住谷寅之介  水戸藩士・日本で最後の仇討


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 住谷寅之介(すみやとらのすけ)は、水戸藩士・住谷長太夫(100石)の長男として1818年に生まれた。名は信順。変名は小場源介、加藤於菟之介。
 母は坂場意時の娘。弟に住谷悌之介がいる。

 1838年、床机廻に抜擢されると、学問に熱心なのが評価されて、1842年には藩校・弘道館の舎長に任じらている。

 1844年、門閥派により弘道館教授頭・会沢正志斎が罷免されるとそれに抗議して舎長を辞任した為、謹慎を命じられた。

 1846年、藩主・徳川斉昭の雪冤運動に加わり処罰を受ける。

 1857年、格式馬廻組列・軍用掛見習。

 1858年10月、水戸藩が戊午の密勅を受けたことと、強圧的に幕府の実権を握る大老・井伊直弼に対する諸藩の奮起を促すため、遊説に出る事となり、住谷寅之介は大胡聿蔵・吉田健蔵・根本正之介と共に土佐藩・宇和島藩・薩摩藩へ向った。
 変名を使用していたことから、身元証明ができないので、土佐藩に入国する事ができず、11月17日、土佐の立川関に到着すると、奥宮猪惣次と坂本龍馬に連絡を取って土佐入国の協力を求める。
 奥宮猪惣次からは協力は難しいとの返事が来たが、11月23日、坂本龍馬は先に川久保為助・甲藤馬太郎らを使いに出したあと、立川の宿屋を訪れて会談。遊説の目的を述べると土佐入国の協力を要請した。
 この時、坂本龍馬は協力を約束したが、その後連絡が無かった為、宇和島へと赴く。
 住谷寅之介は、坂本龍馬の印象を「すこぶる愛すべき人物也」「誠実可也の人物、併せて撃剣家、事情迂闊、何も知らず」と記しており、当時の坂本龍馬はまだ政治的に目覚めていなかった事が伺える。
 もっとも、下記武士である坂本龍馬に水戸藩の偽名武士を入国させる事は到底無理な話であった。

 12月8日、宇和島に至ると宇和島藩士・金子孝太郎と面会するが、藩主・伊達宗城が幕府から謹慎処分を受けており、これ以上幕府を刺激できない宇和島藩では協力を拒んだ。
 住谷寅之介らは時勢が不利に動いている事を悟り、薩摩行きを断念して、失意のうちに江戸へ戻っている。

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 1859年11月、安政の大獄に伴い住谷寅之介も職を免ぜられて蟄居処分となった。

 1860年1月、家督を継いだが、1860年2月18日、高橋多一郎らを中心とする大老・井伊直弼の暗殺計画が藩に察知され、住谷寅之介はその一味として閉門となり投獄される。
 3月3日、同志が井伊暗殺を実行し(桜田門外の変)、このあと、幕府は水戸藩に対する弾圧を弱め、10月に住谷寅之介は許された。

 1861年5月、住谷寅之介は原市之進、宇都宮藩士・大橋訥庵らと老中・安藤信正の暗殺を計画。
 同年10月、丙辰丸の盟約(成破盟約・水長盟約)に基づき、長州藩士・周布政之助桂小五郎に手紙を送り、安藤暗殺の援助を要請。
 しかし、長州藩側では藩内の事情から決行の延期を求めたが、機を逸する事を恐れた水戸藩士らによって1862年1月に計画は実行された。(坂下門外の変)。

 住谷寅之介は禁固刑に処されるが、のち赦免され藩政に復帰。

 1862年閏8月、清河八郎に依頼されて、松平春嶽への上書を間崎哲馬に届けている。
 1863年、藩主・徳川慶篤に随従して上京し、水戸藩・京都警衛指揮役に任じられ本圀寺に入った。
 1863年1月27日には京都東山の翠紅館にて、水戸藩・長州藩・土佐藩などの尊攘派志士による将軍上洛に関する会合に参加している。

 この頃、藤田東湖ら亡き後の水戸藩の尊王攘夷思想の中心的人物と見られていた住谷寅之介は、公卿らとも交流を持ち、土佐藩主・山内容堂に招かれ時勢を談じたりしている。

 しかし、住谷寅之介は公武合体を容認していたことから、勤王派志士から敵視されるようになり、1867年6月13日宵、京の鴨川東岸松原河原において土佐藩の足軽・山本旗郎らによって斬殺された。享年50。

 墓所は水戸常磐共有墓地、京都霊山墓地。維新後贈正五位。

 なお、1870年(明治3年)、東京神田において住谷寅之介の息子らが山本旗郎を殺害。
 日本で最後に認められたという仇討ちを遂げている。(異説多数)

 (参考) Wikipedia

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