大山巌とは~陸軍を勝利に導いた薩摩出身の大将


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大山弥助は、1842年10月10日、鹿児島城の城下町、加治屋町柿本寺通(下加治屋町方限)で生まれた。
父は薩摩藩士の砲術専門家であった大山綱昌(大山彦八綱昌)。
この父・大山綱昌は、薩摩藩士・西郷隆充の次男で、薩摩藩の砲術家であった大山綱毅の養子として、大山綱毅の娘・大山競子と結婚していた。
そう、父・大山綱昌(西郷綱昌)は、西郷吉之助(西郷隆盛)の西郷家と遠縁にあたる。大山弥助(大山巌)と15歳年上の西郷隆盛とは従兄弟なのだ。

下記は大山巌誕生地となる。

大山弥助(大山巌)は6~7歳の頃から西郷隆盛がリーダーをしていた郷中教育において、読み書き(習字・読書)や薩摩武士の精神を学んだ。
特に「真田三代記」、「武王軍談」、「三国志」、「太閤記」、「漢楚軍談」、「呉越軍談」などを読んだ記憶力が非常によく「真田三代記」や「武田三代記」などは、暗記して周囲を驚かせていたと言う。
そして、卑怯なことを嫌い、死を覚悟する潔さを西郷隆盛らから学んだ一方、いくさごっこで竹槍をかわしそこねて左眼を負傷し、大山弥助の視力は元通りにはなりませんでした。

1855年頃に元服した大山弥助(大山巌)は、薩摩藩の槍術師範・梅田九左衛門に入門。
討幕運動では薩摩藩内部でも尊王派に属したが、当初、薩摩藩・島津久光大久保一蔵(大久保利通)ら薩摩藩としては公武合体が意思だった為、1862年の薩摩藩士の尊王派が集合した京・寺田屋を襲撃し、有馬新七ら尊王派を静粛した。
この寺田屋には大山巌もいたが、説得されて投降に応じ、薩摩に戻されて、謹慎生活を送った。

1863年、薩英戦争が始まると謹慎が解かれ、弁天波戸砲台に配属。イギリス艦乗っ取りの決死隊に志願し、黒田清隆、西郷従道、野津鎮雄、伊東祐亨らとともに西瓜売りを装ってイギリス艦隊旗艦「ユリアラス」に乗り込むことに成功。
西欧列強の軍事力を目の当たりにした大山弥助(大山巌)は、砲術を学ぶべく、1863年11月16日、佐久間象山大鳥圭介橋本左内桂小五郎らも学んだ、江川英龍の塾に入門。
黒田清隆らとともに大山巌も砲術を学び、砲術の免許皆伝を得ている。

1864年7月19日、禁門の変が起こり、同年7月24日、江戸幕府は長州征討(第1次長州征討)を命令。薩摩藩家老・小松帯刀は大山弥助(大山巌)ら、江戸詰め薩摩藩士22名に上京を命じている。
1865年、一度江戸にもどっているが、12月に大山弥助(大山巌)は、江戸から京都に移動し、大砲隊談合役に就任。砲隊訓練を指導するようになった。
1866年には、薩摩藩家老小松帯刀が、京都の情勢を長州藩と大宰府三条実美ら五卿に伝えるため、大山弥助(大山巌)を派遣している。

1868年、戊辰戦争が始まると、大山弥助(大山巌)は、薩摩藩の新式銃隊を率いて、二番砲兵隊長として鳥羽・伏見の戦いで会津藩を相手に戦う。
2番砲隊の弾薬が少なくなると、大山弥助(大山巌)は大刀を左手に持ち、右手には六連発拳銃を握り、砲を捨てて銃をとり突撃するよう命令。大山弥助は右耳を撃たれて負傷するも戦い続けた。
1868年4月の宇都宮城攻撃にも、大山弥助(大山巌)は砲撃隊を率いて戦い、白河城の戦いでも、会津藩の西郷頼母を退かせている。

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会津戦争では鶴ヶ城攻めの際で、鶴ケ城大手門の前に築かれた北出丸からの射撃で侵入を阻まれた土佐藩部隊から救援を求められて、参謀・伊地知正治は大山弥助(大山巌)の指揮する砲兵隊の出動を命じる。
このとき敵弾が大山弥助(大山巌)の右股を、内側から貫いて転倒。負傷した為、鶴ヶ城総攻撃前の8月24日に後方移送された。
会津若松城内には、のちに後妻となる大山捨松(山川大蔵の妹)(8歳)も籠城しており、この時は敵同士だった。

大山弥助は1868年11月20日に鹿児島に帰り、砲隊塾を開きながら大砲の研究に取り組み、欧米製のものを改良した「弥助砲」を考案している。
その後、日本陸軍創設の為、ヨーロッパに留学し、海軍の造船所や大砲の製造所などを見学したが、まだまだ日本は遅れていることを実感して帰国。

1870年(明治3年)3月に、大山弥助は東京守備の薩摩藩兵として上京し、大砲隊一番大隊として数寄屋橋の旧江戸南町奉行所に駐屯。

この際、大山弥助は薩摩藩鼓隊員を横浜に派遣して、イギリス公使館軍楽隊長ジョン・ウイリアムズ・フェントンの伝習指導を受けさせた。
フェントンは、予定されている各藩徴兵の天覧(天皇御覧)演習では、国歌演奏が行われるから、国歌の練習から始めようと提案したが、まだ日本に国歌はない時代・・。
フェントンは、歌詞を作ってくれば、自分が作曲すると言っていると、伝習小頭・頴川吉次郎が大山弥助に相談し 大山弥助は薩摩琵琶「蓬莱山」の一節にうたわれている「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」と言う歌詞をフェントンに紹介し、フェントンはこれをもとに作曲を試みた。
その後、明治13年になり宮内省式部寮雅楽課の林広守が「君が代」として作曲しなおし、海軍省傭教師フランツ・エッケルトが編曲したものが、現在の日本国国歌とされている「君が代」である。

1870年(明治3年)8月16日に普仏戦争観戦を命ぜられ、横浜港から8月28日に米飛脚船クレド・ハフリック号で出発。太平洋を横断し、サンフランシスコからニューヨークへ移動し、大西洋を渡って、10月23日にロンドンに到着した。
この体験から、日本陸軍をフランス式からドイツ式に改め、新しい知識を基礎に日本陸軍を強化する。
明治4年3月16日に横浜に帰国。

その後、1870年からはスイスのジュネーヴに長期留学。
フランス語などを学びつつ、兵器開発や軍制の研究を行っていたが、1874年4月大山巌のもとを郷里の先輩・吉井幸輔が訪ねてる。
前年にあたる1873年、征韓論を主張した西郷隆盛は、政府の職を辞して、鹿児島に帰郷。政治家・軍人・官僚600名余が次々に大量に辞任していた。
岩倉具視は西郷隆盛を説得できるのは、大山巌しかいないとして、吉井幸輔を特使として大山巌に送ったのだ。
当初、大山巌はまだ勉強不足と帰国を拒否したが、国家の重大事であると説得されて、ついに帰国。
の帰国前に名前を大山弥助から大山巌に改名したようだ。
1874年10月3日、東京に到着した大山巌は、さっそく2日後に鹿児島に行き西郷隆盛を1ヶ月の長きに及んで説得するが、既に西郷隆盛は不平を持った仲間と共に死ぬつもりだったのか、西郷隆盛の決心は動かなかった。
1874年11月12日、東京に帰った大山巌は大久保利通に西郷隆盛の説得が不調に終わったことを報告している。
同年12月18日に、大山巌は陸軍少将となり、陸軍省第一局長に補任された。

1877年(明治10年)、西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱「西南戦争」が勃発。西郷軍(約30000)は鹿児島を出発して熊本城をめざし北上を開始した。
政府は、鹿児島県逆徒征討軍総督に有栖川宮熾仁親王を任命。陸軍卿山県有朋(陸軍中将)と海軍卿川村純義(海軍中将)が総督を補佐。
政府軍は約70000の徴兵制による軍隊を主力として、征討第一旅団司令長官・野津鎮雄陸軍少将、征討第二旅団司令長官・三好重臣陸軍少将、征討第三旅団司令長官・三浦梧楼陸軍少将、別働第五旅団司令長官に大山巌陸軍少将が任命された。
この西南戦争には、警視庁に就職していた、旧会津藩士の佐川官兵衛や、元新選組斎藤一なども政府軍として参戦している。

西郷軍は、熊本城で敗れ、鹿児島に戻ると城山に立て籠もる。
大山巌は攻城砲隊司令長官に任命され、9月24日の朝4時、征討軍は総攻撃を開始。
明るくなるまでには勝負は決したようで、撃たれて動けなくなった西郷隆盛は、城山背後の岩崎谷を下り、島津家一門の邸前で自刃した。

午前9時、城山の戦いが終わるとともに大雨が降る。雨がやんだ後、浄光明寺跡で山県有朋らの立ち会いのもとで、検屍が行われたが、大山巌は西郷隆盛の遺体を見ることが出来なかったと言う。

大山巌は西郷隆盛の夫人・イトに弔慰金を渡すも、突き返されている。
また、大山巌の姉・大山成美は、泣きながら大山巌を責めたと言う。
この西南戦争後から、大山巌は人が変ったように寡黙となり多くは語らなくなった。

1878年(明治11年)5月に大久保利通が暗殺される。
同じ年の11月、大山巌は陸軍中将に昇進。12月5日、参謀本部次長となり、1880年(明治13年)年2月18日、陸軍卿に就任し、参謀本部次長を兼任。

1882年(明治15年)8月5日、大山巌が帰京したとき、夫人・大山沢子は産後の状態が悪く病床に伏しており、容体は重篤となった。
大山巌はドイツ人医師で、東京医学校(東大医学部の前身)教授のエルヴィン・ベルツの往診も受けたが、大山沢子は1882年8月24日死去。(享年23年)

大山巌私邸を故・沢子の父・吉井友実が訪問して大山巌に縁談を勧め、旧会津藩士で陸軍大佐・山川浩(山川大蔵)の妹・山川捨松を紹介する。

1884年(明治17年)2月16日、陸軍卿・大山巌は川上操六・桂太郎 両陸軍大佐らを随員として、欧州兵制視察のため横浜を出発。
ドイツにてメッケル少佐を陸軍大学教官として招聘する契約に成功し、1885年(明治18年)1月25日に帰国。

1885年(明治18年)12月22日、太政官制が廃止され、第1次伊藤内閣が発足。内閣総理大臣に伊藤博文、外務大臣・井上馨、陸軍大臣・大山巌、海軍大臣・西郷従道が就任。

1890年(明治23年)11月15日、明治天皇と有栖川熾仁親王ら皇族、並びに山県有朋首相ら閣僚らは、大山巌の私邸(東京府豊多摩郡千駄谷町)を訪問。

1894年(明治27年)の日清戦争で、大山巌大将は、陸軍第2軍の司令官として10月24日~26日に遼東半島の花園口に上陸。
11月6日には金州城を占領し、11月21日予定の旅順口攻略に向けて、11月17日より第2軍は前進を始めた。
ところが11月18日、第2軍の先鋒・秋山好古少佐の捜索騎兵ならびに第3連隊第1大隊が、清国軍と遭遇。旅順口北方の土城子の戦いで、第2軍最初の戦死者11名を出す。
1895年(明治28年)1月20日、第2軍の主力は山東半島栄城湾に上陸。2月2日、威海衛軍港陸岸を占領。2月11日には清国の北洋艦隊司令長官・丁汝昌が自決し、北洋艦隊は翌日、連合艦隊に降伏。
日清戦争は、日本軍の勝利に終わった。

1895年(明治28年)5月21日、大山巌は大総督・小松宮彰仁親王とともに神戸に帰港。
25日に神戸から京都に向かい、歓迎群衆に囲まれる中を京都御所に到着。
明治天皇臨席の立食宴の後、夕刻から開催された京都府民の凱旋祝賀会に出席。
26日になると大山巌は陸軍大臣に復帰。帰京する天皇と共に29日に京都を出発し、30日に東京到着。
東京では京都を遙かに越える群衆の歓迎に迎えられたのだった。
大山を迎えた家族は、夫人大山捨松をはじめ18歳の長女・大山信子、14歳の次女・大山芙蓉子、12歳の三女・大山留子、10歳の四女・大山久子、9歳の長男・大山高、6歳の次男・大山柏と、皆元気だったが、長女・大山信子は肺結核で嫁ぎ先より離婚の申し入れがあった。
1896年(明治29年)5月21日、大山巌の長女・大山信子が19歳で肺結核のため死去。

日清戦争後、日本の政策は大国ロシア戦を想定した予算編成となり、軍備増強が図られた。

1898年(明治31年)1月、天皇の軍事上の最高顧問機関として「元帥府」が創設され、陸軍大将である山県有朋、小松宮彰仁親王、大山巌と、海軍大将の西郷従道に元帥の称号が授与された。

日露戦争においては、元帥陸軍大将として満州軍総司令官に就任。
ともに、日本の勝利に大きく貢献した、同じく薩摩出身の東郷平八郎と並んで「陸の大山、海の東郷」と言われた。

日露戦争後は栃木県の那須の別邸で農業をして過ごし、大正5年12月10日、享年75歳で死去。
意識朦朧の中、「兄さぁ」とうわごとを言うと、大山捨松は「やっと西郷さんに会えたのね」と大山に話しかけたと言う。
大山巌は西南戦争以来、一度も鹿児島に帰る事は無かった。

国葬が執り行われたが、国葬に先だって、ロシア大使館付のヤホントフ少将が大山家を訪問し、全ロシア陸軍を代表して弔詞を述べ、木箱におさめた立派な花輪を贈呈した。
かつての敵国からの丁重な弔意であった。

大山巌の銅像

江戸城(皇居)の北側にある「田安門」の外堀沿いに、九段坂・牛ケ淵のお濠沿いの九段坂公園に大山巌の銅像「大山巌像」があります。

大正8年(1919)11月3日に建てられたものです。
九段下駅2番出口より徒歩2分ですので、お近くにお立ち寄りの際にはぜひどうぞ。
左隣には、品川弥二郎像もあります。

(参考文献)  ウィキペディア、NHK大河ドラマ、あらすじと犯人のネタばれ、福島県観光交流局

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