土倉庄三郎 日本を吉野から動かした山林王・造林王


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 土倉庄三郎(どくら-しょうざぶろう)は、大和の吉野郡大滝村(奈良県吉野郡川上村大滝)で、山林地主で林業を営む土倉庄右衛門の子として、1840年4月10日に生まれた。
 母の名は京で、幼名は、丞之助。

 1856年、16歳で父の家業を引き継ぎ、名を土倉庄三郎と称すると「土倉式造林法」という独自の造林法で、優れた木材を多く生産した。
 大滝郷の総代となると、明治2年には吉野材の木方総代も務めている。

 1866年、26歳の時、和田寿子と結婚。

 1868年(明治元年)、紀州藩が吉野川(紀の川)にて、流下木材の口銭の徴収を開始すると、反対運動を起こし、新政府の民部省に請願し廃止に追い込んでいる。

 明治5年(1872年)には、水陸海路御用掛をとなり、吉野川水路の改修工事に尽力した。

 明治6年(1873年)から、東熊野街道の道路工事を計画し、明治12年(1879年)に着工し、明治20年(1887年)に完成され、現在の国道169号の奈良県南部の区間となっている。

 林業家としては吉野郡内で九千町歩の山林経営を行い、伝来の山林培法によって造林に貢献。
 明治20年(1887年)から明治30年(1897年)には、静岡県天竜川流域、群馬県伊香保、兵庫県但馬地方、滋賀県西浅井町、台湾でも造林事業に携わった。
 また奈良公園の森林改良にも加わっている。

 これ以外にも、も吉野川沿いの道路改修や鉄道計画にも参加し、明治32年(1899年)には吉野鉄道株式会社の設立にも携わる。

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 1877年(明治10年)頃からは、自由民権家らと交流すると、板垣退助とも親交があり、ヨーロッパ視察の旅行費用を工面している。
 また、伊藤博文井上馨山県有朋後藤象二郎品川弥二郎・古沢滋らとも交流が見られる。
 明治17年、陸奥宗光と自由亭にて会談した際には、大阪府警から事情聴取も受けた。

 このような功績から還暦には山縣有朋から「樹喜王」の祝号を贈られた。
 明治2年に私費にて奈良県初の小学校を川上村に開校した他、日本赤十字社への寄付や、新島襄の同志社大学や、成瀬仁蔵の日本女子大学の創設に際しても、多額の設立基金を寄付するなどした。

 明治33年、60歳のときには、川上村村長就任となり、晩年も吉野大滝で過ごすと、大正6年(1917年)7月19日に78歳で死去した。

あさが来た・広岡浅子の生涯はこちら
成瀬仁蔵の偉業に関してはこちら

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