大鳥圭介 多彩な知識を有した幕府の歩兵奉行


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 大鳥圭介(おおとりけいすけ)は、播磨赤穂の赤松村(兵庫県赤穂郡上郡町岩木丙石戸)の医師・小林直輔の長男として、1833年(天保4年)2月25日に生まれた。幼名は慶太郎で、成人すると小林慶太郎と名乗っている。

 3歳の時に神社を参拝すると「天下泰平」と漢字で書き、周囲を驚かせたと言う。
 この頃の江戸時代末期は、飢饉と病気が続く日々であったが、幼い頃はやんちゃで、ガキ大将であった。
 その後、医者兼漢学者である祖父・小林純平の薫陶を受けると学問を志し、13歳のときに父も学んだ岡山藩の閑谷学校に入学して、漢学、儒学、漢方医学を5年間学んだ。

 1849年、17歳のときに帰郷すると漢学者を目指そうとしたが、父の願いで医師を継ぐ修行をすることとなり、赤穂の蘭方医・中島意庵の薬箱持ちとして助手を約2年間務めた。なお、この頃に名前を圭介と改めている。

 1852年5月2日、大阪に入ると緒方洪庵の適塾に入門すると、按摩や筆写で生活費を稼ぎながら蘭学と西洋医学を学んだ。
 そして、21歳になった年には、ペリー提督黒船来航となり、世の中は幕末へと突入して行く。

 1854年、適塾時代の仲間である村上代三郎、三木芳策らと共に江戸に出ると、薩摩藩邸にてオランダ語の翻訳や技術指導などを手伝い、最初の手当てで江の島に遊びに行ったとある。
 その後、大木塾(坪井塾)に入るとすぐさま塾頭となり、軍学や工学に関心が移り、西洋式兵学や写真術を学び、勝海舟とも知り合った。また、台場を設計すると老中・阿倍正弘も視察に訪れたと言うが、安政の大地震で品川台場は崩壊した。

 18556年、書物で読んだ写真術を実践し、薩摩藩・島津斉彬の養女・篤姫のが一旦公家の養女となる際の写真撮影も手ほどきしたと言う。

 1857年には、砲術を研究していた縄武館(江川塾)に、兵学教授として招かれた。手当25両5人扶持。
 時期は多少ことなるが、佐久間象山・大鳥圭介・橋本左内桂小五郎(木戸孝允)なども砲術を学んだ塾である。
 また、江戸ではジョン万次郎(中浜万次郎)からは英語を学んだ。榎本武揚もジョン万次郎から英語を学んでいた為、出会ったのだ。

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大鳥圭介 武士となる

 1858年になると、服部元彰の紹介を受けて、尼崎藩主・松平忠興に取り立てられ、8人扶持の尼崎藩士となった。
 その後、洋学全般の深い知識を認められて、徳島藩の藩士となったあと、1859年には、江戸幕府直轄の洋学研究教育機関である蕃書調所に教授として出仕。
 28歳となった1860年には「砲科新編」を翻訳して出版し、日本初の合金製活版を作ったと言い「大鳥活字」と呼ばれた。その後も、多数の本を出版しているが、同年・雲州藩士の娘・矢島みち(22歳)と結婚。

 1861年12月、伊豆韮山代官の江川英敏の推挙により、徳川幕府の御鉄砲方附蘭書翻訳方出役となった。

 1863年8月20日には、幕府の海陸軍兵書取調方出役となり、開成所の教授も兼務。
 この頃、二院制議会の採用を幕府に対して建言している。

 1865年1月28日、陸軍所に出仕すると富士見御宝蔵番格に就任し、この33歳のとき、俸禄50俵3人扶持役金八百両の旗本となり、正式な幕臣となった。

 1866年1月29日、小十人格歩兵差図役頭取勤(中尉)

 1867年10月23日には、歩兵頭並(佐官級)となり、徳川幕府の陸軍伝習所にてフランス式の軍事訓練を実施し、800名の精鋭部隊を育成した。

 しかし、徳川慶喜は大政奉還し、王政復古となり新政府が樹立し、鳥羽伏見の戦いとなった。

 1868年1月28日、歩兵頭(大佐)に昇進し、2000石となる。
 鳥羽・伏見の戦いにて、江戸城に撤退した徳川慶喜の評定においては、小栗忠順、水野忠徳、榎本武揚らと共に徹底抗戦を主張した。
 2月28日、歩兵奉行(将官級)に昇進すると、3月4日には家族を江戸から脱出させて下総佐倉藩士に託した。
 そして、勝海舟と西郷隆盛により4月11日に江戸城が開城。

 即日、大鳥圭介は伝習隊500を率いて江戸から脱走し、本所法恩寺で歩兵第二大隊(小川町大隊)と合流 。市川を経て、小山・宇都宮・今市・藤原と、新政府軍と一戦を交える覚悟である会津藩を目指した。

 会津に到着すると、農兵を募る事を藩主・松平容保に進言したが、領民を巻き添えにしたくないと断られている。
 しかし、陸軍奉行・松平太郎や、新選組土方歳三らと転戦して新政府軍に備えた。
 伝習隊を率いて、母成峠に布陣したが、母成峠の戦いで壊滅的な損害を受け、仙台に退却した。

函館で蝦夷共和国に参加

 仙台では、旧幕府の艦隊を率いて逃亡してきた榎本武揚と合流し、船に乗船して共に蝦夷地に渡った。
 蝦夷は未開の地であると思い込んでいたのか、普通の民家があったことに驚いたと言う逸話もある。

 蝦夷共和国が成立すると、箱館政権にて陸軍奉行に就任。
 箱館戦争では遅滞戦術を駆使するなどして、劣勢ながらも粘り強く戦ったが、連戦連敗となり、実際の指揮官(用兵)としての評価は低い。

 明治2年(1869年)5月18日、五稜郭の榎本武揚らは降伏し、大鳥圭介も東京へ護送されると、かつて大鳥圭介が造った軍務局糺問所に投獄された。
 大鳥圭介は牢名主による悪習慣をやめさせて、合議制による牢獄内運営改めさせている。
 9月には佐倉に逃れていた家族も、東京に出て江川英敏の屋敷にて世話になった。

 明治5年(1872年)の正月、久しぶりに家族との面会を許されたそのあとの1月6日、特赦により、榎本武揚らと出獄を認められた。
 すると、黒田清隆の配慮もあり、北海道開拓史御用掛五等出仕として明治政府に雇用され、2月14日には大蔵小丞の職を兼任すると、欧米各国を開拓機械の視察とも公債発行交渉の為、2月18日に横浜港を出港し、アメリカに向かった。
 そして、1000万ドルの融資を取りつけ、サンフランシスコからワシントンに入り、岩倉使節団の木戸孝允らと会談。
 その後、5月にホワイトスターライン・バルチック号に乗船してロンドンに渡ると1000万円の公債ょ実現させ、イギリス各地の工場なども多数視察。
 6月にニューヨークに渡るとアメリカ各地を見学しつつ、8月にはカナダに入るなど、多数の地を訪問。
 明治7年(1874年)3月に日本に帰国した。
 その後は、大蔵少丞兼任を解かれて、北海道開拓使五等の仕事に専任することとなり、北海道へ出張。
 9月になると、今度は陸軍省四等出仕となり、明治8年に陸軍大佐となるとタイも訪問している。
 技術の知識を買われて、工部省四等出仕となると技術官僚として殖産興業政策に大きく貢献。明治10年(1877年)には工部大学校が発足し校長に就任している。

 明治11年(1878年)2月4日、妻・みち死去。享年39。
 この頃は内国勧業博覧会の審査員として尽力し、日本各地を出張。
 明治15年には元老院議員に任じられた。

 明治19年(1886年)4月10日には、学習院院長兼華族女学校校長となり、技術系・教育関係の役職を歴任。
 その後は外交官に転じると、明治22年(1889年)6月3日に、駐清国特命全権公使を拝命した。
 明治26年(1893年)7月には、朝鮮公使を兼任して朝鮮へも赴任。日清戦争開戦直前の困難な外交交渉を担当した。

 明治27年(1894年)10月11日、公使を解任されて、帰国後には枢密顧問官となる。
 明治33年(1900年)5月9日、68歳になった大鳥圭介は男爵を授けられた。

 明治35年9月28日、台風による高潮である小田原大海嘯(おだわらだいかいしょう)では、国府津の別荘にいたところ、建物は崩壊したが、屋根の上に逃れて一命を取りとめている。
 明治41年、榎本武揚死去。享年72
 明治44年(1911年)6月15日、大鳥圭介は国府津の別荘において食道癌のため死去した。享年78。

 函館山の山腹に、旧幕府軍陣没者供養の慰霊碑「碧血碑」(へっけつひ)があるが、その三字の揮毫は、大鳥圭介のものだと言われている。

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