井上馨 (志道聞多、井上聞多) 詳細版 明治維新の原動力となった長州藩の偉人


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 井上馨(いのうえかおる)は、長州藩士・大組の井上光亨(井上五郎三郎、100石)の次男として、周防国湯田村(現山口市湯田温泉)にて1835年11月28日に生まれた。
 幼名は井上勇吉。通称は長州藩主・毛利敬親から拝受した井上聞多。諱は惟精(これきよ)。

 井上家は、田や畑を持った地侍であった為、幼少時代は農耕にも従事したと言う。

 1851年、兄・井上光遠(井上五郎三郎)と共に長州藩の藩校・明倫館に入学。

 1855年、21歳の時、養子に出されて長州藩士・志道慎平(大組・250石)の娘と結婚し、養嗣子となった。
 井上家も志道家も藩祖・毛利元就以前から毛利家に仕えた名門の流れを汲んでおり、身分の低い出身が多い長州藩の志士の中では、恵まれた中級武士であった。

 1855年10月、藩主・毛利敬親の参勤交代で江戸に従うと、江戸にて同じ長州藩士の伊藤利助と出会い、岩屋玄蔵や江川英龍、斎藤弥九郎らに従事して蘭学や砲術を学んだ。

 なお、長州藩では1859年に吉田松陰が処刑されたが、井上馨は吉田松陰の松下村塾に入学はしていない。

 1860年、娘の志道芳子が誕生。なお、桜田門外の変で、大老・井伊直弼が暗殺されると、藩主の小姓役を任ぜられ、通称となる「聞多」の名を与えら志道聞多と称した。
 そして、毛利敬親に従って萩に帰国。
 長州藩の西洋軍事訓練にも加わり、1862年、毛利敬親の養嗣子・毛利定広(後の毛利元徳)の小姓役などを勤め、攘夷実行には海軍設立が不可欠と進言すると、海軍を学ぶこととなり再び江戸へ向かった。

 江戸遊学中の1862年8月、藩の命を受けて長嶺内蔵太・山田亦介と共に、横浜のジャーディン・マセソン商会から12万ドルで鉄製蒸気スクリュー船「壬戌丸」(全長70m、大砲4門)を購入。
 実はこの船、グラバー商会が手配した額は4万ドルで、マセラン商会は5.8万ドルの利益を上げている。
 山田亦介が最初の船長に就任したが、操船できる者は誰もおらず、徳川幕府の海軍奉行・勝海舟の操練所で機関学を教えていた庄内藩主・高木三郎を招いて、ようやく横浜から品川まで航海したと言う。

 その後、井上馨は、尊王攘夷運動の中心人物の1人として活躍するようになり、外国公使がしばしば武蔵国金澤(金沢八景)で遊ぶからそこで刺殺しようとした計画に乗ったが、久坂玄瑞が土佐藩の武市半平太に話したことから、無謀であるとして土佐藩主・山内容堂を通して藩世・毛利定広に伝わり、1862年11月31日、毛利定広の命で数日間の謹慎処分となった。
 謹慎中の同志は御楯組結成の血盟書を作リ、高杉晋作の「御楯組」に久坂玄瑞、大和弥八郎、渡辺内蔵太、志道聞多、松島剛蔵寺島忠三郎、有吉熊次郎、赤根武人、山尾庸三品川弥二郎らと参加。
 1862年12月12日、御楯組は品川御殿山のイギリス公使館焼討ちを行い、伊藤利助と共に火付け役を担当した。

 1863年、久坂玄瑞から佐久間象山の武備論を聞き及ぶと、井上馨は海外渡航を決意して、執政・周布政之助を通じて藩に嘆願。
 密航ではあるが、長州藩から許可を得て、伊藤利助・遠藤謹助・山尾庸三・野村弥吉(後の井上勝)ら、のちに長州五傑と呼ばれた逸材を誘い、横浜からなんとかイギリスへ渡航した。この時、妻・志道慎平の娘とは離婚している。
 また、イギリスに向かう際には、水夫と間違えられて? 船内で仕事もさせられたとも・・。
 しかし、グラバー商会などに取って日本や長州藩は良い取引相手だった為、一行はイギリスでも歓迎された。
 ロンドンでは英語を学ぶと共に博物館、美術館、海軍施設、工場などを見学して見聞を広めると、圧倒的な国力の差を目の当たりにして伊藤利助らと共に開国論(正義党)に転じた。

 やがて下関戦争が近いとの知らせを受けると、1864年3月、伊藤利助らと共に急遽帰国し、6月10日に横浜港に入ると、6月18日イギリス艦で豊後姫島まで送ってもらい萩へ戻った。
 7月21日に、脱走の罪で萩の実家に幽閉中の高杉晋作を訪問。
 8月4日、藩より外国艦との交渉をするように命ぜられたが、8月5日にはイギリス、フランス、アメリカ、オランダの四カ国の艦隊が下関を砲撃。8月7日には外国艦隊の兵士2000名が上陸した。
 8月8日から、高杉晋作、伊藤俊輔と共に講和使節としてイギリス艦に赴き、通訳として尽力。8月14日に講和条約が締結された。

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重傷を負うも高杉晋作と政権を奪取

 第一次長州征伐の際、9月25日に長州藩は毛利敬親父子の居館で会議を開き、参加した井上馨は極端に武備恭順を主張し、藩論は武備恭順の方針となった。
 その為、井上馨は毛利敬親と打ち合わせし、夜の20時すぎに湯田の自宅への約2kmの帰路の途中、中讃井の袖解橋付近で、撰鋒隊の壮士児玉七十郎ら数人に襲撃されて、瀕死の重傷を負った。

 この時、芸妓・中西君尾からもらった鏡を、懐にしまっていた為、急所は守ることが出来たようだが、意識がもうろうとしている所を、農民に発見されて自宅に運ばれた。
 余りの出血に兄・井上光遠に介錯を頼んだが、母親が井上聞多に覆いかぶさり、兄は振り上げた刀を納めたと言う。
 たまたま、美濃の浪人医師・所郁太郎が聞きつけて駆けつけ、焼酎で傷を消毒し、小さい畳針で縫合。
 傷6箇所、合計50針を縫合され、奇跡的に一命を取留めた。
 翌26日未明、開国派(改革派)の周布政之助が、藩が混乱している責任を感じて矢原の吉富藤兵衛宅の離れで自刃。

 怪我は回復したが、周布政之助の亡きあと、藩政は幕府との講和を模索する椋梨藤太俗論派が握ることとなり、井上馨は謹慎処分とされた。
 その後、身動きが取れなかったが、危険を感じた高杉晋作は俗論派の粛清から逃れる為、平尾山荘の野村望東尼の元で潜伏したのち下関に戻って、12月に長府功山寺で功山寺挙兵した。
 伊藤俊輔率いる力士隊、石川小五郎率いる遊撃隊も高杉晋作と連携した他、挙兵を聞いた井上馨・品川弥二郎・山田顕義河上彦斎奇兵隊も呼応し、付近の領民による義勇兵も集結した。
 そして、井上馨は諸隊の1つ、山口鴻城軍総督となった。大田・絵堂の戦いで俗論派の藩・正規軍との戦いに勝利した高杉晋作が長州藩の実権を握ると、藩論は開国・倒幕に統一された。

 1865年4月、井上馨は楊井謙蔵と共に外国人応接掛を命ぜられたが、長州藩の支藩である長府藩の領土の下関を外国に向けて開港しようと高杉晋作・伊藤俊輔らと計画すると、領地交換で長州藩領にしようとしていると攘夷浪士に非難され、身の危険を感じて当時天領であった別府に逃れた。
 別府では若松屋旅館の離れの2階に身分を隠して潜伏し、別府温泉の古湯楠温泉にてしばらく療養したと言う。
 5月に伊藤俊輔からの手紙が届くと長州藩へ戻った。京都では坂本龍馬中岡慎太郎の仲介で、西郷隆盛大久保利通小松帯刀桂小五郎薩長同盟を結ぶ。
 そして、坂本龍馬の仲介で、薩摩藩士になりすますと、伊東俊輔と共に長崎のグラバー商会から薩摩藩名義で汽船と小銃も購入した。

 1866年4月18日、越荷御用掛となり、下関伊崎・竹崎農兵管轄を命ぜられる。
 第二次長州征伐では芸州口で諸隊を指揮し、7月25日、安芸明石に進軍して、7月28日には折敷畑にて幕軍を破った。
 休戦に当っては長松文輔らと共に嚴島の大願寺にて、幕府の勝海舟と談判して交渉するなどし、長州藩を勝利に導いている。
 井上馨は桂小五郎より2歳下で、高杉晋作よりは4歳年上であった。

 1867年、イギリスのキング提督の長州藩訪問を饗応したのち、1月14日に京都に入ると、品川弥二郎と共に薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通らと密議した。
 その後、10月13日、薩摩藩に倒幕の密勅が下り、10月14日、徳川慶喜が大政奉還を上奏。
 長州藩・薩摩藩・土佐藩は兵力を京都へと派遣し、鳥羽伏見の戦いとなった。

 新政府が樹立すると、井上馨(32歳)は参与兼外国事務掛に任じられて九州鎮撫総督・沢宣嘉の参謀となり、長崎へ赴任。

 浦上四番崩れに関わった後、1868年(明治元年)6月、長崎府判事に就任して長崎製鉄所御用掛となり、新式銃の製作事業や鉄橋建設事業に従事。

 明治2年6月、明治政府の意向で大阪へ赴任すると、7月に造幣局知事へ異動となり、明治2年から明治3年(1869年~1870年)にかけて発生した長州の奇兵隊脱隊騒動を鎮圧した。

 この間、明治2年11月に死去した兄・井上光遠の家督を継ぎ、甥で兄の次男・井上勝之助を養子に引き取り、明治3年8月に大隈重信の仲介で元幕府交代寄合旗本で朝臣・新田俊純の娘・新田武子をみそめ、伊藤博文らの世話で結婚している。2人とも再婚同士だった。

 明治維新後は木戸孝允(桂小五郎)の引き立てで大蔵省に入り、伊藤博文と行動を共にし、主に財政に力を入れた。

 明治4年(1871年)7月に廃藩置県の秘密会議に出席し、副大臣相当職の大蔵大輔に昇進。
 大蔵卿・大久保利通が木戸孝允や伊藤博文らと岩倉使節団に加わりヨーロッパへの外遊で日本を離れると、西郷隆盛らと留守政府を預かり、事実上大蔵省の長官として「今清盛」と呼ばれるほどの権勢をふるった。
 しかし大蔵省では予算問題で各省と衝突し、秩禄処分による武士への補償として吉田清成に命じたアメリカからの外債募集も上手くいかず、明治政府の財政は困窮。
 緊縮財政の方針を取ったが、明治6年(1873年)に予算問題や尾去沢銅山汚職事件を追及され、5月に右腕とする渋沢栄一と共に辞職した。

 その後、明治6年9月に岩倉使節団が帰国して、征韓論を巡る争いで西郷隆盛、板垣退助らが下野したが、既に政府から離れていた井上馨は関係なかった。

 井上馨は理財の才に優れていたことから、一時実業界にあったが、伊藤博文の強い要請のもと政府に復帰し、辞任していた木戸孝允と板垣退助を説得し、明治8年(1875年)の大阪会議を実現させた。

 明治9年(1876年)には、正使・黒田清隆と共に副使として朝鮮に渡り、2月に日朝修好条規を締結。
 6月に欧米経済を学ぶ目的で妻・武子と養女・末子、日下義雄らと共にアメリカ合衆国へ渡航。その後、イギリス・ドイツ・フランスなどを外遊し、中上川彦次郎、青木周蔵などと交流した。
 その旅行中に木戸孝允が死去し、西郷隆盛の西南戦争勃発や、大久保利通暗殺などで日本が政情不安になったと伊藤博文から伝えられ、明治11年(1878年)6月にイギリスを発って帰国の途につき、7月に日本に到着した。

 そして、参議兼工部卿に就任したのち、明治12年(1879年)に外務卿へ転任。
 当時日本が諸外国から押しつけられていた不平等条約改正のため、まずは日本を欧米化するべく鹿鳴館に代表される、欧化政策を進めた。
 明治18年 (1885年)、伊藤博文が内閣総理大臣に就任すると初代の外務大臣に就任し、引き続き条約改正に専念した。

 しかし、極端な欧化主義が避難の的となり、明治20年(1887年)に改正案が漏れると、裁判所の判事に外国人を採用するなどの内容に反対運動が起こり、9月に外務大臣を辞任し、条約改正は失敗した。

 明治21年(1888年)、黒田清隆が首相になると、黒田内閣で農商務大臣として復帰したが、政党設立計画の反対や、大隈重信の条約改正案に不満を抱き、病気を理由に閣議を欠席。
 このように内閣崩壊の原因を作り、大隈重信が襲撃され、右脚切断の重傷を負うと黒田内閣は総辞職。
 井上馨も失脚し、鹿鳴館も明治23年(1890)に閉鎖。

 その後、しばらくたった明治25年(1892年)8月8日、伊藤博文の第2次伊藤内閣とて政界に復帰すると内務大臣に就任。
 11月27日に伊藤博文が交通事故で重傷を負うと、翌明治26年(1893年)2月6日まで、2ヶ月余り、井上馨が総理臨時代理を務めた。

 明治27年(1894年)7月に日清戦争が勃発し、戦時中の10月15日に内務大臣を辞任して、朝鮮公使に転任。
 陸奥宗光と共に伊藤博文を支え、翌明治28年(1895年)8月の終戦まで公使を務め、特命公使・小村壽太郎を支援した。

 明治31年(1898年)1月、第3次伊藤内閣となると大蔵大臣に就任し、政友会結成にも関与した。

 明治34年(1901年)に、第4次伊藤内閣が崩壊すると組閣命令をを受けたが、渋沢栄一が蔵相就任を断ったため辞退して、後輩の桂太郎を首相に推薦し、第1次桂内閣を成立させた。
 桂政権では日露戦争直前まで戦争反対を唱え、危険な立場に置かれたが、明治37年(1904年)に日露戦争が勃発すると戦費調達に奔走して国債を集め、足りない分は外債を募集するなど、日本銀行副総裁・高橋是清を通してユダヤ人投資家のジェイコブ・シフから外債を獲得すめなどの功績を上げた。

 明治40年(1907年)侯爵。

 明治41年(1908年)3月、三井物産が建設した福岡県三池港の導水式に出席した際、尿毒症となり重体に陥ったが回復し、明治42年(1909年)、伊藤博文が暗殺されると西園寺公望や松方正義などと共に元老として、日本の政財界に絶大な影響力を持ち、山縣有朋とともに過去の汚職にも関わらず絶大な存在感を示した。

 明治44年(1911年)5月10日、維新史料編纂会総裁に就任。

 明治45年(大正元年・1912年)の辛亥革命では革命側を三井物産を通して財政援助。

 大正2年(1913年)に脳溢血に倒れて左手に麻痺が残った為、以後の外出は車椅子の移動となった。

 大正3年(1914年)の元老会議では大隈重信を推薦し、第2次大隈内閣を誕生させたが、大正4年(1915年)7月に長者荘で体調が悪化し、9月1日に79歳で死去した。

 葬儀は日比谷公園で行われ、遺体は東京都港区西麻布の自宅近くにある長谷寺と、山口県山口市の洞春寺に埋葬された。戒名は世外院殿無郷超然大居士。

 大正4年に81才で亡くなった後、麻布の邸宅近くの長谷寺に埋葬され、現在も「従一位侯爵井上馨墓」が建っています。

 井上馨によって建てられた湯河原の別邸「清光園」は、現在宿泊施設として一般客も泊まる事ができる。

征韓論とは西郷隆盛VS大久保利通・岩倉具視の戦い

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