松田謙三(小倉健作) 優秀な朱子学者で教育者・小田村伊之助の弟


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 小倉健作(松田謙三)は、長州藩の藩医・松島瑞蟠の3男として1832年1月8日に生まれた。
 兄に松島剛蔵楫取素彦(小田村伊之助)がいる。幼名は百合熊、字は士健、号は鯤堂または剣槊。

 明倫館の学頭を勤めた小倉尚蔵の養子となり、小倉健三(小倉乾三)と改名したが、のちに小倉家を出ると松田謙三と称した。

 1844年2月、萩の藩校・明倫館へ入学し、山県太華・小倉遜斎らから学ぶ。

 1850年5月に明倫館を退学すると、7月に江戸に出て、安積艮斎の私塾・見山楼にて4年間学んだ。
 江戸では、兄・小田村伊之介とともに吉田松陰とも交友があり、吉田松陰の東北脱藩に協力した際には藩から叱責を受けている。

 また、吉田松陰が下田でペリー提督の艦隊へ密航を企てると、兄・小田村伊之助に代わって、野山獄の吉田松陰に便宜を図った。

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 1861年10月には江戸幕府直轄の昌平坂学問所に入り、明治元年(1868年)10月からは江戸幕府直轄で教えを受けていた安井息軒の三計塾にて学んだ。

 のち岡山県に招かれると明治11年(1878年)、小田郡金浦村西浜の地に私塾「明志学舎」を開校。

 そして、明治17年7月、兄・楫取素彦が群馬県令を退官する際、群馬県前橋へに移ると、群馬県師範学校(群馬大学)にて漢学の教授になっている。
 明治18年7月14日には修史館の准判任御用掛を命じられ、史料編纂にあたった。

 晩年は東京にて毛利家の史料編纂に携わり、明治24年(1891年)1月10日、61歳でこの世を去った。

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