![]() |
神倉神社 |
南紀・熊野には、古来、沖縄から海を伝った人々がやってきたと考えられます。その為、後世には熊野水軍などが発達しました。
そんな海に携わる人々を中心に「神」として崇めてきたのが、現在の新宮市の神倉山(かんのくらやま)にある巨岩・ゴトビキ岩です。昔は海岸線が山の麓近くであったことと推測でき、海で漁をしたりする際に大変目立つ岩であったことでしょう。このゴトビキとはヒキガエルをあらわす熊野地方の方言です。
その大きな岩が原始的な自然信仰の対象となり、石器時代・縄文時代ほ経て、弥生時代となると、西暦128年には神社の元になる人工物が祭られました。ゴトビキ岩を御神体とし、高倉下命・天照大神を祭神としています。そして、日本書紀や古事記にも当然のようにこの神倉神社が登場し、下記のような伝承が記載されています。
神倉神社は、神武天皇が東征の際に登った天磐盾(あめのいわたて)の山である。このとき、天照大神の子孫の高倉下命は、神武に神剣を奉げ、これを得た神武は、天照大神の遣わした八咫烏(やたがらす)の道案内で軍を進め、熊野・大和を制圧した。
このように神倉神社は日本列島に人間が住み始めた古い時代から信仰の対象であり、熊野神社が出来るより遥か以前からありました。ちなみに、神倉神社の近くにある熊野速玉大社は神倉神社の伊邪那美神が移ったもので、神倉山にあった元宮に対して熊野速玉大社のことを新宮と呼ぶ事から、新宮市と言う地名にもなっています。
平安時代になると神倉山は神倉聖(かんのくらひじり)と呼ばれる修験者たちの修行場となりました。その後、
さて、神倉神社ですが、標高80mの山は断崖絶壁となっており、麓からは鎌倉幕府を開いた源頼朝が寄進したと伝えられる、急勾配の鎌倉積み石段が538段あります。
台風などで倒壊することもしばしばで、山上にある現在の社殿は大正時代に再建されたものですが、ゴトビキ岩を支える袈裟岩の周辺には古い経塚が発見されており、祭祀具・仏具などの遺物が多数出土しています。この経塚よりも下層からは、銅鐸片や滑石製模造品が出土していることから、石器時代から神道的な巨石信仰を伺うことができます。みのゴトビキ岩と袈裟岩は男女の性器そのものと言う人もおります。
神倉神社の写真(参考)
■御燈祭
毎年2月6日には勇壮な火祭りとして知られ、夜の暗い中、鎌倉積み石段538段を一気に駆け下りる御燈祭(おとうまつり)が行われます。
御燈祭の期間中、神倉山は女人禁制となり写真を撮るだけでも女性は立入禁止。祭りに参加する男性は白装束で荒縄を胴に巻き上り子と呼ばれます。身に付ける衣装はすべて白でなければいけません。また、朝からご飯や豆腐、かまぼこなど白いものだけを食べると言います。
日が暮れると、祭りに参加する男性約2000人が、熊野速玉大社・阿須賀神社・妙心寺に参拝・祈願し、松明を手に持って神倉神社の山上境内に集合します。ただし、10代の若者も清めの酒を飲んでいるらしく酔っ払っている者が多いと言います。
神倉神社では神職が火をつけた神事の後、中ノ地蔵堂にその碑が置かれ、上り子は松明に火をつけます。
火を松明につけると今度は麓までの競争が待っているので、山上の玉垣内に入ります。上り子たちは少しでもスタート地点になる山門近くの良い位置を確保しようと揉みくちゃになります。満員電車のように体と体の隙間がない揉みくちゃなので、松明は自分の頭上に上げるしかありません。頭上の松明からこぼれる火の粉が容赦なく上り子たちに降りかかるのです。
スタート直前には少しでも良い位置を確保しようと喧嘩や怒声がおこります。
そして、夜20時になると山門が開かれて、上り子たちは一斉に我さきにと538段の階段を駆け足で麓を目指します。火の海が流れるようだ、巨大な炎の龍が出現したとも例えられ、勇壮このうえありません。しかしながら、暗い中、足場が悪い急な階段を駆け下りますので、誰もが途中で転倒します。そして、ある者は途中で倒れ下まで辿り着けず、毎年、怪我人が出る勇壮な祭りです。女たちは麓の門口から炎の龍の舞いを眺め、男たちの無事の帰りを待ちます。
写真参考1 写真参考2 動画(20秒、mpg) 山門スタート前までのスライド式写真
この御燈祭は、神倉山に降り立った神を人々が迎えた「神迎え」と、神が山を下りて熊野速玉大社へ鎮座するまでの「再臨」を再現した神事とされています。
570年頃に初めて行われたと言う記録があり、火を神聖なものとする熊野修験道と深くかかわりがあると考えられます。
なお、神倉神社には神職は常駐していないので、御朱印や御札などは熊野速玉大社の社務所で取り扱いしています。
日本歴史 人物伝
| ※このページのリンクは自由です。リンク後の連絡なども不要です。 ※文章などには著作権がありますので、複写・複製は許可をお願いします。 |