中岡慎太郎とは 土佐藩から脱藩浪人となり近江屋事件で龍馬と・・


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中岡慎太郎(なかおかしんたろうは、天保9年(1838年)4月13日~慶応3年(1867年)11月17日の幕末尊王攘夷派の志士で、陸援隊隊長。

高知城下から西へ約60km離れた土佐国安芸郡北川郷柏木村(現・高知県安芸郡北川村柏木)の大庄屋・中岡家の長男として生誕した。

大庄屋とは地方において中小の庄屋を束ねる有力な庄屋で、中岡家は名字帯刀を許された郷士身分であった。
しかし土佐藩では、一領具足からくる士族における身分制度において、郷士は下士階級に属し藩主山内家に連なる上士からは蔑まれる存在であったと言う。

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安政元年(1854年)、中岡慎太郎が16歳のとき、安芸郡奉行所に前年併設された土佐藩の藩校・田野学館に入学。郡内の秀才たちとの交流を得て勉学に励んだ。

安政2年(1855年)、17歳。
武市瑞山(武市半平太)が藩命により、剣術指南役として田野学館に派遣され指導に当たった。武市は小野派一刀流の免許皆伝を得ており、清廉潔白な人柄とも合わせ、藩内の下級武士階層からの人望が厚い人物であった。
安政3年(1856年)、18歳。
武市が高知城下に戻ると、慎太郎も後を追うように高知城下にある武市の道場に入門。
同年、武市瑞山は藩の臨時御用として江戸での剣術修行を命じられ、江戸の桃井春蔵(士学館・鏡新明知流)に入門。中岡慎太郎も帯同して武市と同じく桃井道場で剣術の修業に励んだ。

安政4年(1857年)、慎太郎20歳。
江戸で剣術の修行中であったが父が病に倒れたため、帰郷し大庄屋である父親の補佐として大庄屋見習いとなる。
このころ北川郷では地震、台風、伝染病の流行により村民の生活は困窮しており、慎太郎は中岡家の山林や田畑を担保にして、近隣の豪農から米麦を借り入れ村民に配給した。
また土佐藩に対して農民の窮状を訴え援助を陳情し、800両の借り入れを得たという記録も残っている。
同時に農作地の開墾による生産量の増大を図り、高知城下から取り寄せた優良品種の作物種子を無償で村民に分け与え、耕作指導、貯蓄奨励、共同倉庫建設を推進した。
調味料として塩の代用となるゆずの栽培などを普及させている。
こういった青年期の村政への関わりが、民百姓市井の無辜なる人々への思いを強くさせていく。
中岡慎太郎自身は当時の身分制度の中では、比較的恵まれた階層に属したが、庶民の困窮した生活を見るにつけ、徳川家世襲将軍をトップにいただく政治制度、社会制度の疲弊と矛盾を痛感することになる。

なお、この1857年に、野友村の庄屋・利岡彦次郎の長女・兼(かね)15歳と結婚。

文久元年(1861年)慎太郎24歳。
武市瑞山(武市半平太)は他藩の尊攘派勢力や京都の公家衆と活発に交流しながら、尊皇攘夷の実現を目指すべく、同年8月遂に江戸の土佐藩中屋敷にて秘密裏に土佐勤王党を結成した。
9月に土佐へ帰国した武市は同志を募り、坂本龍馬を筆頭加盟者として中岡慎太郎、岡田以蔵ら192名が土佐勤王党に加わる。

文久2年(1862年)25歳。
慎太郎は長州藩の久坂玄瑞・山県半蔵らとともに、信州松代藩に佐久間象山を訪ね、国防・政治改革について議論するなど藩外においても志士活動を展開した。
その間に土佐勤王党は急進的性格を露わにし、藩内、洛中において反対派要人を天誅と称して暗殺するようになる。

文久3年(1863年)慎太郎26歳。
京都で長州藩をはじめ尊攘派公家衆らが洛外へ追放された「八月十八日の政変」後に、土佐藩内でも尊王攘夷派に対する大弾圧が始まり、土佐勤王党は武市瑞山を始めとして多くの者が捕縛され次々と切腹、処刑、獄死した。
危険を察した中岡慎太郎は土佐藩から脱藩し、同年9月、長州藩に身を寄せたが、各藩から脱藩してきた志士たちの世話役として苦心し、長州藩士にも認められる存在となっていく。

武市瑞山(武市半平太)が捕縛されたのちは、武市の正統後継と目されるようになり「八月十八日の政変」で周防国三田尻に都落ちしていた「五卿」と呼ばれた三条実美を始めとする、尊攘派の公家衆の随臣(衛士)となる。
このことがきっかけとなり、薩摩藩の西郷隆盛大久保利通との知己を得るなど、各藩の尊攘派志士たちとの重要な連絡役として緻密な人脈を構築していった。

元治元年(1864年)、慎太郎27歳。
脱藩後は三条実美の使者として、長州と京を複数回往来。
その間「八月十八日の政変」以降敵対している薩摩藩主・島津久光の暗殺を、高杉晋作らとともに画策するが未遂に終わる。
また脱藩志士たちを率いて禁門の変、下関戦争を長州側に加わったが、負傷している。

佐幕派による長州征伐などにおいて、長州尊攘派の敗北という現実を突きつけられた中岡慎太郎は、単純な尊攘主義の限界を知る。
そして武力倒幕による政治体制の一新に向け、雄藩連合の締結を目標とするようになった。
犬猿の仲である薩長の和解と同盟の必要性を理解する坂本龍馬や三条実美と連携し、その実現のために尽力する。

その後、薩摩・長州両藩の有力者である西郷隆盛、桂小五郎の信頼を得ていた中岡慎太郎と坂本龍馬が仲介し、薩長会談が現実味を帯びてきた。
予定された下関に於ける第一回会談は不発に終わったが、両名が調整に奔走することによって遂に慶応2年(1866年)1月21日、京都二本松薩摩藩邸において薩長同盟が締結すると言う功績を残した。

慶応3年(1867年)2月、慎太郎30歳。
坂本龍馬とともに土佐藩から脱藩罪を赦免され帰国。
そして、両名は薩長同盟に引き続き、薩摩藩・土佐藩同盟についても尽力した。
まず、5月21日土佐の乾退助(板垣退助)と薩摩の小松清廉(小松帯刀)・西郷吉之助とを引き合わせて、薩土密約の締結を実現。
更に6月22日、土佐藩の中枢人物である寺村道成・後藤象二郎・福岡藤次らと、薩摩藩の要人である小松帯刀・大久保一蔵(大久保利通)・西郷吉之助との会談に於いて薩土盟約を締結せしめた。
6月27日には、脱藩時代に長州藩内で見聞した、高杉晋作の奇兵隊を参考に陸援隊を組織。
薩摩藩から洋式軍学者である鈴木武五郎を招き、十津川郷士らと共に洋式練兵を実施している。

11月15日、京都四条の近江屋に滞在中の坂本龍馬を訪問して「三条制札事件」について話し合っていた所、十津川郷士を名乗って侵入した複数の賊に襲撃された(近江屋事件)。
坂本龍馬は翌日未明に絶命したが、中岡慎太郎は2日間生き延び、暗殺犯の襲撃時の詳細を語っている。
そして、1867年11月17日に死去。享年30歳。

12月7日、海援隊士の陸奥陽之助(陸奥宗光)は「いろは丸沈没事故」で多額の賠償金を支払わされた紀州藩による犯行であると考え、海援隊士・陸援隊士ら総勢15名が紀州藩士・三浦休太郎を襲撃し、警護に当たっていた新選組と戦闘した(天満屋事件)。
暗殺者については諸説あるが、現在の歴史学上では江戸幕府京都見廻組の佐々木只三郎らを実行犯とする説が有力となっている。

中岡慎太郎の実姉の夫である川島総次の末裔、川島省吾はお笑いタレント・作詞家・俳優・作家・映画監督の劇団ひとりである。

皆様による中岡慎太郎の評価などもページ下部にあるコメント欄にて賜りますと幸いに存じます。

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