大村益次郎 (村田蔵六)  徳川幕府を倒した討幕軍の司令官で日本の近代兵制の創始者


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 大村益次郎は1824年5月3日、周防国の鋳銭司村(現在の山口市鋳銭司)にて村医の長男として生まれた。幼名は宗太郎、通称は蔵六、良庵。
 1842年、防府にてシーボルトの弟子・梅田幽斎から医学や蘭学を学ぶと、豊後国日田の広瀬淡窓の咸宜園入塾し、漢籍、算術、習字などを学んだ。

 1846年には大阪に出て、緒方洪庵の適塾に入門すると塾頭となり、長崎にも遊学した。

 1850年に帰郷すると、四辻で村医を開業し、村田良庵と称した。
 しかし、愛想が悪く、余り話もしなかった為、評判は悪かったと言う。
 1851年、隣村の農家・高樹半兵衛の娘・琴子と結婚。

 折しも、1853年にペリー提督黒船来航など、幕末の動乱が起きようとしていた時期で、蘭学者の知識が求められる時代となり、伊予宇和島藩の要請で宇和島に移り住んだ。
 宇和島に着いた際には、藩主や家老が国許を離れており、当初、2人扶持・年給10両という低い禄高となったが、家老が帰国すると役人を叱責し、上士格100石となった。

 1854年から1855年には、二宮敬作と共に長崎へ赴むくと軍艦建造研究を行い、提灯屋の紙を張り替えるだけの職人である嘉蔵(前原巧山)とともに、国内初の蒸気機関の造船に挑戦している。この頃、村田蔵六と改名。また、長崎にて二宮敬作よりシーボルトの娘で医学修行中の楠本イネを紹介されている。

 1856年4月、宇和島藩主・伊達宗城(だて むねなり)の参勤に同行して江戸に赴くと、11月、麹町に私塾・鳩居堂を開塾し、蘭学・兵学・医学を教えた。
 11月16日には宇和島藩士のまま、徳川幕府の蕃書調所教授方手伝となり、外交文書、洋書翻訳のほか兵学講義、オランダ語講義などを行い、月米20人扶持・年給20両を支給された。

 1857年11月11日には、築地にあった徳川幕府の講武所教授となり、当時最新の兵学書の翻訳と講義を行い、1858年には幕府より銀15枚の褒章を受けた。
 1858年3月19日には、長州藩上屋敷での蘭書会読会に参加し、兵学書の講義を行い桂小五郎と知り合った。
 これを機に、1860年、長州藩の要請により江戸在住のまま長州藩士となり、年米25俵扶持となり、塾の場所も麻布の長州藩中屋敷に移した。

 1861年1月、長州に赴くと、西洋兵学研究所である博習堂の学習内容改訂に従事し、下関周辺の海防を調査。
 江戸へ戻ると、1862年、江戸幕府から委託されて英語・数学を教えていたヘボンのもとで学んだ。
 江戸滞在時には箕作阮甫、大槻俊斎、桂川甫周、福澤諭吉、大鳥圭介といった蘭学者・洋学者や旧友とも付き合いがあったと言う。

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 大村益次郎は、武士の出でもなく、勉学も洋学を行っただけであった。
 しかし、その西洋の広い知識を身に着けて行く過程で、経験が無くても、本で読んだだけの知識を、想像力を持ってそのまま実際に生かすことができる天才であった。
 その為、特にこの時代に求めらた軍事面で特殊能力が評価された。

 1863年10月、萩に赴くと手当防御事務用掛に任命され長州藩の軍事費の担当者となる。
 1864年2月24日には、戦術などを教える兵学校教授役として、長州藩の藩校・明倫館での西洋兵学の講義を行った。
 そして、鉄煩御用取調方として製鉄所建設に従事した一方、語学力を買われ、8月14日には四国艦隊下関砲撃事件の際には外人応接掛に任命され、下関に出張している。
 明倫館が廃止されると、洋学教育を行う藩校となった博習堂の用掛兼赤間関応接掛に任命された。
 また、山口の普門寺塾でも兵学を教えることとなる。

 1865年、高杉晋作らが馬関で挙兵して保守派を打倒、藩論を倒幕でまとめが、この年、大村益次郎は軍艦・壬戌丸売却のため、秘密裏に上海へ渡っている。
 この頃、高杉晋作がつけたあだ名は「火吹き達磨」である。

 高杉晋作が奇兵隊の創設し、軍制改革を行うと大村益次郎は指導を要請され、桂小五郎の推挙により馬廻役譜代100石取の上士となり、藩命により大村益次郎永敏と改名した。
 「大村」は故郷の字から「益次郎」は父親の「孝益」から1字とっている。

 大村益次郎は、桂小五郎の意見を参考に、従来の武士だけでなく、農民・町人からも兵士を募集し、藩が給与を負担する軍制改革を行った。
 隊の指揮官を普門寺塾に集めて戦術などを教え、隊が単独でも行動がとれるように機動性を高めた。
 そして、青木群平を長崎に派遣して最新のミニエー銃を購入させようとしたが、幕府が知る所となり断念し、7月に桂小五郎が伊藤俊輔井上馨を長崎のグラバー商会と交渉して、同盟関係に合った薩摩藩の名を借りてミニエー銃4300挺、ゲベール銃3000挺を購入することに成功した。

 第2次長州征伐では、石州口方面にて指揮を取り、幕府軍をことごとく撃破。7月18日に浜田城を陥落させ、のち石見銀山を占領した。
 勝利後は、12月12日海軍用掛を兼務し、海軍頭取・前原一誠を補佐した。

 1867年、討幕と王政復古を目指し西郷吉之助大久保一蔵ら薩摩藩の動きは、過去の禁門の変などの経緯から薩摩藩を使用できないとし、兵を動かさない慎重論を唱えた。
 9月に大久保一蔵が長州藩に来て討幕を説得すると、藩論は倒幕に傾き、10月27日に大村益次郎は掛助役に左遷された。

 徳川慶喜による大政奉還後の明治元年(1868年)1月14日、鳥羽・伏見の戦いでは、毛利広封に随行する形で用所本役軍務専任となったふ。
 そして、明治新政府の軍防事務局判事加勢として朝臣となり、大村益次郎は各藩から差し出された兵を御所警備の御親兵として訓練し、近代国軍の基礎づくりを開始した。
 3月26日には天保山での海軍閲兵を行い、4月6日には大阪城内での陸軍調練観閲式を指揮した。

 その後、勝海舟西郷隆盛によって江戸城開城となったが、旧幕府軍の残党が以前反抗する姿勢を見せたため、有栖川宮東征大総督府補佐として江戸下向を命じられる。
 そして、海路で江戸に到着すると、軍務官判事、江戸府判事を兼任した。

 天野八郎ら旧幕府残党の彰義隊約3000名が上野寛永寺に籠ると、大村益次郎が討伐軍を指揮する事となり、上野戦争を勝利に導いた。
 また、東北方面で抵抗を続ける旧幕府軍へ対抗するための、軍費調達や新政府軍の再組織などを担当し、江戸から事実上の新政府軍総司令官として指揮を取り作戦指導した。

 大村益次郎は軍事的天才で、上野戦争では、戦いの全てが事前の予想どおりに進み、敵が退却する時間まで的中。
 長岡藩、庄内藩、会津藩などの戦いでも、敵が降伏する時期まで予想通りで、銃砲弾の使用数や前線での諸経費もほぼ予想通りだったと言う。
 そして、戊辰戦争の最中から、後の反乱(西南戦争)ので予想していたと言い、まさに軍神とも言うべき天才であった。


 ※上記写真は、靖国神社境内にある大村益次郎の銅像。

 明治2年(1869年)、函館五稜郭榎本武揚らの最後の旧幕残党軍も降伏し戊辰戦争は終結。名実ともに新しい明治時代が訪れた。
 6月2日、戊辰戦争での功績により永世禄1500石を賜り、木戸孝允(桂小五郎)、大久保利通と並び、新政府の幹部に就任。軍制改革の中心人物として、藩に依存しない政府軍創設を目指した。

 しかし、武士であった者には、士族の特権が廃止され農民や町民と一緒の身分となる事に反対する者も当然多く、急激な改革は強い反感を持たれた。

 大阪方面に軍事施設建設の下見に出張する際、木戸孝允も心配し、用心して東海道を通らずに、甲州経由の木曽路を通って京都・大阪へと向かった。

 そして京・三条木屋町の長州藩控屋敷に滞在しながら、各地を巡ったが、9月4日、京都三条木屋町上ルの旅館にて、長州藩大隊指令・静間彦太郎、伏見兵学寮教師。安達幸之助らと会食した。
 その時、18時頃、元長州藩士・団伸二郎、神代直人ら8人の刺客に襲われる。
 旅館から加茂川に飛び降りた静間彦太郎と安達幸之助は河原で待機していた賊の仲間によって斬殺され死亡。
 大村益次郎は重傷を負ったが、とっさに浴室の風呂の中に隠れて、追撃を免れた。
 前額、左こめかみ、腕、右指、右ひじ、そして右膝関節に刀傷を負い、右膝は動脈から骨に達するほど深手であったと言う。

 大村益次郎は河原町の長州藩邸に担ぎ込まれ一命を取りとめたが、、傷口から菌が入り敗血症となった。
 9月20日に、ボードウィン医師、緒方惟準らの治療を受け、大阪の病院(後の国立大阪病院)に転院。
 寺内正毅や児玉源太郎らによって担架で鈴木町大阪仮病院に運ばれると、楠本イネやその娘・阿高らの看護を受けた。
 しかし、病状は好転せず、ボードウィン医師による左大腿部切断手術を10月27日に受けることとなる。
 だが手術の勅許を得る調整に手間取り、既に手遅れであったようで、11月1日に敗血症による高熱を発して容態が悪化し11月4日に危篤となると、11月5日の夜19時に死去した。享年46。

 遺骸は船で郷里に運ばれ、自宅近くの山口市鋳銭司に埋葬された。

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