板垣退助 われ死すとも、自由は死せず 自由民権運動に注いだ偉人


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 板垣退助は土佐藩の上士・乾正成(馬廻300石)の嫡男として、1837年4月17日に生まれた。
 母は山内勝長の妹。

 乾家は、武田信玄の重臣・板垣信方を先祖に持つ家柄だとされる。
 なんでも、乾家の初代・乾正信は、板垣信方の嫡男・板垣信憲の遺児で、浪人していた際、豊臣秀吉の小田原攻めの際、陣借りして活躍したことから、山内一豊に召し抱えられたのだ。

 若い頃から、後藤象二郎とは親友で、下士に対しは寛大だったと言う。
 また武市半兵太の命で自分を斬りに来た中岡慎太郎とは倒幕で意見が一致し意気投合したが、坂本龍馬とは会った事がない。

 藩士としては20歳の時に喧嘩が原因で、4年間謹慎したが、吉田東洋の推薦もあり、土佐藩主・山内容堂の御用人を務めるなど、藩の要職を歴任。

 土佐藩の上士としては珍しく、武力倒幕を主張していたため、中岡慎太郎の仲介で薩摩藩の小松帯刀西郷隆盛大久保利通らを紹介され、谷干城・毛利恭助らと協議の上、薩土密約を結んだ。
 その後、戊辰戦争では土佐藩兵を率い東山道先鋒総督府参謀として甲斐・北関東・会津と転戦し新政府軍の勝利に貢献した。
 この甲斐への進軍前に、岩倉具視から板垣姓に復する事を勧められ、板垣退助と改名した。そして、勝沼では新選組近藤勇などを撃退したのだ。

 なお、会津藩を攻めた際、徹底抗戦する会津藩士がいた一方で、領民は会津の興亡に無関心であった。
 なぜなら、重税に苦しんでいたからだ。降伏した松平容保が東京に送致させる際にも、領民たちは何の関心も示さず、見送りにほとんど現れなかったと言う。
 そのため、領民の協力がなかった会津を落とせたと感じ、板垣退助は豊かで強い国家を作るには「国民全てが平等であり、団結する必要がある」感じたと言い、これが自由民権運動を志す起点となった。

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 明治2年、木戸孝允、西郷隆盛、大隈重信と共に参与に就任。
 明治4年には新政府の参議に就任。

 明治6年、征韓論をめぐっては大久保利通らと対立し、西郷隆盛らとともに辞職して下野し、帰郷してからは立志社を創設し、自由民権運動を指導している。
 明治7年、後藤象二郎らと民選議院設立建白書を提出。

 明治14年、自由党を結成して総理(党首)となったが、明治15年には暴漢に襲われて負傷。
 この時「われ死すとも、自由は死せず」との名言を残している。
 明治17年、加波山事件が起き、自由民権運動が過激になり過ぎた事から自由党を一度解散。

 明治20年(1887年)5月、伯爵

 明治24年、再結成された自由党の総理(党首)。
 明治29年、議会で孤立していた第2次伊藤内閣に協力すると内務大臣として入閣。
 明治31年、対立していた大隈重信と憲政党を結成すると、日本初の政党内閣である第1次大隈内閣の内務大臣に就任。
 明治33年、自由党を伊藤博文にゆずって政界を引退し、以後は社会改良運動につくした。

 大正8年7月16日死去。83歳。

 後藤象二郎と共に、日本人初のルイ・ヴィトンのトランク所持者としても知られる。

征韓論とは西郷隆盛VS大久保利通・岩倉具視の戦い

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