徳川慶喜 徳川家最後の征夷大将軍 その人柄と評価は?


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徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は水戸藩第9代藩主・徳川斉昭の7男として、江戸・小石川の水戸藩邸にて1837年9月29日に生まれた。幼名は七郎麻呂(しちろうまろ)。
母は正室・吉子女王(有栖川宮織仁親王の娘)。

水戸藩では2代目藩主・徳川光圀以降、嫡子以外の男子を国許で教育するという方針があり、生後7ヶ月となる天保9年(1838年)4月には江戸から水戸に移った。
水戸では藩校・弘道館で会沢正志斎らより学問と武術の教えを受けた。
特に手裏剣術が好きで手裏剣の達人だったと言い、のちの大政奉還後も毎日手裏剣を続けていたと言う。

早くも徳川慶喜の才覚は評判となり、藩主・徳川斉昭も他家に養子には出さず、長男・徳川慶篤の控えとして手許に置いたようだ。

弘化4年(1847年)8月1日、将軍・徳川家慶の意向に従い、老中・阿部正弘は水戸藩に、七郎麻呂(当時は松平昭致)を御三卿である一橋家の世嗣としたいと申し出る。
これにより七郎麻呂は1847年8月15日、9年過ごした水戸を発って、9月1日に一橋家を相続。
12月1日に徳川家慶から偏諱を賜わり、徳川慶喜と改名した。
その後、将軍・徳川家慶は、この徳川慶喜を次期将軍にと考えたが、阿部正弘の反対を受けて断念している。

一橋家では渋沢栄一などの人材を発掘するなど、藩政改革も行った。

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将軍継嗣問題

1853年、黒船来航の混乱のさなかに将軍・徳川家慶が病死。
その跡を第13代将軍・徳川家定が継いだが、生来の病弱で男子を設ける見込みがなかったため、将軍継嗣問題が浮上した。

この時は老中・阿部正弘は、島津斉彬・松平慶永・徳川斉昭らと共に一橋慶喜(徳川慶喜)を推挙(一橋派)。
これに対して保守的な譜代大名や井伊直弼、徳川家定の生母・本寿院を初めとする大奥は、血筋が近い紀伊藩主・徳川慶福(徳川家茂)を擁立(南紀派)しよう対立した。

一方、1855年12月3日に、一条美賀子と結婚(今出川公久の娘、一条忠香の養女、維新後に美賀子と改名)。
また、側室は一色須賀、新村信、中根幸など。

一橋派は阿部正弘・島津斉彬と相次いで亡くし、安政5年(1858年)、大老に就任した井伊直弼が勅許なしの日米修好通商条約を結び、将軍継嗣は徳川慶福(徳川家茂)と決定。一橋慶喜に反感を持っていたともされる。
水戸藩・徳川光圀公以来の家訓は「幕府より朝廷尊奉」であり、朝廷をないがしろにしたこの調印に反対した徳川慶喜は徳川斉昭、福井藩主・松平慶永らは共に登城し井伊直弼を詰問した。しかし、これが無断登城であると指摘され1859年に隠居謹慎処分となる。すなわち安政の大獄の一つだ。
この井伊直弼に問い正した日は、江戸城で三卿の将軍面会日であり、徳川斉昭や松平慶永とは違って、徳川慶喜は不時登城ではなかったが、罪状不明のままの処分を受けている。

また、徳川慶喜は頭脳明晰であったことからか、先の先まで考えて行動に移すと言うか、案外ずるがしこい考え?とも思えるが、保身の為、失敗した時の事まで分析していたと考えられる。
すなわち、将軍継嗣となることに乗り気ではように見せかけ、周りの人物が将軍にと推して頼まれたから将軍になったと言う雰囲気を出すようにしていたようだ。
その為「骨折りは申し訳ないが、天下を取ってから失敗するよりは、取らないほうがいい」などと漏らしている。

1860年3月3日に桜田門外の変にて大老・井伊直弼が死去すると安政の大獄の弾圧は終わり、老中の安藤信正久世広周により、1860年9月4日に謹慎が解除されている。

その後、島津久光、一橋慶喜(徳川慶喜)、松平慶永、山内容堂、伊達宗城などは公武合体を進め、岩倉具視などに接触。

1862年には、島津久光と勅使・大原重徳が薩摩藩兵を伴って江戸に入ると、勅命を楯に徳川幕府の人事に介入。
7月6日に、徳川慶喜が将軍後見職に就任し、松平春嶽を政事総裁職に任命させることに成功し、幕府の主導権を握った。

徳川慶喜と松平春嶽は「文久の改革」と呼ばれる幕政改革を断行し、京都守護職の設置して会津藩主・松平容保を当て、参勤交代の緩和などを行った。また、山岡鉄舟大鳥圭介・津田真道など優秀な人材も登用している。

1863年、攘夷実行を朝廷と協議するため、徳川家茂が将軍としては230年ぶりに上洛することになると、徳川慶喜は先行して上洛し、将軍の名代として朝廷と事前交渉にあたった。
この時、徳川慶喜は攘夷実行を含めた国政全般を従来通り幕府に委任するか、政権を朝廷に返上し朝廷が国難のかじ取りをするかの二者択一を迫ったと言う。
その結果、朝廷はこれまでどおり、大政を幕府に委任するが「国事に関しては諸藩に直接命令を下すこともあり得る」との見解が表明され、幕府には攘夷実行迫ったため、事前交渉は成立しなかった。
この朝廷の要求に反発して、松平春嶽は政事総裁職を辞する構えを見せ、徳川慶喜は容認する姿勢を取った為、江戸の幕閣は猛反発したが、攘夷実行は徳川慶喜の本心ではなかった。
孝明天皇が石清水八幡宮へ行幸した際の攘夷祈願において、将軍が天皇から節刀を拝受してしまえば、攘夷を決行せざるを得なくなる。
その為、将軍・徳川家茂に「風邪発熱」などと仮病を使わせて、拝謁を急遽取りやめさせ、徳川慶喜が名代として供奉したりした。

江戸に戻ると徳川慶喜は、攘夷拒否を主張する幕閣を押し切って、攘夷の実行方策として横浜港を鎖港する方針を決定。
八月十八日の政変で長州藩を中心とした尊皇攘夷派が京から排斥されると、公武合体派の諸候・幕閣による参預会議に参加すべく再び上洛したが、ここでも横浜鎖港に反対する島津久光・松平春嶽らと対立した。

徳川慶喜は薩摩藩による朝廷の主導を警戒し、参預諸候を朝廷から排除する動きをみせ、中川宮朝彦親王らとの酒席で故意に泥酔し、同席していた伊達宗城、松平春嶽、島津久光を罵倒。さらに中川宮に対し「島津からいくらもらっているんだ」などと暴言を吐き、連携を崩壊される試みを行った。

こうして、参預会議を解体させると元治元年(1864年)3月25日、徳川慶喜は将軍後見職を辞任して、朝臣的な性格である禁裏御守衛総督に就任した。

以後、徳川慶喜は京都に滞在して武田耕雲斎ら水戸藩の首脳や、鳥取藩主・池田慶徳、岡山藩主・池田茂政(いずれも水戸家出身の兄弟)らと提携。
江戸では、盟友の政事総裁職・松平直克と連携し、朝廷の意向に沿って横浜鎖港を進めたが、水戸藩における天狗党の乱への対応を巡って幕閣内の対立が激化し、1864年6月に松平直克が失脚し、横浜鎖港も事実上頓挫した。

1864年7月、禁門の変が起こると、徳川慶喜は自ら御所守備軍を指揮して、鷹司邸を占領した長州藩軍を攻撃した。
この時、まだ将軍職ではなかったと言え、歴代の徳川将軍家の人物で唯一、馬にも乗らず敵と刀で戦ったとされる。

その後、徳川慶喜はそれまでの尊王攘夷派との交流を絶ち、会津藩・桑名藩ら保守派と本格的に提携した。
これらの行動を憂いた老中・本庄宗秀、阿部正外らは兵を率いて上洛し、徳川慶喜を江戸に連れて行こうとしたが失敗。

一方、長期化していた天狗党の乱の処理では、徳川慶喜を支持していた武田耕雲斎ら水戸藩勢力を見捨てる冷徹さも見せている。

第一次長州征伐が終わると、幕府にとって長年の懸案事項である安政五カ国条約の勅許を得るために奔走。
徳川慶喜は自ら朝廷に対して交渉し、最後には自身の切腹とそれに続く家臣の暴発にまで言及して脅し、遂に勅許を得ることに成功している。

慶応2年(1866年)、第二次長州征伐では、薩摩藩の妨害を抑えて徳川慶喜が長州征伐の勅命を得た。
しかし、既に薩長同盟を結んでいた薩摩藩の出兵拒否もあり、士気が上がらない幕府軍は連敗。7月20日には将軍・徳川家茂が大坂城で薨去した。

その為、徳川慶喜は朝廷に働きかけて「休戦の詔勅」を引き出し、会津藩などの反対を押し切って長州藩と休戦協定を結んでいる。

徳川最後の将軍

ほかに適当な人材もなく、次の将軍後継にと、老中の板倉勝静、小笠原長行などは徳川慶喜を推挙。
しかし、徳川慶喜はこれを固く断り、8月20日に徳川宗家は相続したものの将軍職の就任だけは拒み続けた。
その後、周りの説得を受け、12月5日に将軍宣下となり第15代将軍に就任した。

言わば恩を売った形での将軍就任となり、会津藩・桑名藩の支持のもと、朝廷と密接な連携も行ったためり、徳川慶喜は将軍在職中一度も畿内を離れず、多くの幕臣も上京させて、実質的に畿内にて幕府政権運営を行い、長く対立関係にあった小栗忠順ら改革派幕閣とも和解し「慶応の改革」を推進した。

フランス公使・レオン・ロッシュの仲介で、フランスから240万ドルの援助を受けると横須賀製鉄所や造船所を設立し、ジュール・ブリュネを始めとする軍事顧問団も招いて軍制改革も行っている。
実弟・昭武をパリ万国博覧会に派遣するなど幕臣子弟の欧州留学も奨励。薩摩藩・越前藩・土佐藩・宇和島藩の四侯会議も解散に追い込んだ。
また、老中の月番制を廃止して、陸軍総裁(松平乗謨)・海軍総裁(稲葉正巳、榎本武揚は幕府海軍軍艦頭並で海軍副総裁)・会計総裁(松平康英)・国内事務総裁(稲葉正邦)・外国事務総裁(小笠原長行)を設置・起用と大胆な改革も行ったが、もはや幕府は弱体化しており焼け石に水であった。

大政奉還

薩摩藩の大久保利通・小松清廉・西郷隆盛と、長州藩の桂小五郎、福田侠平、品川弥二郎らが武力倒幕を行うと予期した徳川慶喜は、土佐脱藩浪士・坂本龍馬後藤象二郎などが提唱した大政奉還の建白書を土佐藩主・山内豊範を通じて、1867年10月3日に受け取ると、10月13日に京都・二条城に上洛中の40藩の重臣を招集して大政奉還を発表。
慶応3年(1867年)10月14日、政権返上を明治天皇に上奏。翌日には勅許された(大政奉還)。

従来の見解では、徳川慶喜は当時の朝廷に行政能力が無いと考え、大政奉還しても将軍職は辞任しておらず、列侯会議を主導する形で徳川政権存続を模索していたとされ、大政奉還による政治体制の再編は打開策であった。

しかし、薩摩藩・長州藩の考えはあくまで武力による徳川幕府を倒す事であり、朝廷に働きかけて、1967年10月14日に極秘裏に討幕の密勅を受け、軍も動員開始したことから、徳川慶喜は10月24日に征夷大将軍辞職も朝廷に申し出た。
これにより、薩長は倒幕の大義名分を失ったため、岩倉具視と薩摩藩・土佐藩・安芸藩・尾張藩・越前藩の5藩は御所を封鎖し、12月9日、赦免されたばかりの岩倉具視らが参内して明治天皇の名により天皇親政を宣言(王政復古の大号令)。長州藩を加え、天皇による新政府が樹立された。

徳川慶喜は右大臣の辞官と納地200万石に半納とされ、やむなく会津藩・桑名藩兵とともに大坂城に退去するも、旧幕府側はこれに怒る事となる。
12月16日にはアメリカ・イギリス・フランス・オランダ・イタリア・プロイセンの6ヶ国公使と大坂城で会談を行ない、内政不干渉と外交権の幕府保持を承認させ、更に12月19日には朝廷に対して王政復古の大号令の撤回を要求した。

鳥羽・伏見の戦い

周囲では薩摩・長州を倒すべきとの声が高まり、徳川慶喜は翌・慶応4年(1868年)1月1日の元旦に、会津藩・桑名藩兵とともに大阪城から京都に向け進軍開始。
諸藩にも出兵を要求したが、応じたのは渡辺清左衛門率いる大村藩50名だけだっと言う。
1月3日、薩摩藩兵と大目付・滝川具挙の問答が勃発し、鳥羽・伏見の戦いとなった。
このときの兵力は新政府軍が5000名、旧幕府軍は15000名であったが、会津藩の佐川官兵衛や、土方歳三が率いる新選組などの旧幕府軍は、新政府軍の新式銃など相手に苦戦を強いられ、総指揮官・竹中重固の不在や滝川具挙の逃亡などもあり、旧幕府軍が敗退し形勢不利となる。

徳川慶喜は大阪城におり、旧幕府軍の兵に「千兵が最後の一兵になろうとも決して退いてはならぬ」と1月6日に大阪城での徹底抗戦を説いたが、その夜僅かな側近や愛妾・お芳(新門辰五郎の娘)、老中・板倉勝静、老中・酒井忠惇、会津藩主・松平容保・桑名藩主・松平定敬と共に密かに大阪城から脱出し、大坂湾に停泊中の幕府軍艦・開陽丸で江戸に撤退した。
この時、開陽丸の艦長・榎本武揚は置き去りとなり、大阪城の後始末をしてから江戸に戻っている。

総大将が逃亡したことで、旧幕府軍は戦意喪失となり、各自江戸や自領へ帰還。
のち、会津藩家老で軍事総督であった神保修理が、敗戦の責任を一身に背負って2月22日に切腹している。

謹慎とその後

その後、徳川慶喜は朝敵とされて追討令が下り、東征大総督・有栖川宮熾仁親王の新政府軍が東征を開始。

徳川慶喜は、小栗忠順を初めとする抗戦派を抑えて朝廷への恭順を示し、2月には勝海舟にあとを任せて、上野の寛永寺大慈院にて謹慎した。
また、徳川宗家の家督を養子・田安亀之助(後の徳川家達)に譲っている。

勝海舟と新政府軍参謀・西郷隆盛との交渉で、4月11日に江戸城は無血開城。
彰義隊や旧幕臣の暴発を恐れた徳川慶喜は、4月11日午前3時に寛永寺大慈院を出て水戸へ向かい、水戸・弘道館の至善堂にて引き続き謹慎した。

その後、7月に徳川家が駿府城に移封となると、徳川慶喜も蟠竜丸にて海路、駿河の宝台院に移り謹慎を続けた。

明治2年(1869年)9月28日、戊辰戦争が終わると謹慎が解除されたがそのまま静岡に居住。

以後、政治的野心は全く持たず、極力外界との縁を絶ち、旧幕臣が会いに行っても、担ぎ出されることを嫌い面会を断ったとされている。
徳川宗家から潤沢な隠居手当をもらい、写真・狩猟・投網・囲碁・謡曲などの趣味に没頭する生活を送り「ケイキ様」と呼ばれて静岡の人々から親しまれ、豚肉を好んで食べたところから「豚一様」とも呼ばれた。
なお、明治維新後に側室として仕えたのは、新村信と中根幸のみで10男11女をもうけたが、他の側室には暇を与えたとされる。

明治30年(1897年)11月、東京の巣鴨に転居すると、翌年には有栖川宮威仁親王の仲介により、皇居(旧江戸城)に参内して明治天皇に拝謁。

明治34年(1901年)12月には、小石川区小日向第六天町(現在の文京区春日2丁目)の高台に転居した。(現在の国際仏教学大学院大学)

明治35年(1902年)、大政奉還が高く評価されるようになり公爵に叙せられ、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を興し、貴族院議員にも就任し、35年振りに政治に携わった。

明治43年(1910年)12月8日、七男・徳川慶久に家督を譲って貴族院議員を辞職し隠居。晩年はパンと牛乳を好み、再び趣味に没頭したと言う。

大正2年(1913年)11月22日午前4時10分、感冒にて死去。享年77。同日、勲一等旭日桐花大綬章を授与される。
徳川歴代将軍としては最長命であった。

余り知られていない徳川慶喜の正室・一条美賀子についてはこちら

皆様の評価は?

長い文章を最後までご覧いただきまして、誠にありがとうございました。
徳川慶喜の評価は、徳川幕府を守り切れなかったと言う評価や、逆に大きな内戦とならずに明治維新を迎える事に貢献したと言う評価など、人によって見方が大きく異なる点が特徴です。
皆様の徳川慶喜に対する「評価」も、是非、ページ下部にある「コメント欄」にお寄せ頂けますと幸いです。
楽しみにお待ち致しております。

5分でわかる勝海舟のすごさ~幕臣・勝海舟の生涯
島津斉彬とは~西郷隆盛・大久保利通、そして島津久光と薩摩藩での関係をわかりやすく
徳川慶喜の妻である一条美賀子(徳川美賀子) 最後の将軍の最後の御台所である美女
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コメント

    • ますみ
    • 2016年 10月 14日

    幕末において徳川慶喜公が一番の功労者に間違いないともう数十年思いは変わりません。鳥羽で戦い続ければ勝っていたかもしれませんが水戸家においての天皇に対する考え方がそのような行動にはならなかったのだと推察します。外から見ればみっともないように見えますが結局戦争の早期終結は間違いないと思います。ただその後の新政府が結局昭和まで数えきれないほどの人間を死に追いやったことを考えると私は薩長中心の明治維新をひとつも評価していません。

    • Marikou
    • 2016年 3月 14日

    逃げることは誰にでも出来ます。

    逃げたが故、責任を取らざるえない人々がいます。
    震災5年をへて思えば、なぜ福島に負担ばかりかかるのでしょう?

    • 高田哲哉
    • 2015年 8月 09日

    kazukiさま、貴重なコメント、誠にありがとうございます。
    ご指摘の通り、時代の大きな流れには逆らえないと思いますので、共感致します。
    頭脳明晰な人物であったようですし、評価できますよね。
    ありがとうございました。(^-^)

    • kazuki
    • 2015年 8月 08日

    私は、政治手腕に優れ、かつ、世界情勢を把握して政権を運営した稀代の政治家と徳川慶喜を評価しております。
    維新三傑の木戸孝允(桂小五郎)をして「徳川慶喜の胆力は侮れない。神君、家康の再来を見ているかのようだ」と言わせたことが、彼の有能さを証明しているといえるでしょうね。
    ただ、徳川慶喜が将軍になった時期が悪かった。おそらく、徳川慶喜が将軍になった頃には、何をしても、どう頑張っても、徳川幕府は滅びるしかなかったのだと思います。そういう意味では、彼は時代の流れに負けてしまったのではないかと思われます。
    そんな時代の中で、日本の内戦を早期に終結させて諸外国の付け入る隙を与えずに新政府に政権を明け渡した点もまた彼の世界情勢の的確さと、政治家としての有能さを示していると考えられます。
    徳川慶喜は、間違いなく明治維新の功労者の一人といえるでしょう。

    • 高田哲哉
    • 2015年 7月 26日

    Taisukeさま、貴重なコメント、ありがとうございます。よく学んでおられる様子で感心致しております。
    さて、Taisukeさまからの問いかけの件ですが、私の個人的な見解だけでは、あまりにももったいない壮大な議論になりそうですので、色々な人の意見も聞く事ができる下記のFacebookより是非、改めて問いかけて頂けますと幸いに存じます。
    https://www.facebook.com/tvtaiga

    • Taisuke
    • 2015年 7月 25日

    自分は学生時代、家近教授の講義をうけてました。個人的にはやはり可もなく不可もなくうまくいえませんが、大河に身を任せてた人物のように思います。そんな自分が逆に聞いてみたいのは、王政復古のクーデターはどうですか?禁門の変の後どうすればベストだったのでしょう?

    • 高田哲哉
    • 2015年 6月 27日

    南さま、この度は貴重なご意見のコメント、誠にありがとうございます。
    ご指摘の通り、徳川幕府と言うものに固執することなく、植民地化を防ぎ、日本の将来に新たな道を作ったと言う風に考えますと、功労者ですよね。
    また、ご意見などございましたら、たまにでも良いので、コメント賜りますと幸いです。

    • 南 知幸
    • 2015年 6月 27日

     徳川慶喜公について、高評価の論評をあまり聞かないのですが、私は日本一功労者ではないかと思っています。
    19世紀中ごろの欧米列強の植民地支配の第一歩は現地人同士の内戦を画策するところから始まっています。
     十分に戦う戦力を持ちながら、大阪城から夜逃げする、武士にとってこれほどの屈辱はあっただろうかと思います。
    その結果1年余りで新体制が始まり、アジアで唯一植民地を阻むことが出来たと思っています。唯一内戦を拒むことのできた人ではないかと持っていますが。評価をよろしくお願いします。

    • 高田哲哉
    • 2015年 5月 10日

    寺田様、いつもありがとうございます。
    すいません。寄居に行っていたもので、反映遅れました。
    徳川慶喜の評価・ご指摘ごもっともですね。
    しかし、その類まれな頭脳で、わりかしうまく切り抜けたと思います。
    江戸に勝手に帰ってしまうのは頂けないですが・・。
    でも、徳川慶喜の配役が、どぶろっくさんと言う事で、正直、ガックリきています。

    • 寺田 みゆき
    • 2015年 5月 09日

    我が家では「慶喜ちゃん」と呼ぶくらい敬愛しております(爆)。
    江戸の薩摩藩邸に火をつけちゃった庄内藩事件までは、大政奉還・フランスとの外交力など有能さをみせつけられますがそっからが最悪。
    大阪城に残った幕臣たち、新選組の気持ちを考えたら怒りしかわきません。
    そして神保修理の切腹。あんなに有能の人物の腹をめさねばならないなんて許せません。
    で、自分は勝に守ってもらって駿府のような暖かいところで自転車、写真、子作り・・・
    確かに政治家としてはそこそこ頑張ったけど一人の人間としては腐ってる。としか言えないですねえ。

    • 高田哲哉
    • 2015年 2月 05日

    大変貴重なご意見、誠にありがとうございます。
    徳川慶喜はご指摘のとおり、大変知恵が回る人物だったようなので、なかなか本心を掴むのが難しく、色々な見方ができます。
    そういう意味では、なかなか興味をそそられる人物ですね。
    他の皆様も、ご意見・ご評価などございましたら、お時間の許す限り、是非、コメントお寄せ願えますと幸いです。

    • きよひと
    • 2015年 2月 05日

    最後の将軍、徳川慶喜の評価は、可もなく不可もなくと言った所のように思います。
    最後まで将軍になりたくなかったようです。徳川慶喜は、頭脳明晰な人物だと思いますので、下手に将軍になっても幕府を維持させるのは非常に困難だと相当以前から分かっていたと思います。
    それでも大政奉還と言う幕府にとっては、一大決断を下したのは、ある意味、評価できると思います。どうも、徳川慶喜には思惑があって、大政奉還をして政権を朝廷に返上しても朝廷は、政治を司る力がないと踏んでいたようです。幕府も一藩になりさがっても合議で政治を司りたい大君政治をしたい野望を抱いていたようです。徳川慶喜は合議で決める議長になりたかったようです。結果的には、王政復古の大号令が成功して薩摩の西郷隆盛を中心とした政府軍に幕府は滅ぼされてしまいましたが。。。
    討幕であれば、まだ良かったのでしょうが倒幕になってしまいました。
    最悪の場合でも坂本龍馬が考えていた「共和政治」が成功していれば、幕府も生き残っていたかも?と思います。

    徳川慶喜が、鳥羽伏見の戦いで勝てないとわかって大阪城から開陽丸で江戸へ逃げ帰ったのは、頂けない行動のように思います。幕府軍は、政府軍に比べて結束力が低いので、徳川慶喜も先頭に立って指揮をすべきだったように思います。江戸に逃げ帰った事で、一段と結束力が低下してやる気もなくなったのではないかなと思います。

    大きな内戦にならなかった要因の一つに西郷隆盛と勝海舟の江戸城無血開城の成功が非常に大きいと思っています。もし、江戸城無血開城が実現しなければ、それこそ江戸は火の海になり、収集がつかなくなって、それに付け込んでイギリス、フランス、ロシア、オランダと言った諸外国が侵略をしてきて植民地になっていた危険性もあったと思います。
    それでも東北地方、特に会津戦争は悲惨を極めましたが。。。

  1. 2015年 3月 19日
  2. 2015年 5月 09日

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