岩崎弥太郎

 岩崎弥太郎(いわさき やたろう、1834年12月11日〜1885年2月7日)と聞いて、小生も恥ずかしながら最初は誰?と思った。岩崎弥太郎は三菱財閥の創業者であり、坂本龍馬とも親交があった土佐出身の人物とだけ最初に記載させて頂く。

郷士の株と岩崎家

 岩崎弥太郎(岩崎彌太郎)は土佐国の地下浪人・岩崎彌次郎とその妻・美輪(美和)の長男として井ノ口村(安芸市)で誕生した。
 もともと岩崎家は、甲斐源氏武田の岩崎一族末裔と称しているが、日本古来の原住民・山祇族の流れを汲む久米氏族ないし、三好氏の同流だったとする説もある。
 岩崎家が土佐に移った時期は不明。土佐では安芸氏、長宗我部氏、次いで山内氏と仕えたものの、岩崎弥太郎が誕生した際に、岩崎家はすでに地下浪人となっていたのである。
 地下浪人とは郷士の株を売った者で、40年以上郷士職であった者に名づけられた呼称。要するに郷士の株を売った最下級の武士と言える。
 郷士とは、平時は農耕に従事し、有事の際には武士として駆けつける「半農半士」。
 郷土の株(ごうしのかぶ)とは、豪農や町人に対して名字帯刀を許す権利で、主に財政悪化した藩が、臨時収入源として、郷士の「株」を販売することが多かった。
 例えば、坂本龍馬の坂本家も、昔は豪商であったが、先祖が1770年に郷土の株を買い、郷士と言う下級武士になっていた。しかし、相次ぐ飢饉と一揆の影響を受け、この岩崎弥太郎の岩崎家は、曽祖父・岩崎弥次右衛門の代に郷士の株を売り、武士で一番下の身分となっていた。このように、岩崎弥太郎は子供の頃から極貧の中で暮らした。

貧乏こそ学業にお金を使う

 岩崎弥太郎には姉・はつ、妹・さき、弟・岩崎弥之助がいる。
 本名は岩崎敏(のち岩崎寛)であったが、一生を通称の弥太郎の名で通した。
 母・美輪(美和)の実家は安芸浦西ノ浜の医者であったことから、幼少の頃から学問環境に恵まれ、貧しくとも幼少の時から才能を発揮したとされ、土佐藩随一の学者・吉田東洋の知遇をえて、その門下生にもなった。
 14歳の頃には当時の土佐藩主・山内豊照にも漢詩を披露。書も講じて褒美をもらうほどの腕前であった。
 そして21歳になった岩崎弥太郎は土佐藩士・奥宮周二郎の従者となって1854年に江戸へ行き、江戸を見学して見聞を広めるなど遊学した。そして、駿河台にあった安積艮斉の見山塾に入塾した。学問の出来はなかなかだったという。両親は先祖伝来の山林を売って岩崎弥太郎の遊学費用を捻出したとも言われる。

岩崎弥太郎の苦悩

 しかし、1856年、父・岩崎彌次郎が酒席での喧嘩により投獄された事を知り帰国。馬を使った早飛脚ですら14日かかるところを自らの足で16日目に井ノ口村に着いたと言う。
 そして、父親の免罪を訴え続けるが、あまりにしつこかったので奉行所の怒りをかい、22歳の岩崎弥太郎自身も投獄される。ひまつぶしに同房の商人から算術を学び、商売の機微を教えてもらったとも言われる。
 7ヶ月後に釈放されたが、家名削除・村追放となった岩崎弥太郎は現在の高知市鴨田に住む。のちに、追放赦免・家名回復となり、1859年25歳のとき、吉田東洋が蟄居中の身でありながら1855年4月から開いていた少林塾(鶴田塾)に入門。この少林塾に、のち明治新政府で板垣退助らと活躍する土佐藩士・後藤象二郎が通っており、岩崎彌次郎は吉田東洋や後藤象二郎らと出会いにより出世していくのである。

岩崎弥太郎の出世

 あるとき、吉田東洋は後藤象二郎に宿題を与えたが、その答案がなかなかの出来であった。その為、吉田東洋は首を傾げ、後藤象二郎にしては出来すぎだと思ったと言う。後藤象二郎に問い正すと岩崎弥太郎が代筆したと正直に告白したので、これを期に、岩崎弥太郎は吉田東洋より一目置かれる存在となった。
 このように身分関係なく若者を受け入れていた少林塾で、岩崎弥太郎は再び才能を認められることになったのである。
 1858年、幕府大老・井伊直弼が勅許を待たずに日米修好条約に調印。安政の大獄が起こると、吉田東洋は罪を赦免され土佐藩の政治に復帰。
 吉田東洋は後藤象二郎など有能な若者も取り立てた。
 そして、藩財政危機の救済策として国内産業盛んにし、海外貿易を行う為、その市場調査団を長崎に派遣することになったのだが、吉田東洋の推薦によりその調査団の1人として岩崎弥太郎も1859年に下横目として登用された。
 岩崎弥太郎は土佐勤王党の監視や脱藩士の探索などにも従事する一方、たびたび長崎へ出張したとされ、さまざまな海外事情を学ぶ。
 1862年4月吉田東洋が暗殺され、犯人を追い同僚の井上佐一郎と共に大坂へ赴くが、尊王攘夷派が勢いを増す京都・大阪の情勢から捕縛は困難と悟り、任務を放棄し無断帰国。また、長崎での藩費浪費の責任も問われ、岩崎弥太郎は職を辞している。
  なお、この頃、岩崎弥太郎は借財をして郷士株を買い戻した。岩崎弥太郎は27歳のとき、貧乏郷士の娘・喜勢と結婚。
 そして、僅かな手元資金で材木商へ転身を図ったがみごとに失敗。その後、岩崎弥太郎は郷里で農作業に従事する失意の日々を送った。坂本龍馬も1864年に脱藩している。

後藤象二郎・坂本龍馬、そして海運との出会い

 1865年9月には西郷隆盛の支持を得て坂本龍馬が亀山社中を結成。航路による物資の輸送や航海訓練を行う。
 藩内で実力をつけた後藤象二郎は開成館を創設し、土佐の品を江戸・大阪・長崎で売り、富国強兵を目指したがうまく行かず、1867年に岩崎弥太郎を土佐藩の商務組織・土佐商会の主任、兼・長崎留守居役に抜擢し、岩崎弥太郎は長崎に駐在し藩貿易の責任者として復帰した。
 一方、後藤象二郎は長崎で坂本龍馬と会談し、後藤象二郎が土佐藩の前藩主・山内容堂に大政奉還を進言。
 そして1867年4月に坂本龍馬の脱藩が許されると、亀山社中は海援隊として土佐藩の外郭団体となり、岩崎弥太郎が海援隊の経理も担当した。
 海援隊の「いろは丸」(45馬力、160トン)の処女航海中、1867年4月23日夜、瀬戸内海で徳川御三家紀州藩の御用船・明光丸(150馬力、887トン)と衝突し、いろは丸が沈没。この事件では相手が紀州藩と言う事もあり海援隊は賠償交渉に苦戦。坂本龍馬も「紀州藩と一戦交える覚悟ゆえ、万が一の時は妻をよろしく」とまで手紙を書いている。
 坂本龍馬の代わり、岩崎弥太郎が持ち前の才能で巧みに交渉し、紀州藩に8万3千両の賠償金を支払らわせることに成功している。(のち減額されて7万両)
 1867年10月3日、土佐藩は将軍・徳川慶喜に大政奉還の建白書を提出し、10月15日に大政奉還が成立した。
 1867年12月、京都・近江屋で坂本龍馬が暗殺され、海援隊は求心力を失い分裂。1868年4月に海援隊は解散させられた。その後、海援隊の事業を後藤象二郎は土佐商会として、岩崎弥太郎は九十九商会・三菱商会・郵便汽船三菱会社(後の日本郵船株式会社)・三菱商事などに発展させて行くのであった。

巨万の富を得る

 1868年(明治元年)、長崎の土佐商会が閉鎖されると、岩崎弥太郎は大阪市西区堀江の土佐藩蔵屋敷の大阪・土佐商会に移り、土佐藩の収入源となる貿易に従事。しかし、明治新政府が藩の事業を禁止すると言う噂が流れると、土佐藩は、禁止される前に事業を私商社を立ち上げて高知〜神戸航路を維持しようと考える。そして、1869年(明治2年)10月に、土佐商会は九十九商会と改称し個人事業となった。九十九は土佐湾の別名。藩の立場から事業を監督するのが岩崎弥太郎の役目であった。
 1870年(明治3年)に、岩崎弥太郎は土佐藩の少参事に昇格し大阪藩邸の責任者となり開成館大阪出張所(大阪商会)の活動を取り仕切った。少参事は中老格で地下浪人の身分からは異例の出世である。。

 岩崎弥太郎は明治新政府の参議・参与などに就任していた後藤象二郎から聞いたのであろう。
 各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げて、全国統一の貨幣制度を作る(藩札回収令)と知り、岩崎弥太郎は10万両の資金を調達し、信用のなくなった藩札を安く大量に購入した。
 1871年(明治4年)7月に廃藩置県と同時に藩札廃止令が発さられる。
 現代で言えばインサイダー取引みたいなものであるが、岩崎弥太郎が安く手に入れた大量の藩札を明治新政府が当時の実勢相場で買い取ったので、巨額な利益を得たのである。

三菱設立へ

 1871年(明治4年)の廃藩置県が行われると、後藤象二郎や板垣退助に説得され、岩崎弥太郎が九十九商会の経営を引き受ける。岩崎弥太郎は土佐藩の負債を肩代わりする形で、県から土佐藩所有の船3隻を買い受け、高知〜神戸航路のほか、東京〜大阪間の輸送にも力を入れた。
 そして九十九商会は経営幹部である川田、石川、中川亀之助の川の字にちなんで1872年(明治5年)に、三川商会(みつかわ)と社名変更した。 
 1873年(明治6年)3月に三菱商会と改称し、岩崎弥太郎が先頭に立ち、オーナー社長として海運・商事を中心に事業を展開することになる。
 このとき岩崎弥太郎は有名な三菱のマークを決めた。土佐藩主であった山内家の三葉柏と岩崎家の三階菱の家紋を合わせて出来上がったものが、三菱のスリーダイヤモンドなのである。

国内トップの海運業者へ

 この当時、海運業最大手は国有企業の日本国郵便汽船会社。
 ただし、態度は大きくいかにも乗せてやるという社風だったので、店の正面におかめの面を掲げ、ひたすら笑顔で応対する三菱は、お客様本位だと喜ばれたと言う。。
 岩崎弥太郎は、武士の意識が抜けず笑顔の対応が出来ない従業員に、小判の絵を描いた扇子を渡し「お客を小判と思え」と指導したと言う。なお、この時のおかめの面は現在三菱東京銀行本店で保管されている。
 1874年 台湾出兵で明治政府は当初、イギリスやアメリカの船会社による兵員の輸送を想定したが、中立と言う事で断られ、政府系船会社の日本国郵便汽船会社に軍事輸送を依頼した。
 ところが、日本国郵便汽船会社は台湾へ輸送している間に顧客を三菱に奪われると心配し、あまり協力的でなかった為、明治政府は三菱に依頼することにより「国あっての三菱」と三菱の岩崎弥太郎は快諾した。こうして、政府船を託され三菱は軍事輸送を手がける。翌年、功労として政府より大型船3隻を委託されるなどの援助を受けて、大型船13隻になった三菱は国内海運を独占し、東京〜上海航路も開設した。。
 1875年、明治政府では大久保利通や大隈重信の進言により、政府保護下で民族資本の海運会社育成することとなり、有事の際の徴用を条件に三菱に助成することを決定。
 日本国郵便汽船会社の船舶18隻が無償供与されるなど三菱は船舶を倍増して、三菱商会から郵便汽船三菱会社へ改称した。
 また、三菱商船学校を設立し、船員育成にも力を入れた。
 岩崎弥太郎は更に敏腕振りを発揮し、1877年(明治10年)の西南戦争の時には、定期航路の運航を休止し、社船38隻を軍事輸送に注ぎ込んだ。海路の軍事輸送のほとんどを三菱の船で運行し、当時のお金で1300万円と言うさらなる巨万の富を三菱は手に入れ、戦後に軍需品の処分でも大きく儲けた。岩崎弥太郎のその海運業での敏腕ぶりは「東洋の海上王」と呼ばれるまでになる。
 そして、得た利益を鉱山事業などに投資して行くのである。
 1878年(明治11年)には、神田錦町に三菱商業学校を開校。商業の知識を持つ人材育成にも力を注いだ。
 1881年(明治14年)、岩崎弥太郎の三菱最大の保護者であった大隈重信が、北海道開拓史官有物払い下げ事件によって失脚。海運業の独占に反発する渋沢栄一(三井財閥)が、井上馨らに働きかけて、政府の後援で共同運輸会社を設立。最新鋭の船舶を備えて、三菱商会に挑んだ。
 三菱商会は危機に立たされ、岩崎弥太郎は苦境に陥ったが、やがて共同運輸は内部分裂。しかしその争いのさなか、岩崎弥太郎は50歳という若さで亡くなる。
 岩崎弥太郎亡き後、その意志は弟・岩崎弥之助に引き継がれ、共同運輸は三菱と合同し、日本郵船株式会社を設立。三菱は日本を代表する財閥としての力を保ち続けるのであった。
 岩崎弥太郎の娘婿から加藤高明及び幣原喜重郎の2人の内閣総理大臣を輩出している。
 岩崎弥太郎が最期を送った屋敷は、旧岩崎邸庭園として現在都立公園となっている。


 参考 三菱広報委員会




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