幻庵とは~百田尚樹さんの小説「幻庵」に登場する江戸後期の囲碁名人


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文藝春秋より出版されている百田尚樹さんの小説「幻庵」(げんなん)と言う人物に関して調べてみました。

幻庵(げんあん)と聞くと、戦国時代の北条家の一族である「北条幻庵」を思い浮かべてしまいますが、どうも、幕末のちょっと前くらいの江戸時代に活躍した囲碁棋士だったようで、隠居後の号が幻庵(げんなん)だったそうです。

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一般的には、井上幻庵因碩(いのうえ-げんなん-いんせき)と呼ばれます。
その井上家は、囲碁の家元で、代々因碩を名乗ったため「井上」と「因碩」は、受け継がれている名であり、すなわち「幻庵」がこの囲碁棋士を示す固有名となります。
なお、本名は別にあった訳ですが、実名は不詳ですが姓名は橋本と言ったようです。
出生地も不明ですが、誕生年は1798年(寛政10年)で、没年は1859年(安政6年)とわかっており、6歳の時に井上家の外家である服部因淑に入門しました。

そして、幻庵はまたたくまに頭角を現し、文化6年(1809年)、12歳で初段となって、師の因淑の元の名を受けて「因徹」を称しています。

1810年、13歳のときに服部家の養子に受け入れられて、服部立徹と改名し跡継ぎと目されます。

文政2年(1819年)には、井上家の養子となったようで。井上安節と称しました。
なお、この頃には毎日の修行により、奥歯4本も抜けていたと言いますが、五段にもなり御城碁にも初出仕。

御城碁(おしろご)と言うのは、毎年1回、囲碁の家元四家の代表が、江戸城・本丸御殿にて徳川将軍の御前で真剣勝負する対局のことを言います。

初出仕の際、幻庵は本因坊元丈(ほんいんぼう-げんじょう)と対戦しています。

戸谷丈和(本因坊丈和)とも囲碁の地位を争いましたが、幻庵の35勝28敗3持碁4打ち掛けであったとあります。

天保10年(1839年)に本因坊丈和が引退すると、幻庵は名人碁所の願書を提出します。
しかし、本因坊丈策が地位を譲ると言う密約を守らず、異義を申し出たため、天保11年(1840年)に丈策の跡目で当時21歳の秀和との四番争碁を打つことになりました。
秀和が先4目勝ちとなり、更には途中2度下血した幻庵は、名人願書を取り下げています。

その後、天保13年(1842年)にも秀和と2度対局しましたが、秀和の先番を破れず、名人碁所を断念しました。

この名人碁所と言うのは、そもそも碁所(ごところ)と言う御城碁の管理、全国の囲碁棋士の統括を行う江戸幕府の役職がありました。
いわば、囲碁の世界の最高権力者と言える役職です。
囲碁(いご)だけでなく将棋(しょうぎ)も同様に、将棋所がありましたが、徳川家康は囲碁を好んだため、碁所のほうが格上だったと言います。
その碁所の役職に就くためには「名人」(9段)として認められることが必要だったのです。
この抗争は「天保の暗闘」として知られ、水戸藩主・徳川斉昭、老中・松平康任、寺社奉行なども巻きこんだものとなりました。

1846年に、江戸城で火災が発生し、幕府は財政が厳しい諸大名に修繕を命じたため、幻庵は上書を提出します。
そのため、罰せられて井上家は閉門となりました。
しかし、将軍・徳川家慶は諸侯への課金を減じて、幻庵も許されたので、その名が大いに知れ渡ったとされます。

古典名局選集の英傑幻庵因碩や剛腕丈和、幻庵因碩打碁集などでも知られる幻庵は、嘉永元年(1848年)に隠居しますが、1853年には清国へ渡航しようとして玄界灘で暴風雨にあい断念するなど、オモシロイ行動も垣間見えます。

このように江戸後期は、囲碁がスゴクはやった時代で、囲碁隆盛の中心をなしたのが幻庵であったとの事です。

幻庵はげんあんでも、戦国時代の北条幻庵に関してはこちら

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