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まえだ とします 前田利益・前田慶次 |
別名:前田利貞、前田利太、前田宗兵衛、前田慶次郎、前田慶二郎、前田啓次郎など、 漫画の影響で前田慶次 |
誕生した年は、1533年、1540年、1541年、1542年、1543年など諸説あるが、1533年説・1541年説の可能性が高く、小生は1541年生まれとしてご紹介させて頂く。なお、名称は様々あるが、このページでは一般的に知られる前田慶次の名で統一してご紹介させて頂く。
1541年、前田慶次は愛知県の荒子で生れたとされる。当時の荒子と言えば織田氏の支配下で、織田信長の父である織田信秀の家臣、前田利春が荒子城主であった。前田利春は加賀100石まで出世した前田利家の父になる。
前田慶次の父に関しても諸説あって良くわからないが、一般的には織田氏家臣の滝川一益に関係して、滝川一益の従兄弟、甥である滝川益氏(儀太夫)、または滝川益重、滝川一益の兄である高安範勝、更に滝川一益の弟が前田慶次であるとの説もある。幼名は滝川総兵衛とも。
前田慶次の母の出自や名前は不明。前田益氏の妻であったとも言われている。
いずれにせよ、母が前田利家の兄・前田利久と再婚したので、前田家の養子となり前田利太(前田慶次郎利太)と改名した。
前田慶次は母の連れ子として前田利久の子になった、又は、母が前田利久と再婚した際に、滝川益氏の子を身ごもっており、そのまま前田利久の子として育ったなどの諸説がある。当時の荒子城・前田利久の知行は2000貫文(約4000石)。
1560年、荒子城主・前田利春が死去すると、前田慶次の養父である前田利久が前田家の家督を継いだ。
この年の5月19日には桶狭間の戦いで、織田信長は今川義元に勝利している。
なお、前田利久には実子がいなかった為、弟である前田安勝の娘を養女として、その養女の婿に自身の妻の連れ子とされる前田慶次を迎えた。これで前田慶次は順調に行けば将来、前田家の跡取りになる若殿になったのである。
また、この婚儀の際に、前田慶二は「利益」の名を与えられたと考えられる。
一方、前田利久の弟にあたる、前田利家(前田又左衞門利家)は、数々の戦功を上げていたが、拾阿弥と言う僧を切ったことから浪人していたが、織田信長からの謹慎も許されるなど、前田慶次を取り巻く環境も少しずつ変わりつつあった。
1569年には、養父・前田利久を織田信長が見限り、前田利家が前田家の当主になるようにとの命令が出る。理由としては、前田利久には実子がなく、もともと病弱だったため「武者道少御無沙汰」の状態にあったからだと言う。
なお、1567年に、前田利久が事件に連坐して進退を問われ、頭を丸めて領地を前田利家に譲り、放浪の身になったと言う説もある。 いずれにせよ、前田利久は荒子城から出ることになり、前田慶次の母も前田家代々の家宝を、前田利家に渡すまいと抵抗したと伝わっている。
荒子城を退去した前田利久に前田慶次は付き添い、放浪の生活をしたようだ。諸説あるが、一説では滝川一益の元に身を寄せていたとも考えられる。
その後、能登23万石の一国を領する大名となった能登七尾城主・前田利家を頼り仕官するまで、どのように暮らしたのかはよくわかっていないが、京で過ごしたとも、地元荒子で細々と生活をしたとも考えられている。また、この間に前田慶次は前田安勝の娘との間に1男2女をもうけたと考えれる。
いずれにせよ、1583年の時点では、前田利久も前田利家を頼っており、前田利久2000石、前田慶次5000石を与えられている。
1584年の小牧・長久手の戦いが繰り広げられていた頃には、徳川家康に通じた佐々成政が15000(8000とも)で、9月9日に奥村永福1500が守る末森城を包囲。前田慶次は末森城の救援に向かった前田勢3000に加わり、巧みな戦術で佐々勢の背後に回り、末森城が討って出た兵と佐々勢を挟み撃ち。佐々勢は野々村主水ら武将12人を含む約750が討死。
1585年4月14日には前田勢6000の5番手として阿尾へ出陣。前田から佐々に寝返った阿尾城の城代に前田慶次が任じられ、阿尾城に入る。
しかし、6月24日、神保氏張・神保氏則の父子は5000で氷見へ侵入。阿尾城主の前田慶次は、片山延高、高畠定良、菊池武勝、菊池安信ら2000を従え迎え撃った。そこに折よく前線を視察に来ていた村井長頼の300が加勢すると神保勢は後退し、奪還に向かった神保氏張らの軍勢を撃退している。
前田慶次はこれらの戦いで有能な能力を発揮した。
1587年8月14日、義父・前田利久が病死。これを機に、前田慶次の嫡男・前田正虎が前田利家に仕え、前田利久の旧領2000石をそのまま継いだ。
1590年3月、豊臣秀吉の小田原征伐の際には、前田利家に従い北国軍として出陣。途中、上杉勢の直江兼続や藤田信吉、真田勢らと共に関東へ入り、八王子城などを攻略している。
小田原の北条氏降伏の直後に豊臣秀吉が前田利家に命じた奥州検地の検田使として出向く際にも、前田慶次は前田利家に従い碇ヶ関(青森県)まで随行した。
なお、この1590年前後、前田利家と仲違いした、又は前田利久の死を契機に前田家との縁が薄くなった事により、前田家を出奔したとも。別の説では前田利家とよりも、嫡男である前田年長と不和が深刻だっととも。
出奔時期については諸説あり、1587年の前田利久の死の直後だったと言う説や、1591年と言う説もある。前田利家を騙して水風呂に入れて、前田利家が大事にしていた名馬・松風(谷風?)を奪って逃走したと言われている。
なお、子の前田正虎や、出奔時に離縁した前田慶次の妻は前田家に残っている。
出奔後、前田慶次は京都に滞在した模様で、剃髪し「穀蔵院飄戸斎」と名乗る。里村紹巴・昌叱父子や九条稙道・古田織部ら多数の文人と交流した他、何度も上洛していた上杉景勝家臣の直江兼続や安田能元とも親しくした。
また、浪人中は、大名などから数多くの仕官の話が来たが、断っていたと言われている。前田慶次の嫡男・前田正虎も父に金沢へ戻るように説得したが、受け入れられず、前田慶次は前田正虎と縁を切ったとも言われている。
1598年、上杉家が越後から会津120万石に移封されると、上杉家に仕官し、直江兼続の与力として組外御扶持方1000石になり、米沢に住した。
1600年、関ヶ原の戦いがおこった際には、直江兼続と一緒に従軍し、最上勢や伊達勢を相手に、前田慶次は見事な戦いをしたと言われる。
関ヶ原で石田三成が敗れたと言う一報が入ると、直江兼続は自害しようとしたものの前田慶次に諫められ、最上攻めからの撤退を決断したとされる。
上杉景勝が30万石に減封され米沢に入ると、前田慶次の戦いぶりに、多くの大名から高禄で誘いもあったが、上杉から離れることなく従い、越後から米沢に移り、米沢近郊の堂森(米沢市万世町堂森)で隠棲した。2000石、500石、200石と諸説あるが、他の上杉家臣同様、知行が減っている。
1601年、京都の伏見から米沢へ戻る際に旅日記を自ら記した「前田慶次道中日記」が現存する。
前田慶次の最後については、諸説ある。
米沢藩の資料では、1612年に堂森の肝煎太郎兵衛宅で没し、一花院に葬られたとするが、一花院は現在廃寺となっている。
加賀藩の資料では、野崎知通の遺書に、関ヶ原の戦いの後も前田利益のいたずら癖、奇行は治まる事なく、加賀藩藩主・前田利長の命によって大和国刈布に隠棲し、その後病を患うと自らを「龍砕軒不便斎」と呼び、1605年に73歳で生涯を終えたとしている。亡くなる直前に、前田利政の勧めで米沢を離れ大和刈布に移住したとある。
■前田慶次の子供は1男〜2男、3女〜5女?
嫡子(長男)・前田正虎(前田安太夫)は加賀藩3代藩主・前田利常に仕え、書を修める書家としての活動が見られる。子は無く七尾で没している
長女・花は加賀藩士・有賀左京の室、その後、山本弥右衛門(大聖寺藩士)の室になっている。
次女(名前不詳)は、北条滅亡後、能登国津向(今の七尾)に知行1000石を得た、前田利家預かりの北条氏邦の側室。有力な別説では北条氏邦の4男・北条庄三郎の室とも。
「武蔵鉢形城主北条安房守氏邦(北条3代目北条氏康の4男)は小田原攻めで前田利家に降伏 開城して前田家の預りの身となり能登で生涯を閉じる」
3女(名前不詳)は富山藩士・戸田方経(戸田方勝、戸田弥五左衛門方勝)の室
なお、前田慶次については様々な資料がある為、今後も適時、追記・加筆し、更新して参ります。
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