土方歳三 詳細年表(1)新選組副長 近藤勇と共に正義を貫く


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新選組副長「土方歳三」の生涯の動向をできる限り詳しくご紹介したい。

1834年10月9日、近藤勇が多摩・上石原村(現在の東京都調布市野水)にて誕生。
1834年12月3日、伊東甲子太郎が、常陸国志筑藩(現在の茨城県かすみがうら市)にて生まれる。
1835年5月5日、土方歳三が多摩・石田村(現在の東京都日野市石田)で生まれた。農家の土方隼人(土方義諄)が父で、母は恵津。土方家は「お大尽(だいじん)」とよばれる多摩の豪農。
1838年2月2日、中島登が多摩小田野(現在の東京都八王子市西寺方町)で誕生。
1838年6月、土方歳三の姉・周が亡くなる(16歳)
1839年10月、近藤周助が江戸市ヶ谷柳町にて試衛館を開いた。

1840年、土方歳三の母・恵津が死去(48歳)、大洪水のため土方歳三(6歳)は被災現在地に移転。
土方歳三の父は、生まれる3ヶ月前に亡くなっていたので、次兄の土方喜六と、その妻・なかによって養育された。
1842年、沖田総司が江戸で生まれた。
1844年、斉藤一が江戸に生まれる。9月12日、藤堂平助も江戸にて誕生。
土方歳三の姉・のぶ(14歳)が日野宿名主の佐藤彦五郎に嫁入。土方歳三も佐藤彦五郎宅にはよく出入りしていたと言われる。

1845年、土方歳三(11歳)は、江戸上野松坂屋呉服店(現在の松坂屋上野店)に丁稚奉公に出るが、すぐに番頭とケンカして家に戻ったと伝わる。
ただし、近年の研究では、奉公に出たのは数えで14歳~24歳の10年間と考えられ、奉公先は不明となっている。
郷里に戻った後、土方歳三は150年に渡る実家秘伝の「石田散薬」(捻挫などの薬)を行商しつつ、各地の剣術道場で他流試合を重ね、修行を積んだ。今でも土方歳三資料館には製造中止した頃の石田散薬が僅かに残っている。

1849年2月10日、日野宿で大火が発生。佐藤彦五郎は火事に乗じて命を狙われた事で、武芸を身に着ける必要性を感じ、1850年に天然理心流3代目宗家・近藤周助の門人となった。
そして日野宿では初となる出稽古用の道場を敷地内に設け、後の新選組の母体となる近藤勇、土方歳三、沖田総司らが出稽古に訪れるようになった。
近藤勇も1849年11月11日に、天然理心流剣術道場・試衛館に入門していたのだ。
土方歳三は指導に来ていた近藤勇と出会い、天然理心流に出入りするようになった。

1855年2月10日、小野路村組合の寄場名主・小島鹿之助が近藤勇と義兄弟の杯を交わしたことに影響され、佐藤彦五郎も近藤勇と義兄弟の杯を交わしている。
1859年3月29日、土方歳三は正式に、天然理心流に入門。
1860年2月4日、 土方歳三が谷保村(現在の国立市)の親戚・本田覚庵を訪問。漢学・書道を習ったようだ。3月29日、近藤勇が松井ツネと結婚。閏3月20日、土方歳三が谷保村の本田覚庵を訪問。4月2日、4月17日、6月8日、8月29日、10月1日~2日と頻繁に本田覚庵を訪問。10月14日には、近藤勇と共に本田覚庵を訪問している。
9月30日には、府中六所宮で天然理心流献額の神事があり、土方歳三が型試合を披露。12月2日には、土方歳三が小野路村の小島キクに見舞状を書いている。

1861年3月23日、土方歳三は谷保村の本田覚庵を訪問。他にも、4月23日~24日、9月1日に訪問している。
1861年4月12日、土方歳三、沖田総司は小野路へ出稽古し、橋本道助宅に宿泊。
1861年5月20日、清河八郎は水戸浪士との会合の帰途、町人を斬殺し、5月28日に出奔。
1861年8月27日、近藤勇が天然理心流宗家4代目を継承。府中六所宮大黒魂神社にて襲名記念の紅白試合では、土方歳三が紅組の大将を守る役で出場した。

1862年2月27日、土方歳三は小島鹿之助宅より本田覚庵を訪問。3月1日~2日、3月25日にも訪問している。
1862年4月21日、近藤勇と土方歳三は、小野路の橋本家で出稽古を行い宿泊。5月9日は土方歳三のみ、7月1日は近藤勇、土方歳三の2人で橋本家に1泊している。
1862年12月28日、江戸幕府は清河八郎の浪士募集策を、正式決定した。

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1863年1月7日、会津藩主・松平容保は公用局を設け。老中・板倉勝静と松平忠敏に。浪士隊募集の沙汰を出す。腕に覚えがある者であれば、犯罪者であろうとも農民であろうとも、身分を問わず、年齢を問わず参加できる、当時として画期的な警護組織であった。
1863年1月15日、土方歳三は小島鹿之助より刀を借りた。この頃、土方歳三は「豊玉発句集」を書いている。
近藤勇・土方歳三らは、試衛館の仲間とともに、将軍・徳川家茂警護の為の浪士組に応募。
1863年2月4日、小石川伝通院にて浪士隊234名が顔合わせし、翌日2月5日、浪士隊編成と諸注意が伝えられた。
1863年2月6日、近藤勇は近藤周斎に京行きを報告し、浪士隊は2月8日に江戸を出発して中仙道にて京に向った。2月10日、先番宿割を任されていた近藤勇が芹沢鴨の宿を取り忘れてしまい、激怒した芹沢鴨は本庄宿路上で大篝火を焚く。2月17日、近藤勇が組頭に就任。2月23日、浪士隊が京の壬生に入り、近藤勇・土方歳三らは八木家に宿泊。2月29日、近藤勇らは御所を拝観。
3月13日、清河八郎らが率いる浪士組は京都を出立して江戸へ向かったが、芹沢鴨や近藤勇らは反対し、浪士残留組13名は会津藩預かりとなり、八木邸に残留。3月16日に浪士残留組は京都守護職邸で松平容保に拝謁した。
3月19日、土方歳三は、八王子千人同心で、京の警備に赴いていた井上源三郎と井上松五郎を訪問し四条芝居茶屋で酒宴。3月26日、土方歳三は小島鹿之助と橋本道助に上洛後挨拶の手紙を書く。この頃、島田魁が浪士残留組に入隊。4月8日、10日にも土方歳三は井上源三郎と井上松五郎を訪問し、芹沢鴨の事などを相談している。その後も、4月20日、6月2日、
4月17日、井上松五郎が壬生を訪問し、田中茶屋にて、土方歳三、井上源三郎、沖田総司、山南敬助、斉藤一、近藤勇が天狗の件で相談。江戸に戻った浪士隊は新徴組と名を変えて江戸市中の取り締まりを命じられた。
4月21日、将軍・徳川家茂が大坂城に入場。壬生残留浪士組は警護のため帯同し、八軒家京屋忠兵衛方に宿泊。4月22日には、井上松五郎が土方歳三と井上源三郎を訪問し、沖田総司を加えて登楼した。
5月11日、徳川家茂が京に入り、壬生残留浪士組も警護のため同行した。
5月25日、壬生残留浪士組は総員35名の連名で、江戸幕府に攘夷断行と兵庫開港反対の上書を提出。
6月9日、徳川家茂が京を出発して大坂に向う為、浪士組も警護。6月10日、近藤勇、土方歳三、井上源三郎、永倉新八、野口健司、佐伯又三郎、平山五郎ら他5名が、井上松五郎を送別する酒宴を開催。
この頃、芹沢鴨の乱暴狼藉が目立つようになる。
会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都から追放開始。
8月17日、会津藩主・松平容保は、壬生残留浪士組に出動命令を出し、秋月悌次郎が命令を伝えた。
8月18日、朝廷より壬生残留浪士組に「新選組」の隊名が下賜され、8月21日、松平容保は新選組に対して、市中見廻りを昼夜行う事を命じ、新選組は三条木屋町にて、桂小五郎の捕縛に向った。
9月8日、新選組副長・新見錦が局中法度違反により切腹。
1863年9月16日、新選組の近藤勇・土方歳三ら天然理心流派は、芹沢鴨、平山五郎、平間重助を襲撃し、芹沢鴨、平山五郎を殺害。9月18日、壬生寺にて芹沢鴨と平山五郎の葬儀を行った。
土方歳三は、小島鹿之助に近況報告の手紙を書いている。
この頃までには、新選組局長は近藤勇、副長に土方歳三が就任していた。

1864年1月2日、新選組は将軍警護のため大坂に入り、大坂天保山で徳川家茂を出迎えた。
1月10日、土方歳三は平忠右衛門と平作兵衛に年賀状を書いている。
1月14日、新選組は徳川家茂入京の準備として伏見城の裏を警備開始。
1月15日、徳川家茂に従って入京し、新選組の屯所に戻った。
2月2日、早朝に会津藩と新選組を批判する立札が四条大橋東詰め高札場で発見された。連光寺村(現在の多摩市連光寺)の富沢政恕が夜に壬生を訪問して土方歳三、沖田総司、井上源三郎と酒宴を開いている。
2月4日、松平容保が新選組に恩賞金を出した。
2月9日、土方歳三、沖田総司、井上源三郎の3人が富沢政恕の宿を訪問したが不在だった。
3月3日、土方歳三は井上源三郎と富沢政恕を訪問し、清水寺を参拝後、祇園藤屋で酒宴。
3月5日、近藤勇 土方歳三、沖田総司、井上源三郎、藤堂平助と富沢政恕を誘って、島原木津屋で酒宴。
3月11日、近藤勇 土方歳三、沖田総司、井上源三郎、藤堂平助、武田観柳斎と富沢政恕を誘い花見の後、島原木津屋で酒宴。
4月11日、近藤勇 土方歳三、沖田総司、井上源三郎と富沢政恕の送別会を千紅万紫楼で開いた。
4月12日、土方歳三は佐藤彦五郎に鉢鉄添え状を書いている。
4月13日、土方歳三は前日の手紙と日記・鉢鉄を富沢政恕に託して井上源三郎と伏見まで見送った。
4月26日、京都見廻組が結成され佐々木只三郎が与頭に抜擢された。
5月6日、徳川家茂は京を出て江戸に向った為、新選組は大坂まで警護。
5月16日、徳川家茂が天保山より乗船。新選組は安治川河口を警備。
5月17日、新選組の近藤勇以下9名はそのまま大坂に残留し、土方歳三らの隊士は京に戻った。
この頃、新選組の隊士の脱走者が増える。
6月5日、池田屋事件。長州藩・土佐藩・肥後藩等の尊王攘夷派志士を新選組が殺傷。新選組の名は天下に轟いた。
6月7日、会津藩手代木直右衛門、広沢富次郎が、新選組に松平容保からの褒美の金品を渡した。
6月21日、新選組は会津藩の探索依頼を受けて、東六条に出て西本願寺に宿泊。
6月24日、東本願寺周辺を警戒中に会津藩・広沢富次郎の依頼を受けて、新選組は竹田街道に出陣。

 

1864年7月19日、禁門の変(蛤御門の変)。京都を追放されていた長州藩勢力・久坂玄瑞らが、会津藩主・京都守護職松平容保らの排除を目指して挙兵した為、新選組は九条河原より御所に出動し会津藩兵と守備に着いた。その後、天王山に敗走の真木和泉らを追討するため会津藩と伏見に宿陣し、21日に新選組は天王山に出陣。22日、大坂で残党狩りし、長州藩の武器弾薬多数を押収して壬生に戻った。
8月4日、江戸幕府は新選組に対して、池田屋事変の感状と恩賞金を出した。
8月15日にも、新選組に対して将軍・徳川家茂より感状が出た。
8月19日、土方歳三は小島鹿之助と橋本道助に近況報告の手紙を書いている。
この8月頃 近藤勇の態度に不満を感じた永倉新八、斎藤一、原田左之助、島田魁、尾関政一郎、葛山武八郎が会津藩主・松平容保に非行五ヶ条を提出。
9月5日、近藤勇は隊士募集の為、江戸に向かう事が決まり、6日に近藤勇、永倉新八、武田観柳斎、尾形俊太郎が、将軍出陣嘆願と新選組隊士募集のため江戸に向った。先に江戸に入っていた藤堂平助は伊東甲子太郎を訪問し新選組入隊の説得。
9月16日、土方歳三は、会津藩士・山本覚馬に仇討ちを勧められて新選組へ入隊した、佐久間象山の遺児(三浦啓之助)を新選組で預っている事を、勝海舟に伝える手紙を書いた。
9月21日、土方歳三は小島鹿之助に上溝村(現在の相模原市中央区)の火事見舞いと挨拶を兼ねた手紙を書いている。相模国高座郡上溝村の佐藤為彦と近藤勇・土方歳三と面識があった。
9月26日、新選組は長州の間者、楠小十郎、御倉伊勢武、荒木田左馬之亮を斬殺。
10月5日、土方歳三は隊士・篠塚峰三の離隊を認めた。10月7日、日野より訪れた松木元太郎と小林重太郎の入隊を土方歳三は認めなかった。10月9日、土方歳三は近藤勇・佐藤彦五郎に対して近況報告の手紙を書いている。
10月15日、江戸の近藤勇ら一行は京に旅だち、10月27日に京に入った。
11月1日、土方歳三は実家に鉄扇を送っている。
12月1日、伊東甲子太郎ら一行8名が京に入り、12月3日に新選組入隊。新選組参謀 兼 文学師範に、伊東甲子太郎が就任。

1865年1月8日、新選組は大坂のぜんざい屋を襲撃し、土佐脱藩浪士・大利鼎吉を切り捨て、土佐勤王党の残党による大坂城乗っ取り計画を阻止。近藤勇・土方歳三は連名でぜんざい屋事件の報告書を谷万太郎、正木直太郎に会津藩まで届けさせた。
この頃、朝廷は新選組に禁門の変の感状を下す。
2月9日、土方歳三は佐藤彦五郎に近況報告の手紙を書いている。
2月21日、新選組総長・山南敬助が脱走。沖田総司が山南敬助を追い捕縛。2月23日、山南敬助が切腹(33歳)、光縁寺に埋葬された。
2月頃、土方歳三は西本願寺と屯所移転を交渉。3月1日、土方歳三は佐藤彦五郎に屯所移動などの近況報告の手紙を書いた。
3月10日、新選組は西本願寺の太鼓楼に屯所を移転。
3月21日、沖田総司は、佐藤彦五郎に土方歳三が江戸下向する件と、山南敬助切腹の件を伝える手紙を書く。
土方歳三は隊士募集のため江戸に向い、4月5日に江戸に入った。
4月6日、佐藤彦五郎は江戸滞在中の土方歳三を訪問。4月12日には土方歳三が日野の佐藤彦五郎家を訪問。4月14日、土方歳三は日野で小島鹿之助と面会。
4月27日、新隊士55名をつれて、土方歳三は京に向い、5月10日に京に入った。
5月に新選組は隊規の更新と新編成を行った。
閏5月22日、新選組は徳川家茂を三条蹴上まで出迎えて二条城まで警護し、閏5月24日には徳川家茂を藤ノ森まで警護した。
7月22日、土方歳三は大坂の井上松五郎に残暑見舞いを書いている。
9月9日、土方歳三は近藤周斎、宮川総兵衛、近藤ツネに「行軍録」添えた近況報告の手紙を書いた。
11月2日、土方歳三は近藤周斎、宮川音五郎、宮川金次郎、佐藤彦五郎宛てに近藤勇の広島出張を知らせる手紙を書いている。
12月22日、近藤勇は松平容保に報告。

1866年1月3日、土方歳三は佐藤芳三郎宛てと土方隼人・土方伊十郎宛に2通の年賀状を書いている。
1月26日、近藤勇は伊東甲子太郎、尾形俊太郎、篠原泰之進らと共に、再び広島に向った。
2月、土方歳三は佐藤彦五郎に刀を添えた手紙を書いた。
2月15日 新選組勘定方・河合耆三郎が切腹。
3月12日、近藤勇・尾形俊太郎が広島より京に戻った。
3月29日、土方歳三は宮川音五郎、粂次郎兄弟、近藤ツネ宛てに近藤勇帰京を知らせる手紙を書く。
4月1日、京都東山の祇園社(八坂神社)石段下にて新選組七番組組長・谷三十郎が頓死。
6月1日、近藤勇は会津本営の松平容保を見舞う。
9月、江戸幕府が、鴨川にかかる三条大橋の西詰に立てられた制札が、3度に渡って引き抜かれ鴨川に捨てられたことから、新選組が制札の警備を開始。
9月12日、制札を引き抜こうとした土佐藩士8名を新選組が発見し襲撃。(三条制札事件)
9月19日、土佐藩は新選組の近藤勇、土方歳三、伊東甲子太郎、吉村貫一郎を祇園栂尾亭に招いて和解。
9月26日、伊東甲子太郎が初めて近藤勇に新選組分離を申し出た。
9月28日、新選組五番隊長・武田観柳斎が薩摩藩と内通の疑いにより、斉藤一、篠原泰之進に斬殺された。
10月20日、新選組に会津藩より三条制札事件の感状と恩賞が出た。
1866年12月25日、孝明天皇が崩御。(満35歳没)既に薩長同盟を締結していた薩摩藩・長州藩と、会津藩・新選組の対立が激化することになった。

新選組副長 土方歳三 詳細年表(2) に続く

土方歳三と近藤勇の出会いを検証してみた
新撰組副長である土方歳三の「生き様」とは
土方歳三資料館のご紹介
斎藤一とは~新選組の中でも腕の立つ剣士 会津藩と運命を共に
島田魁~途中から入隊した新選組であったが最後まで戦った義の士
伊東甲子太郎~新選組参謀になるも御陵衛士を結成し暗殺された逸材
勝沼の戦いとは~新選組の衰退を決定づけた甲州勝沼の戦い(柏尾の戦い)

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コメント

    • 高田哲哉
    • 2016年 5月 13日

    通りすがりさま、お問い合わせありがとうございます。
    ご質問にある日にちの箇所に関しては、たしか、他サイトさんのを参考に記述したような気が致しますが、何を参考にしたのまでかは不明でございます。
    お役に立てず、お詫び申し上げます。

    • 通りすがり
    • 2016年 5月 13日

    貴サイトの記事、大変興味深く拝見しております者です。

    こちらの年表に「1844年(略)9月12日、藤堂平助誕生」とありますが、どちらの史料をご参考になったのでしょうか。
    藤堂に関する関連書籍などをいくつか見てきましたが、こと詳細な生誕日に関しては寡聞にして存じませんでしたもので非常に関心があります。

    ほんの些細な質問でたいへん恐縮ですが、よろしければどうかお聞かせください。

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