江戸時代の武士は何を学んだのか? 武士の学問




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 今回、コメント欄から高橋様よりご質問を賜りました。

 ご質問の趣旨は、江戸時代に幕府に仕えた武士、すなわち「旗本」などが何を学んだのか?と言う事でして、お調べしてみました。

 私も、江戸時代を含むあとの時代は専門と言う事ではなのですが、幕末吉田松陰勝海舟が何を学んだかで分かるように、調べて見ますと武士はやはり「儒学」を一番に学んだようです。

 もちろん、幼い頃にはまず「読み書き」から入ったものと推測致します。

儒学とは

 さて、儒学はなんぞやと言う事ですが、簡単に申しますと、主家への忠義を重んじて、親に孝行すると言う「人の上下関係」を説いたものです。
 武家社会は、領主が土地を所有し、農民を直接支配する「封建社会」ですので、儒学の中でも、4道徳や礼儀によって社会秩序を守ろうとする「朱子学」が特に適していたのでしょう。

 林羅山といった朱子学者によって、江戸初期に取り入れられ、江戸幕府を支える学問となりました。
 しかし、徳川幕府に仕える武士だけが特別に学ぶものではなく、日本全国の武士が共通して必ず学んだと考えてよく、幕府の武士だけが何か学ぶと言う学問は確認できませんでした。
 江戸に生まれた武士の子は、親から学ぶのが困難だった場合には、朱子学者の私塾に赴いて勉学したものと推測致します。

 よって、江戸時代の武士に対しては「儒学」や「朱子学」を主に学びました。
 吉田松陰も父・杉百合之助から儒学を教わり、また赤穂浪士の話など、忠義を大切にすると言う事を学んでいます。


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 儒学が根底にありますが、あとは、その家の仕事上で必要な事項を学んだのでしょう。
 剣術は武士の基本ですが、勘定方の家であれば算術・そろばんを学んだ事でしょう。

 江戸時代もだいぶ進むと、1790年に昌平坂学問所のような幕府の専門教育機関も登場し、各藩でも藩校が作られるようになって行きましたが、それでも朱子学が奨励されています。

 しかし、武家に生まれた嫡男(長男)は、父の役職を継ぐことがほとんど約束されていましたので、もちろん勉学に励みましたが、その役に必要な事以外は好きでなければ疎かだったようです。
 なお、2男・3男となると「部屋住み」と言って、兄の世話になる厄介者ですので、平和な世に出世するには「学問」しかなく、才覚があると評価されれば、どこぞやの武家の養子となり、当主になれたため、自分の道を切り開くため頑張ったようです。
 部屋住みで出世した有名な人物と言うと、大老・井伊直弼が挙げられると思います。
 14男で32歳になるまでずっと部屋住みでしたが、くすぶることなく様々な分野に精通するほど極め、その聡明さから養子となって彦根藩主になりました。

 また、日本の農民や町民は10000軒あったとされる「寺子屋」で学びました。
 もちろん、家庭の事情で学べない子供もたくさんいましたが、幕末にペリー提督ハリス特使が来日した際、庶民でも文字の読み書きできる日本人が多い事に、大変驚いたと言うので、江戸時代の日本は世界的に見ても、庶民の教育水準は悪くなかったと言えます。

 以上で、高橋様、よろしいでしょうか?
 ありがとうございました。

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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コメント

    • 高田哲哉
    • 2015年 4月 14日

    高橋さま、恐れ入ります。
    孝明天皇が攘夷方針になったのは、自分の代に神国・日本に夷人が入るのは、先祖代々に申し開きが出来ないと考えたからと言われています。
    そのため、当然条約締結も拒否したのでしょうが、岩倉具視らの意見も影響したとは思います。
    しかし、朝廷が条約締結を拒否したのは、公家のほとんどが外国人や蒸気船などを直接見たことが無く、その実力などを把握していなかったと感じています。
    そのため、京に近い神戸沖に米英仏蘭四カ国艦隊が進入したと徳川慶喜から話を聞くと、孝明天皇も勅許を出しました。
    福沢諭吉は、外国経験豊かでありながら新政府には出仕せず、民間で人材を育て、政府や役所に送り込んだと言う点では、こう言う人がいたからこそ、明治に日本は大きく発展することができたと感じております。
    それでは、また。

  1.  非常に勉強になりました。実に的を得た回答だと感じた次第です。何故、侍が、200年以上も支配層であり続けたのかその大きな理由の一つとして、礼節を極めて重んじた、侍のモラル,思想が貫かれていたからですね。隅々の藩まで。親子、兄弟、夫婦、主従関係が、厳密に儒学=朱子学によって決定されていたのですね。世の中、天と地、陽と陰、貴と賤があるように、人も生まれつき身分が決まっているということでしょう。言い換えれば、身の程を知る社会でしょうか。確かに、米を作って武士を食わせているのは、俺たち百姓だと主張する江戸時代の農民は、表立っては一人もいませんでしたね。侍の統治制度が、いかに盤石だったか思い知らされます。まあ、農民は五公五民の年貢さえつつがなく納められれば、後はお気楽の面もあったようですが、関東以南は、いいですけど、東北の農民は、ずいぶんつらい目にもあったのでしょうね。餓死者も多く出たようですし。また、本居宣長など、古事記、日本書紀、源氏物語などを、土台とする国学はどうだったのでしょう。やはり、お公家様と同じで幕府は、ほとんど興味を示さなかったのかもしれません。ただ、幕末、井伊直弼が朝廷の許しを得ずに修好条約を結びますね。すると朝廷側は、非難する。あれは、裏で岩倉具視などが、動いていたのでしょうか。やがて、維新を迎えますが、個人的には、西郷、大久保、坂本、松陰、勝ではなく、倒幕に関係はしませんでしたが、蘭学から英国の思想を学んで、あまねく人々を啓蒙した、福沢諭吉を支持したいですね。 また、忠臣蔵について知りたいことがあります。梅雨に入るころ、質問を許してくださるのなら、嬉しい限りです。

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