長州藩や薩摩藩が倒幕に傾むいたその背景・財力・借金は?


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 そもそも長州藩は、なぜ水戸藩同様に早くから徳川幕府の政治に反対を唱える事になったのだろうか?
 どうして、幕府のやり方に不満を募らせる事になったのか?をまず調べてみた。

 まず、吉田松陰が生まれた次の年である1831年、長州で百姓一揆が発生した。
 これは、財政難に苦しむ長州藩が1829年に産物会所を設けて、特権的な豪農商を御用達に任命。
 そして、翌年には薬種と綿以外の他国からの仕入れを禁止し、農民の商品経済を藩の厳重な統制の下に置いた。
 この強硬な産物政策に対し、吉敷郡小鯖村の皮番所で、御用達商人と農民が争ったことが発端となり、百姓一揆が勃発。
 7月には瀬戸内海沿岸地帯の三田尻、山口、小郡を中心にたちまち広がり、9月には瀬戸内海沿岸以外にも、中部山間部、日本海沿岸地帯へと長州藩全土へと波及し、13万人もの大一揆となった。
 各地の代官らの取締りも効果が上がらず、長州藩では一門寄組以下、正規藩兵が萩城下の入口の警固と、各地の鎮圧に出動した。

 そして、追い打ちをかけるように1833年~1839年まで日本は「天保の大飢饉」となる。
 主に東北で被害が拡大し、津軽藩の記録では13万人が餓死しているが、長州藩も例外ではなかった。
 このような飢饉になり食糧に困窮すると、庶民・農民は食い扶持を減らすため、女子供を人身売買に出す。もっとひどいと、妻をも売ったようだ。
 人身売買は禁止されていたため「奉公」と言う名目で売られるのだ。

 飢饉により税収が減った長州藩は、農家の庭先に生えている山椒の実にまで課税したと言う。
 当時の庶民・農民は本当に苦しかったことだろう。

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 もっとも長州藩も1832年の時点で、負債は80000貫まで膨んでおり、
 そのため、この大飢饉と並行して、天保の改革と呼ばれたむ財政再建が幕府だけでなく、諸藩でも行われ、うまく成功した薩摩藩・長州藩は「雄藩」としてその潤沢な財政をもとに、力をつけて行った。
 これは、1837年に第14代藩主として毛利敬親が就任したことで、村田清風が起用された。
 村田清風は藩が専売していた紙や蝋の売買を、商人に認めるかわりに税を課し、下関に「越荷方(こしにかた)」と言う貿易専門部署を設立し、収益を上げた。

 けれども、1839年の負債は90000貫になっている。その多くの借金は大阪商人から借りたものである。
 貨幣価値が異なるので一概に比較できないが、100万石の長州藩は、約1800億円もの借金を抱えていた事になるが、財政再建で新たに得た利益は借金返済には使われず、諸外国との戦いに備えて軍事力増強などに使用されたと言って良いだろう。
 そして、長州藩士は家禄を半分に減らされ、下級武士は生活にも困窮した。

 そんな中、清国では1840年にアヘン戦争となり、欧米列強に屈した。
 このような国際情勢が日本にももたらされると、洋学を積極的に学び、侵略に対抗しようとした。

 1842年には、玉木文之進が最初の松下村塾を主催。

 そして、毛利敬親は、1849年に若き長州藩士の育成の場として藩校・明倫館を萩城下に置く。
 明倫館は東京ドームより一回り大きい広大な敷地であったと言う。
 これにより、以後、長州藩は優秀な藩士を排出する結果にも繋がった。

 そして、1850年に長州藩は、沿岸の警備増強を図っている。
 すなわち幕府から自立して諸外国の脅威に対抗する姿勢を見せた。

 村田清風によって、周布政之助など能力のある藩士もどんどん起用されたが、1851年には椋梨藤太の反対勢力が実権を握った。

 1853年にはついにペリー提督が浦賀に来航し、1854年、吉田松陰は下田で密航を企てている。

 1858年には、西洋人が長崎に持ち込んだコロリ(コレラ)が流行しただけでなく、大老・井伊直弼の安政の大獄となって、尊王攘夷派は弾圧され、長州藩ではこのまま幕府に任せていたら、いよいよ本当に日本が危ういと考える、若手の下級武士が続出することとなった。
 しかし、このような考えに至る若者を排出したのも、長州藩がしっかりと学問に励ませ、優秀な人材を育てたことに他ならない。

幕末期「雄藩」の石高

(1)金沢藩102万石(138万石)
(2)薩摩藩77万石(86万石)
(3)府中藩(駿河)70万石
(4)仙台藩63万石(101万石)
(5)尾張藩61万石
(6)紀州藩56万石
(7)熊本藩54万石
(8)福岡藩52万石
(9)広島藩43万石
(10)長州藩37万石(97万石)
(11)佐賀藩36万石(88万石)
(12)水戸藩35万石
(19)彦根藩25万石
(20)土佐藩24万石(49万石)
(23)会津藩23万石(40万石)
(64)長岡藩7万石(14万石)

 上記の(カッコ)内は、調べて分かった範囲であるが、実質的な石高である。
 幕府に石高を正直に申告しても、賦役や幕府への上納金など負担が増えるだけであった為、各藩とも少なめに申告したのだが、それにしても長州藩がすごく少なく申告しているのがわかる。
 しかも、長州藩は実質約100万石だが、支藩である徳山藩や岩国藩も含めると、120万石相当と言う財力を誇っていた。
 また、薩摩藩も石高には反映されない、琉球との貿易や奄美三島の黒砂糖で稼いでいたので、実質的にはもっと大きな財源を持っていたことになる。
 財力はすなわち、軍事力にも比例する。

倒幕の裏には借金の踏み倒しもあったのか?

 諸藩は大きな赤字を抱えていたが、長州藩・薩摩藩は専売などで新たに得た資金は特別会計として藩の収入には組み込まず、最新型の兵器を外国から購入するなどした。
 このように、借金はあったが、それだけの軍備を整える財政を新たに得たゆえ、幕府軍にも対抗できる軍事力を得る事ができたのだ。

 とは言え、そんな事をしていたため、莫大な借金はどんどん増していき、財政的には絶望的だ。
 そこで、長州藩や薩摩藩は、借金の証文を書き換えると言う形で、返済期間を先延ばしにした。
 長州藩は藩士の借金に関しても、新たに37年後に元金を返済するとして、毎年の返済は利子だけにした。
 薩摩藩に至ってはかなり危機的な破産寸前と言う事もあり、なんと250年間に渡る分割返済期間に変更したと言う。
 これらは返済の先延ばしであり、すなわち借金の踏み倒しとも言える。

 長州藩や薩摩藩は、借金で苦しみ藩がつぶれるのを打開する為に、真剣になって幕末に動いた・・
 と、までは言わないが、名目上、外国と戦う為に増強した軍事力を、弱ってきた幕府に向けて倒幕することとし、自分たちの主導のもと、新政権を樹立させた。
 その結果、幸いにも欧米列強の侵略を防ぐこととなり、日本は救われたとも言えるが、のちの廃藩置県により、薩摩藩は35年だけ借金返済すると消滅したのも事実だ。

 もちろん、長州藩の中にも椋梨藤太のような保守派もおり、改革派の政権になったり、保守派の政権になったりと、藩論はコロコロと変わった訳で、藩全体が幕府に敵対した訳では無い。
 しかし、これは薩摩藩でも、一時、西郷隆盛大久保利通が失脚しているように、他藩でも同様であり、どの藩でも全員が賛成して一丸となって「討幕するぞ」となった訳では無かった。
 結果的に、桂小五郎や西郷隆盛らが、反対する勢力を巧みに抑え込んだ結果、倒幕に藩論(藩としての方針)が傾いた。

 水戸藩は当初、尊王攘夷の最先端を行っていたが、天狗党の乱で多数処刑した結果、優秀な人材を失い、明治新政府においての発言力を得られなかった。
 坂本龍馬など幕末に活躍した志士がいた土佐藩においても、山内容堂は鳥羽伏見の戦いにて武力討伐に反対し、自主的に藩兵を率いて戦った板垣退助くらいしか戊辰戦争では活躍できていない。

 なお、幕末の諸藩の石高を見る限り、薩長の新政府軍に会津藩が負けたのは、財力の差が大きかった点も挙げられるだろう。
 調べてみて、意外だったのは、河合継之助を排出した長岡藩である。
 この財力で新政府軍に抵抗したのは、かなり勇気ある行動であり評価するに値すると感じる。
 そして、奥州列藩同盟として仙台藩が新政府軍に本気で抵抗していたら、戊辰戦争はもっと昏倒とした大きな内戦に発展していたかも知れない。

倒された幕府の借金はどうなったのか?

 さて、薩長に倒された江戸幕府が抱えていた借金は、どうなったのか?最後に調べてみた。

 陸奥宗光が廃藩置県を提案すると、大久保利通が中心となり、西郷隆盛、西郷従道、大山厳、木戸孝允井上馨山縣有朋と言う薩長の要人だけで密かに練られ、三条実美岩倉具視・板垣退助・大隈重信らの賛成を得て、王政復古に次ぐ第2のクーデターとなった。

 廃藩置県により藩が消滅すると、旧藩の債務は新政府が引き受ける。
 しかし、財政的余裕はなく、まず1843年より前に諸藩が借りた負債は無効として事実上の徳政令とした。
 そして、1844年以降の負債に関しては、ほとんど無利息で50年間に渡り返済することに。

 しかし、江戸幕府の負債に関しては、幕府が「朝敵」であったと言う理由で、一切の債務引き受けを拒否した。

 これにより、諸藩の借金は約半分だけが50年間にて返済される事になり、幕府の借金は踏み倒された。

 このように、貸付していた大阪商人は特に莫大な損失となり、40軒もの両替商が明治初期に倒産し、涙をのんでいる。
 しかし、三井財閥など、新政府の国債を買って、政府関連の事業を拡大させるなどと言う強者も登場し、朝の連続ドラマ「あさが来た」のヒロイン・広岡浅子のような話となる。

 もっとも、借金を踏み倒して成長した国家はアメリカも例外ではなく、日本だけがそうだった訳では無い。

 となると、1000兆円と頭がクラクラするような借金を抱える今の日本政府も、同じく切羽詰まった状況に追い込まれているのか?と考えてしまう自分がいる。
 ただし、1000兆円もの借金があっても、国民の預金残高の方が上回っているため、まだ借金は可能だ。
 それだったら、1000兆円の借金を返すと言う発想よりも、これ以上、借金を増やさない程度に推移させれば、日本はこれからもうまく経済が回って行くことだろう。

 次には、江戸幕府側である「佐幕」に関して考えてみたいと思いますが、数年先になるかも知れません。

 (参考) 幕末の藩政改革

三条実美  尊王攘夷派の公家で明治天皇を補佐した太政大臣

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コメント

    • 高田哲哉
    • 2015年 4月 13日

    いつもコメントありがとうございます。
    そういえば、失念していましたが、少なくとも長州藩は密貿易と言うか、国内交易をしています。
    どうも、大阪の物価を調査して、高い時にその品を下関から海運して売却し、利益を上げていたようです。
    寺田様の密貿易企画も、楽しみにしてお待ちしたいと存じます。

    • 寺田 みゆき
    • 2015年 4月 13日

    先越されてしまいました。
    ワタシがなぜ待っていたかと言うと長州密貿易疑惑。うちの読者さんもおっしゃってるのですがやってると思うんですよね。でもどこ探しても出てこないんです。薩摩に関しては琉球貿易の足跡があるから書けるのですが長州はない!よって書けないというジレンマが・・帳簿に関しては、仕事でやっていることもありざーっと計算してみても100万石には到達しないんですよ。毛利輝元の頃からの借金帝国長州なのに。桂がもみ消したかな?とおもったりして。

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