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坂本龍馬の人物像 |
幕末の英雄と評価される「坂本龍馬」に関する記述や龍馬年表などの資料は多数ある。また小説や映画・ドラマなどで作り上げられた坂本龍馬は、作家・脚本家や監督の想像に過ぎない部分がある。
当サイトでは坂本龍馬の本当の魅力に迫るべく、語録・名言などを中心にして記載。あなた自身が感じる坂本龍馬の人物像を大切にして欲しい。
坂本龍馬は、土佐藩の武家の身分である上士と下士では、下士の2番目の身分である郷士と言う家に生まれた。
土佐藩の身分制度については岩崎弥太郎ページの下部にてご紹介している。
郷士とは一般的に里(郷)に普段住んでいる武士のことで、家禄も少なく、武士の仕事だけでは暮らしていけない貧乏武士の事を指すが、坂本家の本家(才谷屋)はもともと豪商であり、お金で郷士の身分を所得したと考えられる。このように下士とは言え、坂本龍馬は比較的裕福に成長することができたようだ。
本家の才谷屋(さいたにや)は、土佐藩士を相手に金貸しなどをしていたので、明治維新で武士が没落すると、武士も借金を返済できなくなり、才谷屋も、たちまち没落している。
坂本龍馬は暗殺されたが、兄・坂本権平のあとをのちに継いだ坂本直寛の時代、北海道の開拓をすべく、坂本家は札幌の浦臼に移住。以後、坂本家は北海道で現在も続いている。
坂本龍馬の幼少の頃は、水練(水泳)に行く途中、友人に「雨なのに泳ぐのか」と聞かれたが「濡れるのに雨も関係あるか」とそのまま川に行って泳いだと言う。
少年の頃は、寝小便をする事が多く、また泣き虫だった。12歳の頃に、楠山庄助の塾に通い始めたのだが勉強についていけず、すぐに退塾扱いになったと言う。(退塾したのは他の塾生などとケンカしたからと言う説もある。)
坂本龍馬が初めて剣術修行として初めて江戸に出発する際に、父・坂本八平は「修行中心得大意」と題する訓戒状を授け、坂本龍馬はこれを「お守り」として終生大切に保管。今なお現存する。
、ペリー率いる黒船4隻が浦賀に来航した際、坂本龍馬も藩より動員され、品川の沿岸警備に当たる事となった。土佐を出発する際には「もし戦争になれば異国の首を討ち取って土佐へ帰ります。」と、当初は攘夷思想を持っていたが、異国文化を目の当たりにした1年後には、世界と対等に付き合うならば大きな船と、船を動かす人材が日本にも必要だと悟り、攘夷とは全く逆の開国の考えを持つようになった。
坂本龍馬は「脱藩」したと良く言われるが、この脱藩と言うのは土佐藩士を辞めたと言う意味ではなく、許可を得ずに、自分勝手な判断で土佐藩の領内から出たと言う意味で、現在で言えば公務員が、パスポートやビザを得ずに、許可なく外国に渡航した言う意味に似ている。
脱藩者は藩に捕まれば、なんらかの処罰を受ける。なお、坂本龍馬は何回も脱藩しているので、許されてもまた脱藩するなど、何回も脱藩している。
海援隊とは、坂本龍馬が中心となり結成した海上貿易を行う組織で、今で言うと海運会社であり、主な輸送品目は軍事物資だったようだ。
海援隊に入れる条件は、脱藩者であることと、海外への志を持っていること。要するに、現行の仕組みなどに捕らわれず、日本や世界を新たな視点から見る事ができる人物を望んでいたようだ。物資輸送だけでなく航海訓練なども行い、規律では稼いだお金は互いに分配する平等な精神も盛り込まれており、当時にしてはかなり魅力ある組織である。岩崎弥太郎は長崎で海援隊の経理を担当していた。
坂本龍馬は寺田屋事件で左腕を負傷し、以後、写真撮影などでは左手を隠していることが多い。
寺田屋事件のあと楢崎龍(お龍)と結婚し、薩摩の西郷隆盛や小松帯刀の勧めもあって、薩摩の小松帯刀邸を訪れた際、霧島温泉郷に傷の保養に出かけた。この薩摩へ出かけて、尚且つ霧島温泉郷にも夫婦で行動を共にしたことから、日本で始めての新婚旅行とも言われている。(実際には初めての新婚旅行とは言えない。)
坂本龍馬の人生・人格形成において、多大な影響を与えたのは、坂本龍馬の父・坂本八平の後妻である伊興の実家、下田屋(川島家)と考えられている。坂本龍馬は姉である乙女と共に、度々、船を漕いで浦戸湾に出ており、当時、土佐藩・御船蔵のあった種崎にある川島家を何回も訪れている。川島家の当主・伊三郎は、あだ名が「ヨーロッパ」と呼ばれるほど外国通。長崎や下関などとに行き来があり、界地図など海外の資料を豊富に持っていた、川島家の伊三郎より、珍しい外国の話などを聞き、海外を良く知るきっかけにもなり、外国への憧れを高めたとも言われている。
姉・幸の夫の家によく遊びに行き、屋根に上って太平洋を眺めていたとも。
坂本龍馬の身長は6尺(約182cm)と言われているが、最近の研究では、174cm、169cmと言う説もある。いずれにせよ、幕末期としてはかなりな大男であったと考えられる。背中には黒毛が生えていた言う。
坂本龍馬は「おれは若い時、親と死別れてからはお乙女姉さんの世話になって成長ったので、親の恩より姉さんの恩が太い」と語り、脱藩後も多くの手紙を姉・乙女宛てに送っている
坂本龍馬は脱藩後に何回か接触したトーマス・グラバーの影響を強く受けている。
薩長同盟、亀山社中、海援隊、船中八策は、坂本龍馬個人の完全な考えや独創ではないと言う指摘がある。グラバー商会は、アヘン戦争を推進したイギリスのジャーディン・マセソン商会の直系であり、グラバーの肩書きは、「マセソン商会長崎代理人」であった。 坂本龍馬が幅広く、時の権力者と交流できた理由は、坂本龍馬個人の資質よりも、坂本龍馬が当時、東洋最大手のイギリス武器商会の「営業マン」の役割を果たしており、諸藩が坂本龍馬を通じて最新の武器を購入できると言うのが大きかったのだろう。
なお、長崎のグラバー邸には、坂本龍馬ら脱藩志士を、匿って住まわせたとされる隠し部屋がある。
明治維新の戊辰戦争の際、グラバーは内戦の長期化を予測して、ヨーロッパより武器を大量に購入していたが、戦争は短期間で終結したので、1870年(明治3年)グラバー商会は破産している。その後、グラバーは岩崎弥太郎の三菱・高島炭鉱所長をつとめ、麒麟麦酒会社の会長に就任。
坂本龍馬は晩年、拳銃(ピストル)を武器として携帯していたが、下記のような逸話もある。
ある時期、土佐藩士は「長刀」を携帯する事が流行していた。あるとき、坂本龍馬の旧友と再会したとき、坂本龍馬は短めの刀を差していた。その理由として「実戦では短い刀のほうが取り回しがよい」と言い、その旧友も以後は短い刀を差すようにしていた。
そして、次に再会したとき、旧友が勇んで短い刀を見せたところ、坂本龍馬は懐から「拳銃」を出し「銃の前には刀なんて役にたたない」と言った。旧友は、さっそく拳銃を買い求めたが、再び再会したとき、旧友が購入した拳銃を見せたところ、坂本龍馬は万国公法(国際法)の洋書を取り出し「これからは世界を知らなければならない」と言ったという。そして、もはや旧友はこの変わり身にはついていけなかったと言われている。
坂本龍馬が愛用した拳銃は2丁ある。1つは S&W モデル1。もうひとつは高杉晋作から貰った S&Wモデル2アーミー。33口径で、寺田屋事件の際に反撃したのはこの銃である。しかし、その事件の時に紛失し、後で買い足したのは、S&Wモデル1 22口径。これは妻のお龍とともに1丁ずつ所持し、薩摩滞在時はこれで狩猟なども行ったと言う。
坂本龍馬の身長は、現存する写真の紋付のサイズを元に割り出した研究では、約182cmと、当時としては大男であったと考えられている。
そんな坂本龍馬も1867年11月15日、近江屋で中岡慎太郎と共にいるところを襲撃され、額を深く斬られ坂本龍馬はほぼ即死。
S&Wモデル1 の銃は、暗殺された時も携帯していたが、発砲することなく殺害されている。
坂本龍馬は下士であったため、存命中に、土佐藩の山内容堂に謁見したことは一度もない。
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日本歴史 武将・人物伝
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