梅田雲浜 小浜藩の儒学者で尊王攘夷派の思想的指導者


スポンサーリンク
スポンサーリンク

 梅田雲浜(うめだうんぴん)は、小浜藩士・矢部義比の次男として1815年6月7日に誕生した。
 通称は源次郎。号は雲浜、湖南。

 雲浜の号は、若狭国小浜海岸の由来で名づけたという。

 ちなみに、解体新書で有名な医師・杉田玄白(1733年~1817年)も、この小浜藩の藩医であった。

 梅田雲浜は、8歳にして小浜藩の藩校・順造館に入学し、15歳の時には京に赴き、望楠軒に入塾した。
 1830年には江戸に赴き、小浜藩の儒学者・山口菅山から山崎闇斎学を学んでいる。

 26歳で小浜に戻ると、祖父の先祖家系である梅田家を継ぎ、大津に湖南塾を開いて子弟を教育した。

 生活は極貧であったが、師の上原立斎が、娘・信子を娶らせたと言う。

スポンサーリンク


 1843年、上京すると山崎闇斎の提唱した崎門学の第一人者として望楠軒の講師に迎えられ、広く名を知られるようになった。

 1852年に藩主・酒井忠義に海防策を建言したところ、藩政批判ととられ、38歳のときに藩籍を剥奪されてしまった。
 
 その後は浪人となり、各地を遊説してまわり、尊王攘夷派の思想的指導者となっていく。

 1853年、アメリカ合衆国のマシュー・ペリー提督が来航すると、条約反対と外国人排斥による攘夷運動を訴え、ロシア艦襲撃を企てたと言う。
 そして、吉田松陰らと交流し、長州藩の重臣・坪井九右衛門の招きもあり長州藩の長州産物御用掛となり、塩・紙など特産品の輸出など交易業を営んだ。

 将軍継承問題が起こると、一橋派の尊皇攘夷を求める志士たちの先鋒となり、徳川幕府を激しく批判。
 雄藩である水戸藩に幕政改革を求める密勅(戊午の密勅)を降下させることに成功したが、これが大老・井伊直弼による安政の大獄のきっかけとなり、梅田雲浜は京都所司代であった酒井忠義に捕えられて、江戸に送られた。
 安政の大獄での2人目の逮捕者であった。

 江戸では豊前小倉藩の小笠原忠喜の獄舎預かりとなり、取調べでは、箒尻(ほうきじり)で何度も打たれるなど、激しい拷問を受けたと言う。
 しかし「攘夷の大義」だけと述べ、何一つ口を割らず、1859年9月14日に獄中で病死。享年45。
 8月中旬から体調を崩し、流行のコレラに罹ったというが、足のむくみが腰まで達した為、脚気を悪化した、拷問での傷の悪化、また毒殺とする死因説もある。

月照とは~尊皇攘夷派の僧侶である月照はなぜ錦江湾で入水自殺したのか?

スポンサーリンク


関連記事



コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

 スポンサーリンク

メールでお知らせ

メールアドレスを記入して購読すれば、新規記事追加をメールで受信できます。

ページ上部へ戻る