一条美賀子(徳川美賀子) 最後の将軍の最後の御台所である美女


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あまり知られていない、徳川慶喜の正室をご紹介したい。

その名は、一条美賀子(いちじょうみかこ)と言い、公卿・今出川公久の娘として、1835年7月19日に生まれた。
幼名は延君(のぶきみ)、当初の諱は省子。
生まれた翌年に父が他界している。

延君は、面長で鼻筋が通り、口が小さく、眼もと涼しげな京人形のように美しく、艶やかな娘であったと言う。

幕末ペリー提督が来航した頃、関白・一条忠香の娘・千代君(照姫)が、一橋慶喜(徳川慶喜)と婚約していたが、婚儀の直前に、千代君(照姫)が疱瘡に掛かり死去したため、急きょ、延君(一条美賀子)が代役に選ばれた。
延君は関白・一条忠香の養女となり、省君と改名すると、1853年5月18日に婚約して江戸に下向した。
一橋御守殿にはいり1855年11月15日に結納、同年12月3日に徳川慶喜の正室となったが、不仲だったとされ非常に寂しい新婚生活を送ったようだ。

1858年7月16日に女子を出産するも20日に夭折。
その後、徳川慶喜は将軍後見職となって、将軍・徳川家茂と共に京に向かったため、10年間と言う長い間、別居する結果となった。

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1866年、徳川慶喜は第15代将軍となったが、この時も徳川慶喜は京にいたなど、将軍在職中に1度も江戸城に入らなかったこともあり、御代所であった徳川省子(一条美賀子)は、江戸城に入った事が1度も無く、もちろん大奥に1度も入らなかった。

1868年1月、鳥羽伏見の戦いに敗れた徳川慶喜は江戸に戻ったが、この時、既に将軍職を返上しており、徳川慶喜はそのまま自ら上野寛永寺に謹慎し、その後も駿府の宝台院にて謹慎生活した。
この時にも、徳川省子は対面することが出来なかったと言い、明治維新後、徳川慶喜は静岡、徳川省子は東京・一橋屋敷と、引き続き別居生活が続いた。
なお、明治に入ってから「省子」の名を改名し「徳川美賀子」としている。

明治2年(1869年)9月に徳川慶喜の謹慎が解かれると、その2ヶ月後に徳川美賀子は静岡の紺野町に赴き、10年ぶりに共に暮らすようになると、それなりに夫婦仲も修復したと言う。

その後、徳川慶喜は側室・新村信と、中根幸の間に21人の子を設けたが、生まれた子供はすべて徳川美賀子が母として養育し、散歩・花見・紅葉狩り・湯治などで過ごしたが、徳川美賀子は1人で出かけることが多かったとようだ。

明治27年(1894年)、乳癌を発症し手術を受けるも経過が悪く、療養の為、5月に東京の徳川家達の千駄ヶ谷屋敷に移ったが回復せず1894年7月9日に死去した。享年60。

院号は「貞粛院」、墓所は東京の谷中墓地。
歴代将軍で芝増上寺、または上野寛永寺の徳川霊廟に葬られなかったのは、徳川慶喜と徳川美賀子の夫婦だけである。

(参考) Wikipedia

芝の増上寺の見どころ~徳川将軍家墓所もある徳川家の菩提寺

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