田中愿蔵 天狗党・筑波山の麓にある普門寺から出陣


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水戸天狗党の乱は、筑波山挙兵に始まった。

藤田小四郎(藤田東湖の四男)は、幕府に即時鎖港を要求するため、非常手段をとることを決意。
北関東各地を遊説して軍用金を集め、元治元年3月27日(1864年5月2日)、筑波山の中禅寺(中尊寺) (現在は廃寺、筑波山神社付近) にて62人の同志と共に挙兵した。
藤田小四郎は23歳と若かった為、水戸町奉行・田丸稲之衛門が主将を務めたと言う。

挙兵の報を聞いた藩主・徳川慶篤は、田丸稲之衛門の兄・山国兵部に説得を命じて派遣したが、山国兵部も諭されて一派に加わってしまった。

その後、各地から続々と浪士・農民らが集結し、数日後には150人となり、最盛期には約1400人という大集団へと膨れ上がったと言う。
この一団は筑波山で挙兵したことから筑波勢・波山勢などと称されたたが、水戸藩の反対派からは「天狗党」と呼ばれた。

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天狗党は4月10日に日光東照宮に参拝し 4月14日には大平山に移動。
そして、幕府追討軍を迎撃する為、筑波山に帰陣した。

田中愿蔵隊はこの筑波勢の一隊として本隊から離れて独自行動するようになり、神郡の普門寺に駐屯したのは6月中旬頃となる。
軍資金調達の為、豪農や商家に押し入り、強盗まがいのことをし、放火するなどしたため、天狗党の一味の中で、最も恐れられた。

天狗党に対し江戸幕府の追討軍が派遣されると、田中隊は普門寺から出陣して、那珂湊周辺で幕府軍と戦った。
助川城に入って籠城するも9月26日に陥落して敗走。

田中隊約200名は、水戸藩旗下の赤沢銅山へ食料の援助を要請したが拒否され、10月に八溝山に篭って再起を図った。
しかし、食料弾薬も尽き果て、隊の解散を決意したが、周辺には既に幕府軍に包囲されており、ほとんどの者が捕われて処刑された。

田中愿蔵は真名畑村に逃れたが、捕縛されると、10月16日に久慈川の河原で斬首された。享年21。
辞世の句は「みちのくの山路に骨は朽ちぬとも 猶も護らむ九重の里」。

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