島津忠義(島津茂久) 時代に埋もれていた最後の薩摩藩主


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島津忠義(しまづただよし)は、島津氏分家である重富家・島津忠教の長男として1840年4月21日に生まれた。
母は島津千百子。

お由羅騒動にて薩摩藩第11代藩主となった島津斉彬は、1858年に死去した際、まだ実子が押さなかった事から、遺言で島津忠義に長女を嫁がす事で、養子として後継者に指名した。
こうして、暐姫(島津暐子、てるひめ)を正室として第12代の薩摩藩主となる。
なお、藩主在任中は、島津茂久と名乗っていた。

しかし、まだ19歳の若さであったこともあり、藩政は後見人である父・島津忠教(島津久光)が実権を握り、小松帯刀西郷隆盛大久保利通らが引き続き薩摩藩を動かした。

その為、藩主とは言え特に実績なども無かったが、ようやく表舞台にその名が登場するようになる。

四侯会議で徳川慶喜と対立して島津久光が鹿児島に戻り、1867年10月14日、徳川幕府15代将軍・徳川慶喜が大政奉還。
すると、朝廷は父・島津久光に上洛を求めたが病気と言う事で、代わりに島津茂久(島津忠義)が向かう事となる。

1867年11月13日、薩摩藩兵3000人を率いて鹿児島を出発すると、11月18日、周防・三田尻にて長州藩の世子・毛利広封と会見。
薩摩・長州・土佐3藩提携による出兵協定を結び、11月23日に入京した。

そして王政復古の大号令に貢献すると、議定に任ぜられて小御所会議に参席している。

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鳥羽・伏見の戦いにて官軍と認められて大勝利を納め、1868年1月17日、明治天皇より海陸軍総督に任命された。
この海陸軍総督は、日本全国の軍事力を統括する長であり、征夷大将軍に相当する。
西郷隆盛は「これでは勤王ではなく、島津幕府になってしまう」と説得されて、翌日に島津忠義は辞表を提出した。

明治維新後、長州藩・土佐藩・肥前藩と並んで版籍奉還に協力し、薩摩藩知事となったが、実質的な藩政は西郷隆盛に任せたと言う。

明治4年(1871年)、廃藩置県後には公爵となり、東京に在住。
西南戦争の時には、東京から西郷隆盛に働きかけたが、余り関わっていない。

島津久光の死後、明治21年になって許可が出て鹿児島に帰郷したが、明治22(1889)年2月11日の大日本帝国憲法発布の式典に列席した際には、こんなエピサードがある。

ドイツの医学者ベルツは日記によると「ただ一人、洋服姿でありながら、なお正真正銘の旧い日本の「まげ」をつけているサツマの島津公を認めた。珍妙な光景であった。」とある。

これは、旧来の慣習に固執した父・島津久光の方針に従っていたからだとされている。

そして、貴族院公爵議員になったが、明治30年(1897年)12月26日、鹿児島にて薨去した。享年58。

没後、勲一等旭日桐花大綬章を授与され、明治31年1月9日に国葬。


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