂本竜馬を西郷隆盛に託すと寄合入りして2年間の蟄居生活を送った。
 西郷隆盛は勝海舟と会談すると、大久保利通宛の書状にて賞賛している。

 1866年、軍艦奉行に復帰すると、将軍・徳川慶喜より第二次長州征伐の停戦交渉を任されて、会津藩・薩摩間の調停や、長州藩と交渉するも、徳川慶喜は勅命で停戦命令を取得した為、憤慨し御役御免を願い出て江戸に帰った。

 1868年、鳥羽伏見の戦いで徳川幕府は敗れて、官軍が江戸に向けて進軍すると、幕府には対応可能な適任者がいなかった為、勝海舟は復職して軍事総裁として全権を委任された。

 山岡鉄舟を西郷隆盛に送り、江戸城の無血開城の用意がある事を伝え、和宮や天璋院篤姫の嘆願なども功を奏して、江戸城総攻撃の3月15日の直前2日間に、勝海舟と西郷隆盛は会談。
 運命の江戸開城を迎え、江戸の住民150万人の生命と家屋・財産が戦火から救われた。

 明治維新後、徳川家と共に駿府(静岡)に移ったが、新政府から相談を受けて東京に出ることも多く、勝海舟は旧幕臣の代表格として外務大丞、兵部大丞、参議兼海軍卿、元老院議官を歴任し、朝敵となった徳川慶喜を赦免させることに尽力し、徳川家を守った。

 明治7年の台湾出兵に不満を覚えて職をすべて辞任すると、西南戦争で、逆臣となってしまった西郷隆盛の名誉回復にも奔走し、天皇の許可を得るなど上野の銅像建立も支援した。

 明治20年には伯爵、明治21年には枢密顧問官。
 明治政府の欧米寄りを批判して、清国との提携を説き日清戦争には反対であった。
 足尾銅山鉱毒事件での政府対応も手厳しく批判し、田中正造を支援している。

 晩年は赤坂氷川に住み、明治32年、風呂上がりにブランデーを飲むと脳溢血で倒れて死去。最期の言葉は名言の「コレデオシマイ」であった。享年77歳。

その他、幕臣・幕閣の人物はこちら
坂本龍馬とは?【坂本龍馬の人物像】詳細版~どのような人物だったのか?
西郷隆盛の魅力や人気の秘密は?なぜみんなから慕われるのか?
島津斉彬とは~西郷隆盛・大久保利通、そして島津久光と薩摩藩での関係をわかりやすく
アーネスト・サトウ 日本が大好きで通訳官になったイギリス人
福沢諭吉とは~幕末期に3度に渡る海外派遣と学問のすすめ・慶應義塾

スポンサーリンク


関連記事



コメント

    • 匿名
    • 2016年 8月 27日

    彼なくせば、日本は欧米列強の餌食となったであろう。

    • 暗黒の明治
    • 2016年 6月 16日

    勝が「日本の海軍」を造ったなんて大嘘
    小栗上野介が横須賀に造船所を造ろうと建議したとき勝は反対している
    「もったいない。船なんて外国から買えばよい」という勝の反対に、
    「次の政府が役立てても良い。日本の海軍が強くなればいい」と断行したのは小栗

    東郷平八郎が「日本海海戦の勝利は、横須賀造船所を造ってくれた小栗のおかげ」と言っているのが証拠

    小栗たち幕府の代表はアメリカ船に乗ってワシントンに行き交渉したが
    護衛船の海臨丸は同行もできず西海岸に寄航しただけで先に日本に帰っており、勝はアメリカの見聞もろくにない

    小栗の実績の多くが、のちに勝のものにされてしまった
    幕府崩壊後、免職されて群馬に隠居していた小栗を謀殺したのは、その才能を恐れ嫉妬した勝だと思う
    大言壮語はいずればれるもので、勝を嫌う者も多く晩年は孤独な死を迎えている

    • 匿名
    • 2016年 6月 11日

    でもご子息の教育はうまくいかなかったそうですねえ

 スポンサーリンク
ページ上部へ戻る