真木和泉(真木保臣、真木和泉守)~久留米藩の尊王攘夷指導者


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 真木和泉の名前は真木保臣(まきやすおみ)だが、神官として20歳のとき、従五位下・和泉守の官位を与えられたので、真木和泉守保臣として称されることもある。

 筑後国久留米の水天宮の神職の家に、1813年3月7日、生まれた。
 父は真木旋臣、母は中村柳子。

 父の没後、11歳にて水天宮の神職を継ぐと国学を宮崎信敦(三島神社神職・宮崎阿波守信敦)に、漢学を崎門学統の宮原国綸に学び、久留米藩校・明善堂考課においても「格別出精上達」とされた。
 また、思想に関しては神道観の上に立つ朝廷崇敬と、会沢伯民の水戸学を根底としており、国典・漢籍にも通じ、また武芸にも優れて詩歌音楽まで学び、特に和歌にすぐれたと言う。
 楠木正成の崇拝者としても知られて「今楠公」とも呼ばれた。

 19歳の時に妻・睦子を迎えると、二男一女をもうけている。

 1844年、初めて江戸に赴くと、水戸にも向かい「正論」の会沢正志斎の影響を強く受ける。
 そして、水戸学の継承者として位置づけられ「天保学」と呼ばれる尊王攘夷派の学派を村上守太郎、木村三郎らと創設し、積極的に藩政改革などを行った。
 しかし、勤王派の中心として久留米藩の藩政改革を建白した罪を保守派から問われて蟄居を命じられると、弟・大鳥居理兵衛の養子先である水田天満宮の傍らにある山梔窩に籠った。
 独居自炊生活をはじめたが下級武士、医師、神職、村役人などが教えを乞いにもやってきたと言う。

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 謹慎6年の間に『大夢記』『義挙和文』などを著作すると全国討幕運動の理論的指導者と目されたため、幽閉先の山梔窩(さんしか)には、筑前福岡藩士の平野国臣清河八郎、田中河内介、などが訪ねて会合をしている。

 このように吉田松陰が亡くなった後には、尊王攘夷派の先達のような形で指導に当たるようになり、清河八郎らに上洛を目指す薩摩藩へ行ってはどうかと勧められ、二男・真木菊四郎と、門人2名を伴って、山梔窩から脱出し鹿児島に向かった。

 薩摩藩の大久保利通(大久保一蔵)らとは、薩摩藩・最高権力者である島津久光を擁立して上で上洛をすることを計画。
 文久2年(1862年)に島津久光が上京した際には、別行動とはなったが京に入って尊王攘夷活動を展開した。

 しかし、寺田屋事件を受けると捕えられて7月に久留米に護送された。
 翌年1863年に一度許されたが藩論が転換し、4月13日に同志28名ともども再び捕えられて、3度目の幽閉となり、処刑される見通しとなった。
 その事を聞きつけた、長州藩により京都に通報されると内勅も下って5月17日解放され、同志28人は命ぜられて朝廷親衛兵として京に上った。

 その途中に長州藩に寄ると長州藩主や同志らと時局を論じ、6月に京に入ると学習院徴士となった。

 約200名の久留米藩士が上京活動したが、その指導者は真木和泉であり、天皇の大和行幸などを画策。
 会津藩と薩摩藩が結託して長州藩を追放した八月十八日の政変が起こると、七卿と共に長州へ逃れて行った。

 その後、真木和泉の進言もあって、長州藩は福原越後国司信濃らが長州藩兵を率いて京に上り、1864年7月21日には長州藩の来島又兵衛久坂玄瑞ら同志と共に禁門の変(蛤御門の変)にて、各藩浪士で組織した清側義軍300名を指揮。

 破れて敗走するも、天王山に17名で立て籠もり、会津藩と新撰組の追撃を受け爆死自害した。享年52。

 辞世の句は、大山の峯の岩根に埋めにけりわがとしつきの大和魂

 彼らの遺体は宝寺塔前に埋められたが、いつしか「残念さん」と呼ばれて墓を参詣する者が増えたため、徳川幕府は登山を禁じて、屍を宝寺山下の竹林に転埋した。
 明治維新となると、明治元年9月、真木保臣の嗣子・真木佐忠が久留米藩主の命により、17士の遺骨を竹林中から収集して割腹の地に改葬したため、京都府乙訓郡大山崎町に十七烈士の墓が建立された。
 また、久留米の水天宮内に真木神社が建立されて祀られている。

 (参考) 真木和泉守保臣

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