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樋口与七・大国実頼 | 1562年〜1622年 |
1562年、樋口与七は上杉謙信の家臣・樋口兼豊の次男として誕生。兄・与六(のちの直江兼続)とは約2歳の年の差である。
樋口与七は与六(のちの直江兼続)の事を「兄じゃ、兄じゃ」と呼び慕って育ったと考えられ、元服後、どんな戦でも兄と共に戦った。
1578年〜1579年「御館の乱」の前には元服していたようで、御館の乱では父・樋口兼豊や樋口兼続(のちの直江兼続)と共に上杉景勝に味方して戦ったとされる。
1581年には兄・樋口兼続が直江家の養子に入り、直江兼続となる。
樋口与七も、1582年11月5日、上杉景勝の命により小国重頼(小国三河守重頼)の養子となり、小国家を相続。
樋口与七は小国実頼(おぐにさねより)と改名し天神山城主となった。
小国重頼は御館の乱で上杉景勝勢に従ったが、この乱をめぐって小国一族の間で内紛が起きたらしく、小国重頼の嫡男が病死していたことから、戦後、上杉景勝は、腹心の樋口与七を強引に小国氏に入れて、小国家を継がせたのであった。
父・樋口兼豊も御館の乱の恩賞として直峰城(新潟県上越市安塚)を与えられた。1583年11月24日に直峰城主を命じられている。
その後、上杉景勝は、小国実頼の苗字を大国と改めさせ、小国実頼は大国実頼(大国但馬守実頼)となった。
大国実頼は、以後も上杉景勝に兄・直江兼続と共に奮戦し、1586年、新発田重家の乱では新発田重家討伐に参陣して、新潟城を焼打ちしている。
豊臣秀吉が聚楽第を新築した時には、上杉家代表の使者として上洛するなど、頻繁に上洛し、木戸寿三と共に連歌会などに参加した。
1591年には、連歌師・里村紹巴の催す連歌会に度々参加し、大国実頼は「能書、連歌の上手」と評されている。
1592年頃の知行を見ると9041石2斗、軍役542人半であった。そのうち3900石は、岩船郡にあった本庄氏の遺領である。
1594年10月28日に豊臣秀吉の聚楽第を訪問した際には、太刀一振、小袖10、銀子50枚を献上。
1598年、上杉景勝の会津移封に付き従い、大国実頼は21000石+同心給分3300石と合計2万4300石を与えられた。
21000石の城持ち武将は、直江兼続(60000石)に次いで、会津・上杉氏の家臣でも3〜4番目を争う高禄で、大国実頼の評価が高いことが伺がい知れる。そして、南山城代(鴫山城、田島城)として城を大改修している。
西軍(豊臣勢)に組していた上杉としては、中央には大坂城、西には広島城、東には新たな要として若松城の約2倍を誇る神指城を作る計画があったようで、上杉家臣団や、常陸・佐竹義宣から300人の応援も受けて、1600年、総勢約12万人を動員して新城(神指城)の築城を開始。普請奉行である兄・直江兼続と共に、大国実頼は小奉行として活躍した。
徳川家康の会津征伐の際には、南山城へ大国実頼は入り防備を固めたが、関ヶ原の合戦で西軍が敗れ、上杉景勝が米沢に入ると、大国実頼は出羽・高畑城(屋代城)7000石の城代を命じられる。
しかし、高畑城には移らず、上京して伏見に滞留。1602年には亀岡文殊での歌会で出題者を務めなどしていた。
兄・直江兼続とは関が原以降に不仲になったとされ、大国実頼の娘・阿虎は兄・直江兼続が預かっていた。
1604年には、その娘・阿虎を兄・直江兼続が養女に向え、徳川家康家臣の本多政重と養子縁組させようとしたが、本多政重の迎えに上京した使者を大国実頼は伏見宿で殺害し、大国実頼は高野山に逃れた。
これにより、上杉景勝は大国実頼を一時お家断絶となる。
なお、阿虎は、先に本多政重に嫁いでいた直江兼続の娘・於松が亡くなった為、1609年に直江兼続の養女として、本多政重の正室になった。本多正信の子である本多政重はのち加賀・前田藩で50000石の家老となっている。
兄・直江兼続が1620年1月23日に亡くなると、大国実頼は高野山から米沢北の中小松村に復帰したが1622年2月9日に死去。享年61。
大国実頼の死後、大国家は断絶となったが、大国実頼の弟・樋口秀兼の子である樋口光頼を養子に迎える形で大国家は再興された。
大国氏は、以後、米沢藩で家老・中老といった重職についている。
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