大老・井伊直弼と埋木舎~開国を唱えるも桜田門の変にて横死する


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 井伊直弼は、彦根藩・第13代藩主の井伊直中の14男として、1815年10月10日、彦根城の二の丸で生まれた。
 母は側室・お富の方。

 和歌や鼓、禅、槍術、居合術を学ぶなど、聡明さを早くから示していたが、兄弟が多かった上に、側室の子(庶子)であった為、どこぞやの大名家の養子にもなれず、1831年に父が亡くなると、別邸(槻御殿)から三の丸御用屋敷(尾末町屋敷)に移り住み、17歳から32歳までの15年間を300俵の捨扶持の部屋住みとして、長い間不遇の生活を送った。
 趣味に没頭する姿から「チャカポン(茶・歌・鼓)」とあだ名されたと言う。

 ところが1846年、第14代藩主の兄・井伊直亮の世子であった井伊直元(井伊直中の11男)が死去したため、兄の養子という形で、彦根藩の後継者に決定。すると、近江市場村の医師・三浦北庵の紹介で、長野主膳(長野義言)から国学などを学んでいる。
 1850年11月21日、井伊直亮が死去した為、家督を継いで、井伊直弼が第15代藩主となると、人事の大幅な刷新を行い、家老評議の正常化に努めた。
 1852年、丹波亀山藩主・松平信豪の次女・松平昌子(貞鏡院)を正室に迎えている。
 1852年4月には、国学の師である長野義言を正式に藩士として召抱え、藩政に携わる家臣の大半が長野義言の門人になり影響力を高めていく。

 このように井伊直弼は藩主として藩政改革を断行し、名君と呼ばれた。
 江戸城においても、徳川幕府の溜間詰上席として、将軍継嗣問題と日米修好通商条約調印問題をめぐり存在感を現した。

 1853年6月3日にペリー提督黒船が来航すると、江戸湾の防備に尽力した。
 今の江戸幕府には外国と戦争する力はないと判断した井伊直弼は、外国との貿易を行い、力を蓄えて行くしかないと考えるようになる。
 老中首座・阿部正弘がアメリカへの対応策の助言を聞きに来ると「臨機応変に対応すべきで、積極的に交易すべきである」と開国を主張している。

 老中・阿部正弘は、幕政を従来の譜代大名中心から雄藩(徳川斉昭、松平慶永ら)との連携方式に移行させ、徳川斉昭を海防掛顧問(外交顧問)として幕政に参与させた。
 徳川斉昭はたびたび攘夷を強く唱えた為、自ら開国派であった井伊直弼ら溜間詰諸侯と阿部正弘・徳川斉昭は対立し、日米和親条約の締結をめぐる江戸城西湖の間での討議では激しく激論を交わした。
 このため、徳川斉昭は阿部正弘に、開国・通商派の老中・松平乗全・松平忠固の2名の更迭を要求。
 その為、老中・阿部正弘は1855年8月4日に、やむなく老中・松平乗全・松平忠固を老中から退任させた。
 これに井伊直弼は抗議し、溜間詰の意向をくんだ者を、老中に補充するよう迫ったので、阿部正弘はこれまたやむなく溜間の堀田正睦(開国派・下総佐倉藩主)を老中首座に起用し、対立はひとまず収束した。

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 1856年、薩摩藩・島津斉彬(一橋派)の島津家から第13代将軍・徳川家定篤姫が輿入れ。

 1857年6月17日に阿部正弘が死去すると、堀田正睦は直ちに上田藩主・松平忠固を老中に再任させ、徳川幕政は溜間の意向を反映した堀田正睦・松平忠固の連立幕閣となった。
 さらに井伊直弼は南紀派筆頭として、第13代将軍・徳川家定の継嗣問題では、紀伊藩主・徳川慶福を推挙し、一橋慶喜を推す一橋派の徳川斉昭との対立を深め行く。
 京都においても、福井藩からは橋本左内、薩摩藩からは西郷隆盛、そして井伊直弼は長野主膳を派遣して朝廷工作に当たらせた。

 当初、井伊直弼は勅許(天皇の許可)なしの条約調印に反対であったが、朝廷の反対も国体を損わぬようにとの配慮があると言う認識が幕府の中で芽生えていたこともあり、約1か月にわたる協議の末、やむを得ぬ場合には調印して良いと、下田奉行・井上清直と、目付・岩瀬忠震に全権を与えた。
 こうして、孝明天皇の勅許を得られぬまま、下田の了仙寺で交渉の末、1857年6月19日、下田港に停泊中のアメリカ艦隊・ポーハタン号の船上で、日本初の総領事であるタウンゼント・ハリス公使との間に日米修好通商条約が調印された。
 調印後に堀田正睦は、孝明天皇の勅許を得て世論を納得させようとしたが「違勅調印」であると、一橋派から批判を受け、掘田正睦は事態打開のために福井藩主・松平春嶽の大老就任を画策。
 しかし、見切りをつけた松平忠固や水野忠央(紀州藩付家老の新宮藩主)ら南紀派の政治工作によって、1858年4月23日、南紀派の井伊直弼が大老に就任した。

 大老となった井伊直弼は、無許可調印の責任を押し付ける形で、1858年6月21日、露骨に反発するようになってきた松平忠固と堀田正睦を登城停止処分とし、6月23日には2人の老中職を罷免し、蟄居を命じた。これが「安政の大獄」の始まりである。
 その直後、1858年7月6日に第13台将軍・徳川家定が享年35で亡くなり、僅か13歳の紀州藩主・徳川慶福は名を徳川家茂と改めて、1858年12月1日に征夷大将軍の宣下を受け、一橋慶喜が将軍後見職に就いた。
 井伊直弼の対応に怒った水戸藩士らが、朝廷に働きかけると、孝明天皇は戊午の密勅を水戸藩に下して、井伊の排斥を呼びかけるなど、前代未聞の朝廷の政治関与が起こり、徳川幕府は態度を硬化。
 井伊直弼は水戸藩の首謀者・梅田雲浜を、京都所司代・酒井忠義に捕縛させた。
 そして、太田資始、間部詮勝、松平乗全の3名を老中に起用し、尊皇攘夷派が活動する中で、日本を2つに割らないため、強権をもって治安を回復しようとした。

 さらに、水戸藩に密勅の返納を命じる一方、間部詮勝を京に派遣し、密勅に関与した人物の摘発を命じ、橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎などの多数の志士や、公卿・皇族の中川宮朝彦親王らを粛清した。
 また、一橋派の一橋慶喜、徳川斉昭、松平慶永らを蟄居させ、川路聖謨、水野忠徳、岩瀬忠震、永井尚志らの有能な吏僚らを左遷。
 そして、閣内でも井伊直弼の方針に反対した老中・久世広周、寺社奉行・板倉勝静らを免職しただけでなく、太田資始、間部詮勝の老中も罷免し孤立を深めた。

 しかし、既に幕府の威厳は低下しており、このような井伊直弼の独裁政治は、尊王攘夷派など特に水戸藩らの反抗心をあおることになった。

 1860年3月3日5ツ半(午前9時)、井伊直弼を乗せた駕籠は雪の中を、外桜田の藩邸を出て江戸城に向かった。
 供廻りの徒士、足軽、草履取りなど60余名の行列が桜田門外の杵築藩邸の門前を通り過ぎようとした時、行列に訴状を掲げた男が立ち塞がり、取り押さえようとした藩士が近づくと突然刀を抜いて切り倒した。次に駕籠に向かってピストル弾が打ち込まれ、それを合図に十数名の刺客が一斉に襲いかかった。
 襲撃犯は関鉄之介を中心とする水戸脱藩浪士17名と薩摩藩士の有村次左衛門の計18名。
 最初に短銃で撃たれて重傷を負った井伊直弼は駕籠から動けず、供回りの彦根藩士は狼狽して多くが遁走、駕籠を守ろうとした者も刺客に切り伏せられた。
 刺客は駕籠に何度も刀を突き刺した後、瀕死の井伊直弼を駕籠から引きずり出し、首を刎ねた。享年46(満44歳没)。この事件を「桜田門外の変」と言う。

 墓所は井伊家の菩提寺である豪徳寺(東京都世田谷区)。

 井伊直弼の首を持ち去った薩摩脱藩浪士・有村次左衛門は追っ手により致命傷を負い、若年寄・遠藤胤統の屋敷で力尽きて自害。
 その後、遠藤邸に彦根藩士達が押し掛け、首の引渡しを要求して藩邸に持ち帰った。
 主君を討たれた彦根藩では水戸藩と一戦交えるべしという気運が高まり、水戸藩との間に緊張が走ったが、幕府の仲裁により沈静化。

 幕府の法では大名が不慮の死を遂げた場合は家名断絶、領地没収することになっていたが、その場合、譜代筆頭の彦根藩を潰すことになってしまい、喧嘩両成敗という観点から御三家の水戸藩に対しても厳罰を下すこととなる為、混乱を恐れた徳川幕府は、暗殺は秘密扱いとして、表向きには井伊直弼は負傷によりしばらく休養とされた。
 井伊直弼の首は彦根藩邸で藩医・岡島玄建により胴体と縫い合わされ、病気療養中と言う事にされたが、3月晦日に大老職を正式に免じられ、閏3月晦日にその死が発表された。

 このあと、日本は結果的に井伊直弼が唱えた「開国」の道を歩むこととなる。

埋木舎

 井伊直弼が彦根藩主となるまでの不遇の時期に15年も過ごした 彦根にある埋木舎(うもれぎのや)が解体・復元されて現存しています。

 建物は明治4年に大久保氏に払い下げられましたが、現在は内部も有料拝観(大人300円)が可能になっています。

 十四男で300俵の捨扶持の部屋住みの身分であった井伊直弼は、20歳のときに、養子縁組の話があると言う事で、弟・井伊直恭と共に江戸に行きましたが、その時、決まったのは弟の縁組(延岡藩内藤家7万石)だけで、失意のうちに埋木舎に戻り・・

世の中を よそに見つつも うもれ木の 埋もれておらむ 心なき身は

 の詩を詠んだと言われています。

 井伊直弼は、のちに腹心となる長野主膳から国学を学び、曹洞禅、儒学、洋学の他にも剣術・居合・槍術・弓術・ 砲術・柔術、茶の湯などもたしなみ、おのれの精進だけは忘れなかったようです。

 上記は彦根城の金亀児童公園にある井伊直弼大老の像です。

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