幕末の女剣士「中沢琴」~男装して新政府軍と戦った生涯と兄の中沢貞祇も


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幕末の女剣士「中澤琴」は現在の群馬県利根郡で1839年頃に生まれました。
父は中澤孫右衛門で、2~3歳年上の兄・中沢貞祇(中沢良之助)がいます。

父が剣術道場を営んでいたようで、中沢琴は幼い頃から剣術を学び、やがて長刀(なぎなた)では父にも負けないくらい強くなったと言われています。
剣法は天狗剣法とも呼ばれる法神流のようで、鎖鎌の達人ともあります。

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文久3年(1863年)2月、京都に上洛する将軍・徳川家茂を警護すると言う名目で、庄内藩出身の清川八郎が、江戸にて「浪士隊」を募集します。
この時、近藤勇土方歳三、芹沢鴨らも浪士組に参加して京に上りましたが、中澤琴の兄である中沢貞祇(中沢良之助)も浪士組に参加しました。

このとき、中澤琴も浪士組に加わって京に行ったとされていますが、浪士組の名簿にはその名の記述はありません。
そのため、非公式で同行を許されたか、男装して追従または追って向かったとも考えられています。
中沢琴の身長は約170cmで、例え男だとしても当時としては背が高い方となりますが、男装すると娘らにイケメンと思われたようで、困ったと言う話もあります。

その後、京都にて近藤勇が新選組の前身である「壬生浪士組」を募集しますが、この時、中沢琴も応募したと言われています。
ただし、実際の所は、尊王攘夷の先鋒を唱えた清川八郎が江戸に戻った際に、兄と共に帰ったようです。

その後、清川八郎が暗殺されると、浪士隊に加わっていた多くは、徳川幕府が再結成した警備組織となる新徴組(しんちょうぐみ)に参加しています。
新徴組の取締責任者は高橋泥舟と山岡鉄太郎ですが、兄・中沢貞祇(中沢良之助)も新徴組に加わりましたが、どうも、中澤琴は男装して新徴組に加わったようです。

男の姿で江戸での見回りもしましたが、容姿端麗でもあったことから、男性隊士からも見初められたと言います。
しかし、新徴組での給金は少なかったようで、なかには江戸の商家に押し入って金品を強奪する者もいたため、新徴組は1864年に、庄内藩主・酒井忠篤の預かりとなります。
このとき新徴組の隊士は169名だったとされますが、慶応4年(1868年)12月25日、品川で江戸薩摩藩邸の焼討事件を引き起こしました。
新徴組は日向佐土原藩邸を襲撃したとも言われています。

この新徴組の焼打ちがキッカケとなり戊辰戦争へと進みますが、中澤琴も焼き討ちに参加していたようで、左足のかかとを斬られたと文献に残っています。

鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れたとの報を受けると、新徴組は庄内藩の藩士と共に庄内に入り、新政府軍相手に庄内戦争で戦いました。
この時、中澤琴も庄内にいて官軍十数人に囲まれたても、2~3人を斬って敵中突破したとあります。

薩摩藩の西郷隆盛の意向により庄内藩の処分は軽く、その後、明治7年(1875年)に、兄の中沢貞祇(中沢良之助)と中沢琴は故郷の利根に戻りました。

30過ぎと推定される中澤琴は男装を辞め、多くの求婚もあったと言いますが、自分より強い者と結婚したいと考えたようで、剣術試合したと言います。
しかし、中澤琴に勝った男性はおらず、中澤琴は生涯独身を貫いたようです。

88歳前後で亡くなるまで一人で暮し、お酒を飲んでは剣舞をしたと伝わります。
昭和2年10月12日死去。

NHK-BS3のスーパープレミアム「花嵐の剣士」~幕末を生きた女剣士・中澤琴~では、中澤琴を黒木メイサさん、兄・貞祇を筒井道隆さん、坂本龍馬を加藤雅也さん、儚を青山倫子さん、相馬要蔵を袴田吉彦さんが演じられます。
ロケ地は千葉県香取市の観福寺、会津若町市の会津武家屋敷などです。

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