西丸帯刀  尊王攘夷を唱え丙辰丸の盟約を交わした水戸藩士


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 西丸 帯刀(さいまる たてわき)は常陸国北部磯原村(現・茨城県北茨城市)の旧族郷士・野口北水の次男として1822年に生まれた。幼名は義勝、諱は亮、号は松陰。
 野口家は徳川綱條の代に野口市蔵が郷士になっていた。

 江戸での剣術・砲術の修行を経て、水戸では弘道館に学んだ文武両道。
 26歳のときである弘化4年(1847年) 大津村の郷士・西丸勇五郎義則の養子となり、養父の娘・よしを妻とている。
 この家柄は、常陸守護・佐竹氏の庶流・西丸氏であった。

 1854年に家督を継ぐと、西丸帯刀の実家・養家とも尊王攘夷派であったことから、尊皇攘夷派として活動。
 
 大津村には長松寺武場を設置するなど、地元に貢献するなどしたが、西丸家は平潟の豪商・菊池半兵衛と繋がりがあった為、活動範囲は全国に及び、海防の急務を論じた「海岸略儀」などを著している。
 1860年7月に、長州藩士・桂小五郎松島剛蔵らが長州藩船で江戸に出ると、西丸帯刀は野村彝之介住谷寅之介らを伴って会談。
 桂小五郎・松島剛蔵ら長州藩ともう1度桜田門の変を起こそうと画策して、幕府の幕政改革を通じて尊皇派の政権を樹立しようと試みる盟約「丙辰丸の盟約」を交わす。
 水戸藩が幕府上層部を「破り」、長州藩が幕政改革を「成す」といった、御三家の水戸藩と外様の長州藩と盟約であった。
 この盟約は水戸藩と長州藩の有志だけでの盟約であり、その後、長州藩に藩論の変転があったため実現しなかったが、これはのちにイギリス公使館を襲った「東禅寺事件」や「桜田門外の変」に多大の影響を及ぼし、水戸藩の動向を決定付けた。

 清河八郎は西丸帯刀を「亦志士成」と評している。

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 1864年、水戸天狗党の乱がおこると、西丸帯刀は単独で江戸に赴いて情報収集に当たったが、天狗党に参加したとして幕府に捕われたが、その後脱走。
 一時、大津村に戻ったが、水戸藩の討伐から逃れる為、東北に逃亡したのち、大津村に戻ると屋敷の屋根裏に身を潜めて明治維新まで身を隠した。

 1868年4月には、新政府軍に加わった水戸藩の一部として官軍となり戊辰戦争に参加。

 明治維新後、水戸藩に北海道開拓が許可されると開拓役人として北海道に赴く。
 明治3年(1870年)権大属となり開拓責任者となったが、廃藩置県により帰郷しすると一切の公職につくことなく隠棲した。

 明治45年(1912年)、従五位に叙せられたが、翌年1913年に死去。享年92。

 菩提寺は北茨城市大津町の長松寺。

 なお、童謡詩人として著名な野口雨情の大叔父にあたり、実家・野口家の行く末を憂いて、野口雨情にあてた手紙が残されている。

 また、孫の西丸哲三に作家・島崎藤村の姪・いさ子が嫁いでおり、西丸帯刀ら水戸藩の活躍は島崎藤村の著書『夜明け前』で取り上げられた。

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