美代・お美代(専行院)~幕末を生き抜いた大奥史上最強の側室




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美代・お美代の方は1797年に生まれた女性で初名はお伊根。
実父は下総国中山の中山法華教寺内にある智泉院の住職で、祈祷僧の日啓とされている。

お美代(おみよ)は駿河台に屋敷を構えていた中野清茂(中野播磨守清茂)へ奉公に上がる。

中野清茂は旗本であったが将軍・徳川家斉の側近中の側近であった。
平和な世に武士が出世するには将軍の愛妾を出す事と分かっていたようで、日啓の娘・お美代の美貌に目をつけ、屋敷にて奉公させて教育を行うと、養女にしたお美代を大奥へ奉公させた。
なお、実父・日啓は江戸でも評判の祈祷僧で、も加持祈祷を好む大奥や、将軍側近の中野清茂(中野播磨守清茂)との関係も、前からあったようであるが、幕府への届け出では、お美代の実父は内藤造酒允就相となっている。

そんな2人の娘として大奥に上がったお美代を、徳川家斉も疎かにはできなかったようで身籠ると側室となり、1813年3月27日に溶姫が生まれた。
ちなみに、将軍・徳川家斉にとって溶姫は21娘であり、側室は約40名、産ませた子女は55人と言う、日本史上類を見ない妻子の数は記録的だ。

徳川家斉の寵愛深いお美代の方は更に、1815年10月16日に仲姫(夭折)、1817年9月18日に末姫を産み、のち溶姫は加賀藩主・前田斉泰、末姫は広島藩主・浅野斉粛の正室となっている。


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1836年、お美代の方は徳川家斉にねだり、感応寺を建立して将軍家の祈祷所にすると、実父・日啓を住職に迎えさせた。

また、大奥での権勢を更に高めたい美代は、前田斉泰に嫁いだ溶姫が産んだ前田慶寧を、いずれ将軍継嗣にして欲しいと徳川家斉にねだり、徳川家斉の遺言書を偽造したとまで言われている。
中野清茂(中野播磨守清茂)も御小納戸頭取、新番頭格と出世し9000石までなり、諸大名や幕臣・商人から莫大な賄賂が集まり、中野清茂の周旋を受ければ、願いは半ば叶ったも同然とまで言われるほど、影響力を持った。

1841年に徳川家斉が死去するとお美代の方は落飾し「専行院」と号して二の丸に移った。

12代将軍・徳川家慶が政治を行うようになると、老中首座・水野忠邦は「天保の改革」を開始。
手始めに寺社奉行・阿部正弘が感応寺と智泉院の不正取締を行い、住職・日啓は捕縛されて遠島処分となるも、刑執行前に獄死した。
このとき専行院は、西の丸大奥筆頭女中の花園とともに押込となった。
養父・中野清茂も連座して登城禁止、加増地没収、別邸取り壊しとなり、向島に逼塞されると翌年に死去した。

この結果、溶姫の長男・前田慶寧を将軍継嗣にする企みも、広大院(徳川家斉の正室)や水野忠邦、将軍・徳川家慶らによって阻止され、のち専行院は溶姫を頼って本郷の加賀前田家屋敷に引き取られたとされる。
ただし、1862年頃はまだ江戸城・二の丸にいたと言う話もあり、晩年に移ったようだ。



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なお、専行院は幕末の動乱も見た後である明治5年(1872年)6月11日に、東京都文京区の講安寺にて死去した。享年76歳。

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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