江藤新平 法律面で明治新政府の近代革命に貢献した志士


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 江藤新平は佐賀藩下級藩士・江藤胤光と妻・浅子の長男として、1834年に佐賀郡八戸村で生まれた。

 1848年に佐賀藩の藩校・弘道館に入学すると成績優秀であったが、父が職務怠慢として永蟄居処分となったため生活は困窮。
 藩校での進学も許されなくなり、副島種臣の兄で、尊王攘夷論者であった枝吉神陽の私塾で学んだ。

 1850年に枝吉神陽が義祭同盟を結成すると、大隈重信・副島種臣・大木喬任・島義勇らとともに参加。

 その後、ペリー提督黒船来航など、激動の時代を的確に見据えた江藤新平は、開国通商による富国強兵を主張。
 23歳の時には「図海策」と言う意見書を執筆している。

 1857年に結婚した後は、佐賀藩の砲術や貿易担当の仕事をした。

 1862年、28歳の時に脱藩すると京都で長州藩の桂小五郎伊藤博文や公家・姉小路公知らと交流。
 2ヶ月で帰国したが、脱藩の罪を問われて永蟄居処分となったが、寺小屋で教えるなどした他、鍋島直正らとも交流したと言う。

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 将軍・徳川慶喜が大政奉還すると赦免されて、郡目付にて復帰。
 薩摩藩と長州藩は公家の岩倉具視と結び、1868年12月9日、王政復古の大号令を行い、新政府が誕生したあとには、佐賀藩の代表として江藤新平は副島種臣とともに京都に派遣された。

 戊辰戦争では東征大総督府軍監に任命されて、西郷隆盛勝海舟の会談で江戸城が無血開城すると江戸鎮台判事として江戸開城直後の民生から治安維持など施政を担当した。
 その後、一旦佐賀藩に戻り藩政改革を行ったが、明治政府に呼び出され、会計官判事、東京府判事、佐賀藩権大参事、制度局、御用掛文部大輔、左院副議長を歴任。

 明治5年には現行の法務大臣・最高裁長官・国家公安委員長に相当する初代・司法卿、そして参議も務め、特に四民平等・警察制度整備などにて貢献した。

 明治6年の征韓論問題では岩倉具視・大久保利通らと対立し、西郷隆盛、板垣退助後藤象二郎、副島種臣らと共に下野。

 明治7年に江藤新平・島義勇らがリーダーとなって佐賀の乱が起こすと、大久保利通は政府軍を派遣したため江藤新平らは敗走。

 鹿児島の西郷隆盛に助力を求めるため、戦線を離脱して赴いたが、交渉は失敗に終わり、土佐へ向かったところを捕縛された。 

 江藤新平は東京での裁判を望んだが、大久保利通は急遽設置した臨時裁判所にて僅か2日間の審議を行わせ、明治7年(1874年)4月13日の判決当日に斬首となり、江藤新平と島義勇は梟首にされた。41歳。
 その他11名が死罪。136人が懲役、240人が除族、7人が禁固の処分を受け、10713人は無罪とされた。

征韓論とは西郷隆盛VS大久保利通・岩倉具視の戦い

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