松下村塾 (しょうかそんじゅく) とは? 松下村塾の歴史と幕末の志士


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 松下村塾は、幕末の長州藩・萩で、1842年、長州藩士・玉木文之進が松本村の自宅で開いた私塾が始まりで、塾の名を松下村塾と名付けた。
 この玉木文之進は、吉田寅次郎の叔父で、幼い頃の吉田寅次郎も近所で通っていた。
 玉木文之進が官職に就き、多忙になるとこの塾は閉鎖されたが。吉田寅次郎の外叔・久保五郎左衛門が塾を継承し、吉田稔麿伊藤博文など子弟の教育にあたった。

 1856年3月、野山獄から実家の杉家に謹慎処分となった吉田松陰の「孟子」の教えを請いに集まった親類や近所の若者たちに、実家の幽囚室で講義を始める。
 吉田松陰は一方的に授業をすることはなく、塾生の意見を聞くなど対話を重んじ、各人の個性や能力が尊重され、可能性を引き出したと言う。
 子弟の人数が増え続けた為、1857年11月、杉家の家族は庭先の小屋を修理して吉田松陰に松下村塾を引き継がせた。

 塾は木造瓦葺き平屋建ての小舎であり、当初は8畳の一室で塾生と共同生活を開始。
 吉田松陰の教えはたちまち評判となり、長州藩校・明倫館は武士の子しか入学できなかったのに対し、松下村塾は町民・農民など身分の隔たりなく受け入れ、塾生名簿は現存しないが、塾生は約50名、述べ90名ほど教えたと言う。

 1857年11月には杉家の母屋10畳半の部屋を増築し、合計18畳に拡張した。

 吉田松陰の教えは尊皇攘夷を旨とし儒学、兵学、史学などを始めとした広範な学問であり、門下生としては、尊王攘夷・倒幕の旗頭となる久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一寺島忠三郎や、その死吾藩論を倒幕にまとめ、征長の幕府軍を撃退した高杉晋作らがおり、久坂玄瑞と高杉晋作は「識の高杉、才の久坂」「松下村塾の双璧」と称された。
 吉田稔麿を含めて「松陰門下の三秀」と言い、さらに入江九一を合わせて「松下村塾の四天王」と称した。

 この他、伊藤博文、山縣有朋品川弥二郎山田顕義野村靖、松本鼎、岡部富太郎、正木退蔵、前原一誠、飯田俊徳、渡辺蒿蔵(天野清三郎)、松浦松洞、増野徳民、有吉熊次郎、時山直八、駒井政五郎、中村精男、玉木彦助飯田正伯、杉山松助、久保清太郎、生田良佐、赤禰武人(赤根武人)、山県半蔵らは明治維新の原動力となり、多くの志士や明治政府での要人を排出する事となる。
 なお桂小五郎(木戸孝允)は塾生ではないものの、明倫館で吉田松陰から兵学を学んでいた。

 1858年7月には長州藩の公認塾となり、富永有隣も講師に加わったが、松下村塾で吉田松陰が教えた期間は僅か1年余りで、1858年末に井伊直弼の安政の大獄で吉田松陰が再び投獄されると、志士たちも京や江戸に出て活動する事となり、松下村塾は閉鎖された。

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 その後、1865年に塾生であった馬島甫仙が帰郷して吉田松陰の思想を受け継いで教育を行うも、明治3年(1870年)に山田顕義の求めに応じて大阪ー赴いたため、再び塾は閉鎖された。

 明治5年になると、玉木文之進が退官して松下村塾を再開し乃木希典も学んだが、前原一誠が起こした萩の乱に、玉木正誼を始め塾生の一部が参加した為、玉木文之進は責任を感じて自刃した為、またしても塾は閉鎖された。

 これを引き継いだのが、吉田松陰の実兄・杉民治で、明治13年(1880年)に官職すると塾を再開。
 漢学を中心とした教育を行ったが、明治25年(1892年)に杉民治が萩の私立学校の校長に就任したため塾は閉鎖され「松下村塾」は50年の歴史に幕を閉じた。

 現在、萩市の松陰神社の境内に、修復された当時の建物が現存し、1922年(大正11年)10月12日に国の史跡に指定された。
 講義室だった8畳の部屋には、吉田松陰の石膏像と肖像画、そして机が置いてある。

 

東京にもある松下村塾

 萩にある松下村塾を模した実物大の建物は、東京でも提示されている。
 場所は、吉田松陰の墓がある「松陰神社」だ。
 
 

 是非、どのような大きさの建物だったのか? 訪れてご覧頂きたいところだ。
 吉田松陰の墓もあるので、もちろんお参り願いたい。

 →吉田松陰とは? 吉田寅次郎の生涯 幕末の偉大な奇人
 →東京の松陰神社

 (参考) 松陰神社、Wikipedia

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