徳川慶篤  天狗党を活かせなかった水戸藩主


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 徳川 慶篤は、水戸藩主・徳川斉昭の嫡男として、1832年5月3日に水戸藩上屋敷にて生まれる。幼名は鶴千代麿。
 母は登美宮吉子女王。

 父・徳川斉昭は尊王攘夷派で、積極的に水戸藩の藩政改革や、軍事力の近代化を図り、徳川将軍の後継には子である一橋慶喜を擁して一橋派の中心となり井伊直弼と争った。
 しかし、1844年、老中・阿部正弘によって、強制的に隠居させられると、長男である徳川慶篤が水戸藩の家督を継いだ。

 ただ、徳川慶篤は当時、12歳であった為、高松藩・守山藩・常陸府中藩が後見人となり、政務には保守派の重臣が当たった。

 1849年に、父・徳川斉昭の謹慎が解け、3藩による後見も解除されると、藩主は徳川慶篤のまま、父・徳川斉昭の藩政を行った。

 そして、1852年12月14日、徳川慶篤は将軍・徳川家慶の養女である線姫 (有栖川宮幟仁親王の長女・幟子女王) と結婚。
 これも、幕府と朝廷の公武合体政策の一環だと考えられる。
 しかし、正室・線姫は、1854年閏7月に長女・随姫(随子)を出産するも、1856年に22歳で死去した。当時、自殺との風説があったと言う。

 継室は広幡経子(鋭姫)・恵懿夫人(広幡基豊娘)で、他にも側室として水谷清子、土御門修子がいる。 

 1859年、井伊直弼の安政の大獄で父・徳川斉昭が蟄居・謹慎となると、大老・井伊直弼から尾張藩主・徳川慶恕と共に不時登城した責任を問われ、徳川慶篤も登城停止処分となった。

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 1860年8月15日、蟄居処分が解けぬまま父・徳川斉昭が死去すると、水戸藩主として活躍するようになり、1862年の坂下門外の変では、武田耕雲斎らを登用して尊皇攘夷派の懐柔を図った。
 1863年、将軍徳川家茂に従って上洛すると関東守備の朝命を受けた他、生麦事件の賠償問題などにも尽力している。

 1864年、筑波天狗党の乱では、当初は天狗党を支持。
 しかし、徳川幕府が天狗党の討伐を決定すると、市川三左衛門ら保守派の甘言を受けて、武田耕雲斎らを罷免して支藩の宍戸藩主・松平頼徳を将とする討伐軍を派遣するなどした為、水戸の藩政が混乱した。

 この天狗党の乱により、以後3年間は保守門閥派・諸生党が水戸藩の実権を握る事となり、天狗党に加わった藩士の家族が多数処刑されたり投獄されたりしたため、家臣の間で禍根を残した。

 1868年1月19日、在京の水戸藩士・本圀寺勢に託された「除奸反正」の勅書(諸生党らを討伐し、藩政を正常化せよという内容)を速やかに受諾すると、藩政を刷新するよう謹慎直前の弟・徳川慶喜から助言され、2月10日、徳川慶篤はその助言通り勅命を受諾し、尊攘派が江戸藩邸の実権を握った。
 これにより、水戸徳川家は朝敵とされることを免れている。

 この勅書の遂行のため、1868年3月に諸生党らを討伐するため水戸に入ったが、すでに市川三左衛門ら諸生党500名は水戸藩から脱出しており、戦闘はなく水戸城に入った。

 5月、天狗党の生き残りである武田金次郎らも水戸に入り、水戸城下では勅書の名のもとで激しい報復が行われる。
 その災禍は、諸生党の縁類だけでなく、中立派であった者や僧侶や豪農にも及んだと言う。

 その渦中の4月5日、徳川慶篤(とくがわ よしあつ)は水戸城にて死去。享年37。

 水戸入りの際、すでに体調は思わしくなかったとされる。
 墓所は、茨城県常陸太田市の瑞竜山墓地。

 幕末に尊王攘夷派の諸国の志士、例えば吉田松陰など、志ある多くの若者が、当時、先端を行っていた水戸藩の思想を学ぶため訪れたが、結果的に、天狗党の乱の際、優秀な人材などを処刑するに至り、明治新政府で活躍するような人材を輩出できなかったと言えよう。

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