岩崎弥太郎(4) 三菱設立から日本初のボーナス支給?


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■三菱設立へ
 1871年(明治4年)の廃藩置県が行われると、後藤象二郎板垣退助に説得され、岩崎弥太郎が九十九商会の経営を引き受ける。岩崎弥太郎は土佐藩の負債を肩代わりする形で、県から土佐藩所有の船3隻を買い受け、高知~神戸航路のほか、東京~大阪間の海上輸送にも力を入れた。

 そして九十九商会は経営幹部である川田、石川、中川亀之助の「川」の字にちなんで1872年(明治5年)に、三川商会(みつかわ)と社名変更した。
 ちなみに、この1872年には岩崎彌太郎の弟・岩崎彌之助がアメリカに留学している。
 1873年(明治6年)3月に三菱商会と改称し、岩崎弥太郎が先頭に立ち、オーナー社長として海運・商事を中心に事業を展開することになる。
 このとき岩崎弥太郎は有名な三菱のマークを決めた。土佐藩主であった山内家の三葉柏と岩崎家の三階菱の家紋を合わせて出来上がったものが、三菱のスリーダイヤモンドなのである。

■数々の苦難を乗り越えて日本最大の海運業者へ

 この当時、海運業最大手は国有企業の日本国郵便汽船会社。
 ただし、日本国郵便汽船の態度は大きく、いかにも乗せてやるという社風だったので、店の正面に「おかめの面」を掲げ、ひたすら笑顔で応対する三菱は、お客様本位だと喜ばれたと言う。。
 岩崎弥太郎は、武士の意識が抜けず笑顔の対応が出来ない従業員に、小判の絵を描いた扇子を渡し「お客を小判と思え」と指導したと言う。なお、この時のおかめの面は現在三菱東京銀行本店で保管されている。
 1874年 台湾出兵で明治政府は当初、イギリスやアメリカの船会社による兵員の輸送を想定したが、中立と言う事で断られ、政府系船会社の日本国郵便汽船会社に軍事輸送を依頼した。
 ところが、日本国郵便汽船会社は船を台湾まわして、兵員を輸送している間に、商売の顧客を三菱に奪われると心配し、あまり協力的でなかった為、明治政府は三菱に依頼することを決定し、「国あっての三菱」と三菱の岩崎弥太郎は快諾した。
 こうして、政府船を託され三菱は軍事輸送も手がける。翌年、その功労として政府より大型船3隻を委託されるなどの援助を受けて、三菱所有の大型船は13隻になり、三菱は国内海運を独占するまでとなり、運賃を上げて大きな利益を上げる。また、三菱初の国際航路となる東京~上海航路も開設した。

 1875年、明治政府では大久保利通大隈重信の進言により、政府保護下で民族資本の海運会社育成することとなり、有事の際の徴用を条件に三菱を助成することを決定。
 日本国郵便汽船会社の船舶18隻が無償供与されるなど、三菱は船舶の所有数を倍増して、三菱商会から郵便汽船三菱会社へ改称した。また、三菱商船学校を設立し、船員育成にも力を入れた。
 1876年には、三菱為替(かわせ)店による荷為替金融を開始し、陸上の倉庫業も手がけた。

 岩崎弥太郎は更に敏腕振りを発揮し、1877年(明治10年)の西南戦争の時には、定期航路の運航を休止し、社船38隻を軍事輸送に注ぎ込んだ。海路の軍事輸送のほとんどを三菱の船で運行し、当時のお金で約1300万円と言うさらなる巨額な売上を三菱は手に入れ、戦後に不要となった軍需品の処分でも大きな利益を得た。汽船61隻所有は国内船籍数の73%であり、岩崎弥太郎は、その海運業での敏腕ぶりを「東洋の海上王」と呼ばれるまでになる。

 ちなみに、明治10年の米相場と現在の米相場で当時の1300万円を換算すると、現在の価値では900億円~1000億円と推定される。
 そして、得た利益を鉱山事業などへ、次々と投資して行くのである。

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 1878年(明治11年)には、神田錦町に三菱商業学校を開校。商業の知識を持つ人材育成にも力を注いだ。また、東京海上保険(現東京海上日動火災保険)へ出資し、輸送保険も手がける。
 1881年(明治14年)、汽船の燃料確保の為、高島炭坑を買収。この高島炭鉱も以後の三菱を支える大きな収入源となった。

 そんな中、岩崎弥太郎の三菱最大の理解者であった大隈重信が、北海道開拓史官有物払い下げ事件によって失脚。海運業の独占に反発する渋沢栄一(三井財閥)が、井上馨らの政府有力者に働きかけて、有事の際には徴用船になることを条件に政府の後援を得て、三井財閥系名などが共同運輸会社を設立。共同運輸会社はイギリス製の最新鋭船・山城丸などを備えて、三菱商会に挑んだ。三菱も燃費を度外視して、最高速度で航行するなどして対抗し、最後には同じ時間に出航し、目的地到着を競うまでとなり、接触事故を起こすなど安全にも問題が生じた。

 更に、値下げ競争が激化し、三菱商会は危機に立たされ、運賃も2年間で90%も料金値下げしていた。倒産寸前となり岩崎弥太郎は苦境に陥ったが、やがて共同運輸は内部分裂。しかしその争いのさなか、岩崎弥太郎は胃がんにより、50歳という若さで亡くなる。

 岩崎弥太郎亡き後、その意志は弟・岩崎弥之助に引き継がれ、三菱と共同運輸の共倒れを恐れた政府が調停にたち、共同運輸は三菱と合併して日本郵船株式会社を設立。

 三菱を引き継いだ岩崎弥太郎の弟・岩崎弥之助は三菱社と改名し、1884年に政府より借り受けた長崎造船所を中心に事業の再生を行った。長崎造船所はのちの大正時代以降、戦艦霧島や日向、戦艦武蔵などの軍艦も建造し、戦後には海上自衛隊のイージス艦を含む護衛艦も約20隻建造している日本屈指の造船所となった。

 このように、三菱は日本を代表する財閥としての力を保ち続けるのであった。

 岩崎弥太郎の娘婿から加藤高明及び幣原喜重郎の2人の内閣総理大臣を輩出している。

 岩崎弥太郎が最期を送った東京・上野近くの屋敷は、旧岩崎邸庭園として現在都立公園となっている。

■日本で始めてのボーナスを支給?

 1876年(明治9年)3月に、イギリスの世界最大の海運会社ピー・アンド・オー社が、 上海~横浜航路だけでなく、大阪~東京航路と日本国内航路にも進出した。郵便汽船三菱会社は早くも危うくなったが、大胆なリストラと徹底的な経費削減を実施して、岩崎弥太郎社長自身も50%減給、全社員も給与33%カットになった。また、新規顧客確保と、安全運航の徹底を行い、同年9月にはピー・アンド・オー社が上海~日本航路から撤退したのだ。

 この勝利は社員の奮闘の賜(たまもの)であると、社員の働きを上・中・下と査定した上で、年末に「賞与」を支給した。約1カ月分の給与だったそうだが、いわゆる特別ボーナス。ただし、毎年ボーナスが支給されるようになったのは明治21年からとされている。

 (参考) 三菱広報委員会

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