尊王攘夷と公武合体とは?幕末の政治運動を分かりやすくお伝えします




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初めに尊王攘夷とはなんぞや?と言うところから解説致します。

尊王攘夷とは

尊王攘夷(そんのうじょうい)の「尊王」とは、王=すなわち「天皇」を敬い、「攘夷」(じょうい)は、外敵(外国の侵略)を撃退しようとする思想と言う事になります。

幕末の日本では、外国船が頻繁に日本近海に現れるようになり、江戸幕府に対して開国を要求しました。
開国を求めた理由は、外国船が日本に寄港して、食料・水の補給や、日本との交易を行いたかったなどの理由があります。

しかし、その外国(外敵)を脅威だと感じて、追い払うべきであると、外国人を排斥する思想「攘夷」を唱える志士が現れた訳です。
ただし、徳川幕府は外国と接しているうちに、軍事力の違いが大きいと気が付き、戦争になっては、とても勝てないと分かったため、外国の要求をのんで、開国します。
もちろん、ただ開国した訳ではなく、外国の最新技術を学び、国力をつけるという富国強兵策を取ろうとしました。

開国すれば、当然、外国人が日本に上陸しますが、日本の民衆は、見られない外国人を見てビックリして混乱し、なんで外国の要求をのんだのか?と、外国に対して弱腰である幕府を非難するようになります。
そして、外国勢力に対する反感が強まり、外国の強さを余り良く知らない、大半の日本人は、武力によって外国を排除して、鎖国を維持するべきだと考えました。


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尊王(そんのう)、すなわち天皇を第一と考えるのは、当時の日本人のほとんどがそうであり、佐幕(幕府側)で新選組を率いた近藤勇らも、徳川家が大事とする前に「尊王」があります。
近藤勇や土方歳三らは、最初は「尊王」、すなわち、天皇を守りたくて、上京したのです。
簡単に言いますと、日本で一番偉い人は天皇であり、徳川慶喜などの徳川将軍は、政治を代行していると言う考え方が浸透していたので、普通の武士や志士にとって大事な人は天皇な訳です。

このようにして、幕府のためにではなく、天皇のためと言う尊王論と、外国人を追い払うと言う攘夷論が結びついて、下級武士を中心として尊王攘夷運動がおこりました。
これに答えるかのように、天皇自身も外国人が京都に入るのを嫌い、攘夷(外国を追い払う)と言う考え方になると、幕府に対して攘夷実行を迫った事も大きいです。
そのため、幕府は公武合体政策(天皇と幕府の関係を強化する)を取り、天皇家と幕府が密接になるようにと、政治の安定を図りますが、大老・井伊直弼が、朝廷の許可を得ずに、攘夷とは真逆の開国を勝手に決めたと、尊王攘夷派は大きく反発します。

そのため、長州藩は、一時「破約攘夷」(はやくじょうい)と言う、通商条約を破棄した上での攘夷を掲げます。

このように攘夷の先頭とも言える薩摩藩と長州藩は、自分で率先して外国を追い払おうと、薩英戦争や下関戦争で外国船と戦います。
潔く攘夷を決行したのはよかったのですが、結果的に諸外国の圧倒的な武力には叶わず、大敗を喫したことで、薩長も武力による攘夷は不可能であることがわかりました。
自分たちの考えが、間違っていたと言う事ですが、それに気づくまで、犠牲も払いました。

その為、尊王攘夷は、開国・倒幕へと転換されて、以後は、不甲斐ない、幕府を倒すと言う運動へと変わって行きます。
外国に負けて最新兵器の強さを知った薩摩藩と長州藩は、新たに洋式の武器を積極的に購入したので、旧式の幕府軍よりも優れた戦闘力を手に入れたのです。



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渋沢栄一も、豪農出身ながら、当初は、水戸藩と同じ考えの尊王攘夷で、開国には反対でした。
しかし、開国を進める幕府側の一橋家の家臣になり、色々と情報に接するうちに、攘夷は難しいことがわかり、開国するべきとの考えに変わって行ったようです。
長州藩・薩摩藩も、攘夷が無理だと分かると、上記のように、倒幕へと傾きました。

最初、外国と戦争してまで、討ち払えと言っていた、当時の国民世論は、結果的には、無理があるものだったと考えられます。
歴史は繰り返すと申しますが、現代の日本においても、マスコミなどの情報だけに頼らず、賛成意見・反対意見も含めて、たくさんの情報に接し、総合的に判断して行かないと、道を誤る可能性があることを、このように、歴史から学べます。

公武合体とは

上記でも少し触れましたが、尊王攘夷対して「公武合体」と言う言葉があります。

公武合体(こうぶがったい)の「公」は公家、要するに京都の朝廷(天皇)をさし、「武」は武家である江戸の幕府のことを意味します。


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すなわち、外国船が頻繁に日本近海に訪れ、開国を要求してくると言う難局に、もはや江戸幕府の力だけでは立ち向かう事ができないと考え、朝廷と幕府を合体させるくらいの一枚岩にして、国難に対処しようとした考え方です。

弱まりつつある江戸幕府の体制を、朝廷の伝統的権威と結びつけることで、政治を建て直そうとしました。

そのため、1861年には、孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)が、徳川家の14代将軍・徳川家茂へ降嫁もしていますが、これも幕府と朝廷の「公武合体」の考え方に基づくものです。

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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コメント

    • 高田哲哉
    • 2021年 4月 25日

    山田様、ご検証、ありがとうございます。
    山田さまは、ご見識が高いようで、誠に恐れ入る次第です。
    当サイトでの画像類(特にアイキャッチ画像)は、イメージ(印象)として、掲載させて頂いております。
    そのものであると、ご紹介は、致しておりません。
    あくまでも、イメージでございますので、誤解のないように、お願い申し上げます。(^-^)

    • 山田 太郎
    • 2021年 4月 25日

    掲載の写真はフルベッキ写真と呼ばれていますが、
    幕末の志士ではありません。佐賀藩の学生です。
    幕末の志士でないことは、現存の物証で証明済みです。

    • 宮永真次
    • 2017年 1月 01日

    宮永真琴氏の墓石が夫婦共に私共、宮永家の墓地に祀られて居ります。その墓地の位置する処の正面に真琴の生地である剣塚神社があります。宮永真次

    • 高田哲哉
    • 2015年 9月 29日

    宮永真次さま、コメントありがとうございます。
    もしよければ、尊王の志士・宮永真琴の記事をご寄稿頂けませんか?
    多くの方に知って頂く事ができるかも知れません。
    以上、コメありがとうございました。

    • 宮永真次
    • 2015年 9月 29日

    当時の尊皇攘夷の立役者に宮永真琴という人物がいました。歴史に名前があがらないのは残念です。


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