石田三成の人物像


 石田三成の波乱に満ちた生涯について公開されているホームページは多い。ただし、年表式に石田三成を解釈しても面白くないので、小生は石田三成の人物像・逸話について調べてみた。その結果を下記に記載する。


 石田三成の出自は、近江国石田村(長浜市)の土豪の子であると考えられている。
 幼名は佐吉。当時の長浜は、長浜城主となった羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)による領国経営で短期間のうちに経済が活性化した。恐らく、石田三成はその羽柴秀吉と言う人物の手腕に興味も抱いていた事であろう。

 石田三成が羽柴秀吉の小姓になった有名な話「三献の茶」がある。
 長浜城主となった羽柴秀吉は、ある日、鷹狩の途中で領地の観音寺に立ち寄ると、汗だくの羽柴秀吉を見た寺小姓の三成が、大きな茶碗にぬるいお茶をたっぷり入れて持ってきた。飲み干した羽柴秀吉が2杯目を所望すると、三成は1杯目よりも少し熱いお茶を茶碗に半分だけ入れて差し出した。羽柴秀吉が3杯目を求めると、今度は熱いお茶を小さな茶碗に入れて持ってきた。最初から熱いお茶を出すと一気に飲もうとして火傷するので、三成はぬるいものから出したのだった。これを羽柴秀吉はいたく感心し、三成は召し抱えられたという話である。
 ただし、この話は江戸時代になってから創作されたと考えられ、事実ではない可能性が高いが、石田三成が相手の様子を見て、気配りができる人物だったと言う事を物語っている。なお、寺は大原・観音寺ではなく、古橋・法華寺と言う説もある。
 また、この逸話とは関係なく、石田三成が18歳の時に姫路で羽柴秀吉に仕えることになったと言う説もある。

 豊臣秀吉が石田三成に禄を与えようとしたとき
「領地はいりません。その代わり、淀川の河原の葦に対する運上金(税金)徴収を許していただきたい。それで10000石の軍役を致します。」と答えた逸話がある。
 石田三成は、葦の税収にて、豊臣秀吉の丹波攻めに約束どおり10000石分の軍役をし、華麗な軍装で参加したと言われるが、そもそも丹波攻めがいつあったのか特定もできておらず、この話も創作の可能性が高い。
 実際の石田三成は検地でも才覚を表し、目覚しい働きをした。その為、豊臣秀吉が九州に33万石の領地を用意したが、石田三成はこの破格の厚遇を断ったとされる。
 理由としては、自分が九州の大名になってしまうと、大阪(中央政府)で行政を担当する者がいなくなり、豊臣政権に問題が生じると懸念したからだ。
 石田三成は自身の出世よりも、豊臣秀吉のため、豊臣政権の為になることを重視していたと言う表れである。
 
 いずれにせよ、戦国時代の長浜は商業が盛んな為、算術(算数)に優れた人物が多くいたとされており、石田三成も役人として非常に高い能力を持っていたと言う事は間違えない。そんな石田三成の才能を見出して、羽柴秀吉は側近にしたのであろう。

 石田三成の戦での活躍は、1583年の賤ヶ岳の戦いで一番槍を務めたのが見られる。その後も、27歳で九州征伐、32歳で小田原攻めにも従軍したが、石田三成はほとんど武勲を挙げていない=戦での活躍がない。
 要するに、石田三成は、武人として活躍したのではなく、計算(算数)が必要となる検地、戦の時には、何をどのくらい調達し、どのようにして運ぶのかを担当する補給部門で才覚を表し活躍した。
 例えば21万人を動員したと考えられる小田原征伐では、兵士が現地で食べる食料調達や輸送などを緻密に計算し、裏方として豊臣の大軍を支えた。(実際には忍城水攻めなどの軍事作戦行動もとったが・・。)
 また、豊臣秀吉の朝鮮出兵でも、海を渡ることになる16万の大軍に対して、船を何艘用意して、何往復すれば輸送できるなど、石田三成が輸送計画を立てた。
 このように、武勇や武功では目立たなかったが、政治面・経済面で優れた能力を発揮。 豊臣秀吉は有能な実務者は豪胆な武将以上に得難いと、石田三成を優遇し、1591年には近江北部の佐和山城190000石を、僅か31歳の石田三成に与えた。

 さて、話は戻り、石田三成が知行500石を得た際に、最初の石田家臣として渡辺了(渡辺新乃丞、渡辺勘兵衛)を登用した。
 渡辺了は、それまでに柴田勝家の10000石、豊臣秀吉の20000石と言う雇用の話を「100000石でなければ仕官しない」と断っていた豪傑。
 しかし、僅か500石の石田三成の家臣になったのである。
 豊臣秀吉がどうやって、渡辺了を説得したのかと石田三成に尋ねると「私の500石すべてを新乃丞に与えました。だから今、私は新乃丞の居候になっております。」と涼しげに回答したと言う。
 なお、石田三成が将来100万石になった際には、渡辺了は10万石にすると約束もしたそうであるが、渡辺了はそんな私利私欲に走らない石田三成に惚れ込み、何度も加増の話を断り生涯500石で仕え、関が原の戦いで石田三成勢として奮戦し討死したと言われている。
 しかし、知行は500石ではなく、200石の時だったと言う説や、400石の時だったとする説もあり、実際の渡辺了は直接豊臣秀吉に2000石で家臣となったことから、渡辺性の武将は多いので渡辺了とは別の人物であった、又は話そのものがこのあと紹介する島左近と後世で混同した可能性も考えられる。

 島左近(島清興)が石田三成の家臣になった際の話。
 島左近は筒井順慶の元で智勇兼備の名将として活躍したのち、豊臣秀長・豊臣秀保らに仕えたが、のち浪人となって近江で暮らしていた。
 そして、近江40000石となった石田三成は、島左近に家臣になるよう要請したのであった。それまでも多くの仕官を断ってきた島左近は、当初断ったが、石田三成の必死の説得により仕官を受け入ることになる。
 豊臣秀吉は、40000石になった石田三成が、どれだけ多くの家臣を得たのか興味を持ち、石田三成に問うと、石田三成は「あれから1人を登用しました」「島左近1人であります」と回答した。島左近は石田三成よりも20歳も年上の名将であり、豊臣秀吉はどのようにして、あの島左近を家臣にしたのか?と質問すると、石田三成は「知行の半分、20000石で登用しました」と述べたと言う。これに対して豊臣秀吉は「これは面白い。主君と従者が同じ知行高など聞いたことがないわ」と感心して、後日、島左近を呼び、高価な羽織を与え「どうか三成をよろしく頼む」とねぎらったと言われている。
 なお、石田三成が佐和山城主になった際に、島左近に加増を告げると「三成殿が50万石の大名と成られても、拙者は今の知行で充分。その加増はどうか部下達に」と断ったと言う。
 この島左近仕官の話が渡辺了仕官の話を生んだものと考えられる。
 また、実際に、島左近が石田三成に仕えたのは、石田三成が佐和山19万石の城主になってからと言う説が有力であり、それでも浪人から2万石での取り立ては破格の待遇であったことには違いがない。島左近は関が原で勇猛果敢に突撃し討死している。(生き延びて僧になったとする説もあり。)

 徳川家康が石田三成に側室として送り込んだとされる初芽局がいる。
 初芽局は女忍者(くノ一)で石田三成の動向などを徳川家康に報告する任を負って石田三成に近づいた。しかし、彼女はまっすぐな性格の石田三成に惚れてしまい、徳川家康を裏切り、ついに徳川方の忍者に殺されたと言われている。(関ヶ原の戦いの後も生き延び、石田三成の菩提を弔ったという説など、 諸説有) なお、初芽局が実在したと言う証拠はない。

 1595年、豊臣秀次失脚の時は、諸将が豊臣秀次を見限る中、石田三成は「秀次公無罪」と、最後まで豊臣秀次の助命に動いた。これに、豊臣秀次の家臣であった前野忠康ら若江八人衆は感激し、以後、石田三成の家臣に加わった。

 天下統一がなされ、豊臣秀吉は朝鮮出兵を計画したが、石田三成は無益な事と最後まで反対したと言う。しかし、豊臣秀吉は16万の大軍で朝鮮出兵を決め、石田三成はその命に従う。石田三成は主に輸送部隊の指揮を命ぜらた他、文禄の役の際には、幸州山城の戦いに参加し、負傷もしている。
 豊臣秀吉は2度も朝鮮に兵を送ったが1598年8月に亡くなると、石田三成はすぐさま全軍退却を指示した。
 なお、石田三成と加藤清正はこの朝鮮出兵時と撤退時に激しく対立している。
 出兵当初、加藤清正はあとさきを考えず進撃を続け、自らだけでなく、あとから来る友軍までも窮地に追い込み、勝手に豊臣清正と名乗るなど、自分勝手な問題行動が目立った。また、即時撤兵して兵力温存を考える石田三成と、戦後の交渉を有利にする為にも最後に戦果を挙げるべきとする加藤清正と口論になった。
 石田三成は日本の豊臣秀吉へ「清正が和睦の邪魔をしている」と報告。怒った豊臣秀吉は加藤清正を即時帰国させ謹慎処分にした。これを恨んだ加藤清正は「三成を一生許さぬ。たとえ切腹となっても仲直りなどできぬ」と激怒したと言う。

 豊臣秀頼がまだ5歳。豊臣秀吉は他界する直前に五大老(前田利家・徳川家康・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝)と、五奉行(前田玄以・浅野長政・増田長盛・石田三成・長束正家)を呼び、豊臣秀頼への忠誠を誓約させた。
 そして、五大老と五奉行を合わせた十人衆の中から、前田利家と徳川家康をリーダー格にし、両者の指揮のもと合議制により政治運営をするよう遺言した。
 この時、石田三成はこう誓ったと言う。「天下が騒乱にあった時、秀吉様が世を治め、やっと今日の繁栄となった。 続いて秀頼公の世になることを誰が祈らないものがあろうか。絶対に再び戦乱の世に逆戻りさせてはいけない」。
 
 豊臣秀吉は選んだ五奉行をこのように評価していた。
 「浅野長政は兄弟同様で会議に必要な人柄。前田玄以は智将・織田信忠が認めた男であり確かな人材のはず。長束正家は丹羽長秀の下で名判官と言われた。増田長盛は財政経理に詳しい。石田三成は進言する際に機嫌や顔色をうかがわず堂々と意見する。」

 一方、石田三成は不正を極度に嫌い、情実も介さず、常に自らの信念に基づいて豊臣政権の行政を担当していた。ところが、そのあまりな謹厳実直な性格が、周囲からは融通のきかない傲岸不遜、横柄な態度と映り、諸大名からの人望を得られなかったようである。
 豊臣秀吉は特定の大名が力をつけないよう、大名同士の婚姻を禁じていたが、1598年8月に豊臣秀吉が亡くなってから6ヶ月も立っていないのに、徳川家康は、伊達政宗や福島正則、加藤清正、黒田長政らと親戚関係になる動きを見せた。1599年1月、前田利家や石田三成らは徳川家康に問罪使を派遣し、徳川家康も豊臣政権で孤立する不利を悟って縁組を止めたが、前田利家が1599年3月に病没すると、一気に徳川家康が権力を掌握し始める。
 前田利家が他界した夜、石田三成は以前から対立していた加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明の7将ら武闘派の諸将に大坂屋敷を襲撃された。石田三成は佐竹義宣の助力を得て大坂から脱出し伏見城に入る。徳川家康の仲介により、和睦するが、石田三成は五奉行の引退を承諾。佐和山城で謹慎することになる。
 そして、徳川家康は大名との婚姻を断行、所領を勝手に分配するなど、禁止されている事項を破る。
 そして運命の1600年、徳川家康は天下取りに向けて本格的に動き出す。1600年6月、徳川家康は五大老の1人・上杉景勝の会津討伐のため江戸に入り、諸国から兵を集めた。
 その動きを見て、7月11日、石田三成も水面下で反徳川家康の行動を開始。まず最も親しい越前敦賀の大名・大谷吉継に挙兵計画を打ち明けた。
 大谷吉継は「今の家康に勝てるわけがない」と忠告したが石田三成は「秀吉様の遺言をこれ以上踏みにじらせぬ」と譲らなかった為、大谷吉継は「三成は昔からの親しい友だ。今さら見放すわけにもいかないけと腹をくくった。

 この大谷吉継はハンセン病を患っていたが、豊臣秀吉に「100万の兵を与えてみたい」と賞賛された名将だった。当時の人々はハンセン病を感染病と思い込んでいたので、大谷吉継は普段から顔や手を布で覆い隠していた。
 ある日、豊臣秀吉の茶会で、大谷吉継に茶碗が回った時、彼は飲む振りをして次に回すつもりが、傷口から膿みが茶碗に垂れてしまった。大谷吉継は茶碗を隣に渡せなくなり、居合わせた諸侯は絶句したが、石田三成は立ち上がり「吉継!もうノドが渇いてこれ以上待ちきれぬ、早くまわせ!」と茶碗を奪い取り、そのまま最後の一滴まで飲み干したと言う。石田三成とは、そういう男である。

 徳川家康を討つと言っても、徳川勢80000に対して、石田三成手持ちの兵力は6000でしかない。しかも、謹慎の身である。
 その逆境に屈することなく、石田三成は豊臣寄りの諸侯に手紙を送り、大阪城に集結させ、最終的には94000が集まった。会津・上杉家を入れると合計130000の兵力で、徳川勢を上回る。
 西軍は手始めに伏見城を攻略し鳥居元忠を討ち取り、大津城を落とし、近畿一円をほぼ制圧する。
 そして、1600年9月15日、ついに天下分け目の合戦が始まるのであった。石田三成40歳、徳川家康58歳。
 真田昌幸の活躍もあり、上田で足踏みした約38000の徳川秀忠軍は関が原に間に合わず、最終的な布陣は、西軍85000、東軍75000と石田三成がやや有利な情勢に。。
 しかし、石田三成に味方したはずの小早川秀秋や脇坂安治らの裏切りによって西軍は総崩れとなった。

 石田三成は戦場から逃走して伊吹山に逃れ、伊吹山の東にある相川山を越えて春日村に逃れた。そして、春日村から新穂峠を迂回して姉川に出て、曲谷、七廻り峠から草野谷に入った。この時、付き従っていた家臣は磯野平三郎・渡辺勘平・塩野清助の3名だけ。石田三成は、最後まで付き従うという彼らを諭し「運が開けるならば大坂で再会しようぞ」別れを告げ、あとは1人で行動したとされる。
 そして、小谷山の谷口から高時川の上流に出て、近江・古橋に逃れた。(逃亡ルートは諸説有)
 古橋村は飢饉に襲われたとき、石田三成が年貢を免祖した村であったと言われている。 また、古橋には当時、石田三成の母の菩提寺である法華寺があり、石田三成は手厚い保護を与えていたという。
 日暮れを待って法華寺を頼ったが、村人たちの知るところとなり、かつて石田三成から恩を受けたことがある農民・与次郎太夫が岩窟に隠し、石田三成に毎日食事を届けたとされる。しかし、石田三成の存在が知られ、9月21日、岩窟で隠れていた石田三成は田中吉政らに捕らえられた。(諸説有)

 石田三成は9月22日、大津城まで護送されて、その後、徳川家康と会見。本多正純に預けられた。
 ここで本多正純と石田三成の会話が残されている。
 本多正純「秀頼公はまだ幼少で事の是非をわきまえておられるはずはない。私心による戦を起こしたがために、このような恥辱を受ける羽目になったのではないか」
 石田三成「農民に生まれてより一城の主としていただいた太閤の御恩は例えようもない。世相を見るに、徳川殿を討たずば豊家の行く末に良からじと思い、戦を起こしたのである。二心ある者のために、勝つべき戦に敗れたのは口惜しい限りじゃ。さなくば汝らをこのように絡め捕らえておったであろうに、我が敗れたるは天命である」
 本多正純「智将は人情を計り時勢を知るという。諸将の一致も得られず、よくもまあ軽々しく戦を起こしたものだ。敗れた上に自害もせず捕らえられたのは如何に」
 石田三成「汝は武略を知らぬも甚だしい。人手に掛かるまいと自害するのは葉武者のすること。汝のような者に大将の道など、語るだけ無駄というものじゃ」と言い返したと言う。
 石田三成は、源頼朝のように、1度や2度戦に敗れても、自害せず大身を成す者こそ、誠の武将の生きる道と論したのである。

 9月27日には大阪に護送され、石田三成は9月28日に小西行長、安国寺恵瓊らと共に大坂・堺を罪人として引き回された。
 徳川家康勢が小袖を与えた際、小西行長、安国寺恵瓊の2人は有りがたく受け取ったが、石田三成は「この小袖は誰からのものか。」と聞き「江戸の上様(徳川家康)からだ。」と言われると「上様といえば秀頼公より他にいないはずだ。いつから家康が上様になったのか。」と反論して受け取らなかったと言う。
 徳川家康は「石田は日本の政務を執っていた者である。小西も宇土城主、安国寺もまた卑賤の者ではない。戦に敗れてこのような姿になろうとも、勝敗は兵家の常であり珍しいことではない。命をみだりに捨てなかったのも大将の心とするところであり、古今に例も多く恥ではない。そのまま市中を引き回せば将たるものに恥をかかせることになり、それは我が恥でもある」として、小袖を贈ったのである。

 石田三成は9月29日、京都に護送され、奥平信昌(京都所司代)の監視下に置かれる。
 そして、10月1日、徳川家康の命により六条河原で斬首された。
、斬首される前に石田三成は、喉が乾いたので水を所望する。
 水は無いが柿ならあると、柿(干し柿)を与えられたが「柿を食べると身体に障るのでいらない」と言って食べなかったとされる。これに対して「すぐに死ぬ身が身体を気にする場合ではなかろう」と嘲笑されると「大志を持つ者は最期の最期まで諦めないものだ」と返答したと言う。
 最後まで潔い態度であったと聞いた徳川家康は「三成はさすがに大将の道を知るものだ。平宗盛などとは人間の出来が違う。」と述べたと言われている。

 落城した佐和山城に入った東軍の兵は、佐和山城の質素さに驚いたと言う。
 19万石ともなれば、さぞかし立派なものと考えていたのだが、実際には住居はみな荒壁で、上塗りなどはなく、住居の中も板張りのまま。庭には風流な樹などは無く、粗末な石があるくらいであったと言う。金銀の蓄えもほとんどなく、あったのは豊臣秀吉から送られた感状のみだったと言われている。
 戦後、佐和山に入った井伊直政は佐和山城の山頂部を14mも削るなど、石田三成の象徴とも言うべく佐和山城を徹底的に破壊した。
 石田三成の死後、佐和山の領民は、石田三成生前の善政に報うべく、石田三成を偲んで、佐和山城付近に地蔵を築くなどして、霊を慰めたという。

 石田三成は、侫臣、傲慢、小賢いという人物像が一般的であるが、これは、勝者・徳川家康から見た人物像である。
 水戸光圀は大日本史に「石田三成は非常に立派な人物だ。人はそれぞれ、その主君に尽くすのを義というのだ。徳川家の敵といって三成の事を悪く言うのは良くない。君臣とも三成のように心がけるべきだ」と記している。
 幕末維新の英傑、西郷隆盛もこの三成評に同感し、公平に評価していると日記に残している。

 なぜ、敗戦の将であるにも関らず、石田三成の人柄を表すような逸話が多く残されているのだろう? それには、徳川家康に敗れこそはしたが、石田三成と言う人物が高く評価されていたから他ならない。
 石田三成は大一大万大吉と記された家紋を用いた。「万民が一人のため、一人が万民のために尽くせば太平の世が訪れる」という意味である。
 わずか19万4000石で毛利・島津・上杉を動かし、天下を二分し、250万石の徳川家康と五分に渡り合ったのである。
 もし、豊臣秀吉がもっと長生きしていたら、もし、小早川秀秋が裏切らなかったら・・。人生、一寸先は闇と言う事なのであろう・・。

 明治40年、京都大徳寺三玄院の石田三成の墓が発掘された。
 発掘資料から後年、復顔や体格の分析がおこなわれた。それによると「女性のような骨格、頭形は長頭、鼻は高く鼻筋が通っており、かなりの反っ歯、身長156cm前後」と報告されている。ちなみに徳川家康も身長156cm前後。



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