一柳満喜子とヴォーリズ【メンターム近江兄弟社】




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一柳満喜子(ひとつやなぎ-まきこ)は、1884年(明治17年)3月18日に、元播磨小野藩主(11代)一柳末徳(ひとつやなぎ-すえのり)の3娘として東京にて生まれた。
母は正室の栄子(一柳頼紹の娘)だが、幼い頃に亡くなっている。
この父・一柳末徳は、一柳満喜子が生まれた明治17年の華族令で子爵となり、その後、帝国博物館員を務めたあと、4期連続で貴族院議員になっている。
一柳満喜子は1908年に神戸女学院音楽部ピアノ専攻科を卒業したあと、日本女子大学校で助手をしていたが、1909年に単身でアメリカへ外遊した。
途中のハワイで、オハウ大学長・グリフィスから、東洋女性のために奨学金制度を持っていたペンシルベニア州の名門校、ブリンマー大学への入学を勧められた。
このブリン・マー大学は、日本で最初の女子留学生である津田梅子が卒業した大学でもある。



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このようにアメリカで学ぶと、アリス・ベーコンの教育実践活動にも参加し、留学中の1910年にブリン・マー長老教会にてキリスト教の洗礼を受けている。
亡くなっていた母・栄子も、矢嶋楫子の影響も受け、日本で最初に洗礼を受けた4名の華族婦人の1人でもあり、父・一柳末徳も慶応義塾で学んだ際に、ジェームス・カーティス・ヘボンや、フルベッキなどから西洋事情を学び、キリスト教にも関心があったと言う。

父の病気を理由に1917年に日本に戻ると、次兄・広岡恵三(加島銀行、大同生命社長)の自宅の設計者として日本にいたYMCAの建築家であるウィリアム・メレル・ヴォーリズと運命的な出会いをする。
アメリカ人のヴォーリズはコロラド大学卒業後の1905年、24歳の時に滋賀県立商業学校(八幡商業高校)の英語教師としてYMCAから派遣されて来日し、1908年(明治41年)には京都YMCAで建築設計監督事務所を設立していた。

1918年(大正7年)のことであるが、広岡恵三は一柳満喜子の兄で、広岡家へ養子に入っていたのだ。
そのため、9年間アメリカにいた語学力を買われて、ヴォーリズとの「通訳」として携わ。
そして、聡明な一柳満喜子に魅かれたヴォーリズ(39歳)は結婚を申込み、広岡浅子の勧めもあり一柳満喜子(35歳)は婚姻を受け入れた。



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しかし、この2人の結婚には、当時の日本では大きな障害があった。
それは「身分の差」である。
子爵の家に生まれ、華族の家系である一柳満喜子が、平民戸主に嫁ぐのには宮内省の許可が必要であったのだ。
大きな問題となったが、なんとか許可が降り、1919年(大正8年)6月3日にヴォーリズが設計した明治学院の礼拝堂で、挙式を挙げている。

夫・ヴォーリズが主宰する近江ミッション(信徒の立場で熱心にプロテスタントを伝道する活動)を支える為、二人は近江八幡で生涯を過ごしているが、キリスト教に基づいた「メンターム」など皮膚薬の事業を展開しており、現在の近江兄弟社に至っている。

結婚後、一柳満喜子は保育・教育分野の発展に力を尽くした。
特に、仕事などで昼間忙しい親の代わりに、子供が安心して遊べる場である、未就学児童を対象とした、近江の幼児教育「プレイグラウンド」は、大正11年に「清友幼稚園」となり、今日の近江兄弟学園へと発展した。
のちにヘレン・ケラーも来校し講演している。

日本がアメリカとの戦争に突入する事態となり、外国人排斥の圧力が強まる中で、1941年(昭和16年)に、夫・ヴォーリズは日本国籍を取得し一柳米来留(ひとつやなぎ-めれる)と改名たが、戦時中は2人で軽井沢にて過ごしたと言う。
ただし、一柳満喜子は私立軽井沢幼稚園開設し、園長に就任するなど子供の為の教育を熱心に行った。

1945年、太平洋戦争が終戦となると、夫・ヴォーリズは日本に入った連合国軍総司令官のダグラス・マッカーサー元帥と近衛文麿とを仲介して尽力。
そのため「天皇を守ったアメリカ人」とも称されている。

1946年には、一柳満喜子が近江兄弟社学園の校長(園長)に就任。のちに教育功労者として日本国から藍綬褒章を受けたほか、勲四等瑞褒章を受章している。

またヴォーリズ夫妻と共に海外の宣教師とも交流し、太平洋戦争後に女流作家グレース・ニース・フレッチャーが、一柳満喜子を取材して出版した「Bridge of Love」はアメリカにて好評となった。
また昭和天皇の依頼を受けて、親王らの家庭教師として招かれた、エリザベス・ヴァイニング夫人とも交流がある。

1957年、夫・ヴォーリズが、くも膜下出血にて軽井沢で倒れ、近江八幡の自宅に帰り療養生活に入った。
1964年、近江八幡市慈恩寺町元11の自邸(ヴォーリズ記念館)2階の自室にて、夫・ヴォーリズが永眠。83歳。
没後、正五位に叙され、勲三等瑞宝章を受章。

その5年後の1969年(昭和44年)9月7日、一柳満喜子も死去した。享年85。
2人の遺骨は近江ミッションの納骨堂である恒春園(近江八幡市北之庄町)に収められている。



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夫婦の間に子供はなかったが、日本に残した多大な功績は計り知れない。

下記は近江八幡の近江兄弟社本社。

近江兄弟社本社

その本社ビルの向かいには、ヴォーリズ像が建立されている。

ヴォーリズ像(近江八幡)

下記は近江八幡にある、ヴォーリズ学園の建物。

ヴォーリズ学園

(参考・写真出典) 近江兄弟社、ヴォーリズ記念館

広岡浅子に関してはこちら
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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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