尾崎三良とは 総裁・議定・参与の三職を考案した英傑


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 尾崎三良(おざきさぶろう)は、尾崎盛之と4男として、1842年1月22、山城国葛野郡西院村(京都市西院)に生まれた。幼名は捨三郎、別名を戸田雅楽とも言う。
 母は桃華子。

 幼い頃に両親を失くしたようだが、学問はしっかりと行ったようで、16歳の時に烏丸家に仕えた。
 のち、冷泉家に仕えると、三条実美に見いだされて、1862年、三条家の家臣・戸田造酒の養孫となり、三条実美の側近として幕末の国事に奔走した。

 同じ1862年、孝明天皇の勅使となった三条実美に随従する形で江戸に赴いている。
 1863年、八月十八日の政変にて、三条実美ら長州寄りの公卿が京都を追放された「七卿落ち」では共に長州藩へ落ち延びた。
 更に大宰府まで落ちたが、このとき「戸田雅楽」の別名で、三条実美の名代となり西郷隆盛など、尊皇攘夷派との交流した他、坂本龍馬・中島信行らとみ親交を得て、大政奉還の策を協議し岩倉具視に建策した。
 特に、坂本龍馬に対しては、新官制案(総裁・議定・参与の三職制度)を提示したことが挙げられる。
 このように多くの人脈を築き、のち明治に入ってから大きく活躍する事となる。
 そして大宰府では攘夷論から開国論へと転換している。

 維新後、実家の尾崎氏の姓を継ぎ「尾崎三良」と称した。

 1868年3月、三条公恭、中御門寛丸、毛利元功など8人で神戸港から出港してイギリスに留学。
 英語や法律を中心に勉学に励み、明治2年には、ホームステイ先の娘・バサイアと明治2年に結婚し、三女をもうけたが、のちに離婚した。

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 明治4年(1871年)に岩倉使節団がアメリカに渡ったのを知り、イギリスからアメリカに赴き木戸孝允や岩倉具視に面会して、条約改正は時期尚早だと献策している。
 その後、寺島宗則などとロンドンに戻ると、明治6年(1873年)、木戸孝允の要請により日本ら帰国した。

 その後は、明治政府にて太政官左院、法制局、参事院などに出仕し、井上毅らと法律の整備・実務に携わった。

 明治13年には、ロシア駐在一等書記官としてサンクトペテルブルクに赴任。
 明治14年、帰国を命ぜられると太政官大書記官、内務大丞などを歴任した。

 明治18年(1885年)には、一時、元老院議官として大日本帝国憲法の審議にも当たったが、再び政府に入り、明治23年(1890年)貴族院議員となり、明治24年には第1次松方内閣にて法制局長官を務めている。

 明治29年(1896年)男爵を授けられると、以後は実業界にて尽力。
 明治40年(1907年)には宮中顧問官。
 晩年には文部省維新史料編纂委員を務めた。

 大正7年(1918年)10月13日に死去。

 なお、政治家・尾崎行雄は女婿にあたる。

 (参考) Wikipedia

三条実美  尊王攘夷派の公家で明治天皇を補佐した太政大臣

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